第二十八話 姫川舞衣の日常(朝)(後輩談)
舞衣の日常風景を書きたかった。
でも、登場人物は増やしたくなかった……。
「あ、小降りになってる……」
学校の最寄り駅の改札を通った私は、空模様を見上げてから傘を開きます。
駅から学校までは、徒歩で十分程度。家を出る時には粒のしっかりした雨が降っていましたが、今は小雨になっていますし、私の足元はレインブーツですから、心配無用でしょう。
先月までは汗ばむくらいに暑かったのに、梅雨入りした途端に肌寒くなるのは例年通りです。夏用制服の上は、カーディガンを羽織っています。
控え目に傘に降り注ぐ雨音を伴奏に、鼻歌を歌いながら学校へ続く道を歩き始めます。
「おはよう、舞衣」
「おはよう。菜々子」
後方から隣に並んでくれた友達に挨拶を返します。
剣崎菜々子。先輩と休日に尋ねて行った、剣崎呉服店のご息女です。運動が好きで、特に脚力が素晴らしく、陸上部に所属しています。彼女のポニーテールは、伊達ではないのです。
「私も、まーぜーてー!」
「杏子も、おはよう」
「おはよう、あんこ」
「おはよ――って、誰があんパンの具じゃい!」
間髪入れずに、もう一人のクラスメイト、田母神杏子が後方から襲来しました。
元気で明るいクラスのムードメーカーで、美術部に所属する芸術家です。
普段は機関銃のようにお喋りな杏子は、筆を持ってカンバスに向かうと、口に代わり手が休みなく動きます。彼女の運動着は、常にどこかが油絵の具で着色されています。
杏子はその名前の漢字のせいで『あんこ』と呼ばれることが多いです。本人はそれを持ちネタと考えており、『誰があんパンの具じゃい!』等と切り返して笑いを取りに行きます。
菜々子も杏子も、中学校からの友人で、幸運なことに、高校でも同じクラスになりました。
今の菜々子と杏子の挨拶も、最早、毎朝の儀式のようになっています。
イエーイ、といつものように菜々子とハイタッチを交わしてから、杏子が私に話題を振って来ました。内容は、予想通り、昨日の夕方の一件です。
「ねえねえ、姫! 聞いたよ、昨日の話! 『放課後の校舎の中心で愛を叫ぶ!』 私、もうビックリしちゃった!」
杏子は、私の苗字を一文字取って『姫』と呼びます。
「名は体を表すよねぇ」と良く分からない理由でした。姫川は名前ではなく苗字なので、誤用と思われます。
ちなみに、杏子は菜々子を『なーこ』と呼びます。
「私も聞いた。凄いよね、『放課後の校舎の中心で愛を叫ぶ』。もう、今日は一日その話で持ち切りなんじゃない?」
「ふふふっ。私も、最初にその話を聞いた時はビックリしたけど。愛を叫んだ先輩本人に確かめたら、噂の真相は、全然そんな色っぽい話じゃなかったよ。私の悪口――じゃないけど、それに近い事を言っていた人達に、ちょっと説教じみた話をしたんだって」
「なんだぁ。やっぱり、また噂話に尾鰭が付いたのかぁ。まあ、そんな事だろうと思ったけどねー」
三人で傘を並べて歩きながら、杏子がつまらなそうに口を尖らせます。
「でも、それって、八王子先輩が舞衣の事を大切にしているって証拠でしょ? 愛されてるね、舞衣は。そうそう、日曜日、お母さんが一緒にお店に来たって嬉しそうに言ってたよ」
「え! ちょっと待って、何それ、デートじゃん! 私聞いてない!」
菜々子が言うと、杏子が目と口を丸くして驚きます。
菜々子は口が堅いので、教室や他のクラスメイトが居る場所では、日曜日に剣崎呉服店に私と先輩が行った事を言わずに居てくれていました。
秘密にしていた訳ではないので、隠す必要もありませんが、積極的に言い触らす必要も無いので、二人にも話していませんでした。
菜々子の気遣いも、昨日の放課後の一件で予期せずに周知されてしまったのですが、杏子が聞いた話では、その辺りは伝わっていなかったのでしょう。
