05 老紳士と白い犬の秘密(後編)
――どうしよう、ついてきてる。
早足で廊下を進む私の後ろから、たったったっ、と床を鳴らす軽やかな足音と、かすかな気配がする。
ちらりと顔だけ振り返ると、視界の端に白いしっぽを揺らしながら付いてくる大きな犬の姿が映った。
私が振り向いたことに気づいた犬は、近くのソファや柱の陰にさっと隠れながら、ちらちらと様子を窺ってくる。そうして