「ほら、この前、先輩の件で私が手伝ったでしょ? そのお礼ってことで、ランチをご馳走になっただけ。お昼に待合せて、夕方には解散だったの」
「いや、普通にデートじゃん、それ! 逆にそれだけって、八王子先輩、カイショー無しじゃん」
「私は、義理堅くて、がっついて来ないのは、好感持てると思うけど。舞衣はどう思ったの?」
「ふふっ。楽しかったよ。ほら、あのお店の餡蜜。また食べたいって思っていたから、願ったり叶ったりだったし」
菜々子と杏子とは、以前、三人で一緒にあのお店に餡蜜を食べに行った事があります。
「いいなぁ。私も誰かの奢りだったら、喜んで行く」
「今度、また先輩にご飯をご馳走になるチャンスがあったら、二人も一緒に行こうね」
「う~ん……。舞衣が仲良くしてるみたいだし、悪い人じゃないのは確かなんだろうけど……ねえ、あんこ?」
「そうだよねえ。ちょっとハードル高いって言うか……。逆に、ちょっと離れた場所から、姫と八王子先輩がイチャコラしてるのを盗み見てたい感じ?」
「私と先輩に、そんな関係を期待しても無駄です。まあ、仲良くしてもらってるのは否定しないけどね」
「相変わらず、姫は余裕だねえ。ちょっとは恥ずかしがったり、慌てふためいたりしてくれないと、私達が楽しめないじゃん」
「違うわ、あんこ。これが正妻の余裕なのよ。今回の噂話も、舞衣がその調子なら、皆が飽きるのも早そうね」
「また訳のわからないこと言って」
私と先輩をカップリングしたこの手の噂話は、枚挙に遑がありません。
しかし、事実として先輩と私は仲の良い友人関係ではありますが、現状維持で進歩も後退もなく、噂話の当事者である私が平然としているせいで、周囲がすぐに飽きてしまいます。
人の噂も七十五日と言いますけれど、今時の高校生は、その半分程度の期間で飽きてしまうでしょう。
「そうは言っても、姫。八王子先輩には、ちょこっと感謝した方がいいよ。正直、八王子先輩が居なかったら、姫の学校生活はもっと大騒ぎになってたと思うから」
「そうね。舞衣の人付き合いの良さは、裏を返すと、勘違い男子量産機だから。私達でガードしている数よりも、八王子先輩のお手付きって方が、牽制効果高かったしね」
杏子と菜々子が、何かしみじみと言います。
いや、その前に、聞き捨てならないワードが混入されています。
「……ちょっと待って、菜々子。私の聞き間違いじゃないよね? 先輩のお手付きって、何?」
立ち止まって二人に問います。
三歩先に進んだ二人が、一旦顔を見合わせてから、
「うん。私達が、舞衣の男避けのために流したデマ情報」
「もう、効果は抜群だーって感じ。それまでは、大体、一日平均五人らい居た『姫川舞衣と仲良くなりたい(あわよくば付き合いたい)』って男子が、一人か二人に減ったもんね」
満足げに晴れやかな笑顔を見せる二人に対して、私は頭痛を覚えます。
「待って待って。それも初めて聞いたよ?」
「そりゃ、初めて話したもん。先に言っておくけど、私達も、好き好んでやった訳じゃないよ? 姫と仲良いからって、ほぼ毎日、私達を仲介役にしようとする男子がこっちに来るもんだから」
「まあ、舞衣と付き合いたいって言うなら、私達の眼鏡にかなうスペックとステータスが無ければ、門前払いよね。結果、全員、没」
菜々子が両手の人差し指でバツ印を作ります。
「大体さ、姫と仲良くなりたいなら、玉砕覚悟で直接行くべきなのに。周囲の目が怖いからって、せこい真似するのが、姫が一番嫌いな事だって、どうして分かんないかな。少しは、ダイレクトアタックな八王子先輩を見習うべきだよね」
「でも、中には粘着質というか、諦めの悪い奴が何人か居たのよ。舞衣への片思いを下手に拗らせて、変な方向に突っ走られても困るから、どうしようかって、あんこと相談したの」
「それで、色々と対策案を出したんだけど、『もう姫は先輩の手籠めにされたっぽいから一縷の望みも無いよ』ってぶった切るのが一番かなって」
「あ、でも安心して舞衣。確定情報じゃなくて『かも知れない』って暈してるから大丈夫」
「もーまんたい!」
ドーン、と二人揃ってサムズアップを見せつけて来ますが、問題しかありません。
「もうっ! ちょっと二人、そこに正座しなさい!」
「逃げるよ、あんこ」
「あいあいさー!」
点在する水溜まりを避けながら、小走りで逃げ出す二人を、私も小走りで追い掛けます。
周囲が他愛もない噂話をするのは甘んじて受けますけど、こちら側から噂話を広めるのはいただけません。
でも、私の知らないことろで、二人に迷惑を掛けていた事を差し引けば、今回の件は不問とすべきなのでしょう。だから、私も本当に二人を怒っている訳ではありません。
それは二人も分かっていて、この追いかけっこは、様式美みたいなものです。
学校正門までの十数メートルを走ったことろで追い付き、
「今回は許すけど、もう二度とこんな事しないこと」
「「らじゃー」」
と言う小芝居を打ち終わり、再び三人で並んで昇降口へ向かって歩き始めた時、私は進行方向に先輩を見付けました。
先輩は、駅から見ると学校の反対側にあるコンビニエンスストアで昼食を買ってから登校するので、最寄駅から学校までのルートをオーバーランしてから、正門の反対側から登校する形になるのです。
「あっ……」
と思わず声を出してしまい、更に、無意識に一歩駆け出して、即座に立ち止まります。
しまった。
「うん? どしたの、姫?」
「……あ、ほら、あんこ。あそこに、八王子先輩が居るわ」
目敏い菜々子が、先輩を指さして杏子に教えます。
杏子も、菜々子が言わんとしている事をすぐに理解して、
「あー、なるほど。いやもう、ラブラブだねぇ。はいはい、いってらー」
「違うの! そんなのじゃなくて。偶然見掛けたから、挨拶だけでもしようと思っただけで、他意はないからね」
予想通りの二人の反応に対して、私は事実を述べているだけなのに、言い訳をしているように感じるのは何故でしょうか。
「分かってるわよ、舞衣。私もあんこも、舞衣が、愛しの八王子先輩を見付けて青春のリビドーを抑えられないの私! とか、変な勘違いしないから安心して、行ってきなさい」
「例えに具体的な悪意があるんだけど、菜々子」
「なーこ、リビドーって何?」
「リビドーって言うのは――」
「なーなーこー?」
「ごめん、ごめん。冗談よ。それより、いいの? 八王子先輩に挨拶に行くんじゃないの?」
「あ、そうだった。せっかくだし、二人も一緒に行こうよ」
「いやぁ……私となーこは、ちょっとまだハードル高いって言うか……」
「今度、ちゃんと紹介してもらってからにしましょう。朝のこの時間だと、ゆっくり自己紹介も出来ないもの」
私は、自分の交友関係の輪は積極的に広げることを信条としています。
その一方で、先輩の交友関係も少しずつで良いので、改善出来れば良いな、と考えています。余計なお世話かも知れませんが。
菜々子と杏子は、私の自慢の友達で、この二人なら先輩に紹介しても恥ずかしくないと考えているのですが、菜々子の言う事も尤もです。
「じゃあ、ちょっと行って来るね。またあとでね」
「はいよー。先に教室行ってるね」
「行ってらっしゃい」
二人と一時的に別れ、私は、小走りに先輩に向かいます。
先輩も、駆け寄る私に気が付いてくれて、気軽な感じで片手を挙げて挨拶してくれました。
私が二人と別れた後、菜々子と杏子がこんな会話をしていた事は、知る由もありません。
「あーぁ。見た、なーこ? あんなに嬉しそうな姫、なかなか見ないよね?」
「いいじゃない。ああやって仲睦まじい姿を見せ付けられれば、諦めがつく連中も居るでしょう」
「ねえ、なーこ。あの二人が付き合うか、ケーキバイキング賭けない?」
「賭けにならないわよ」
「ですよねー」




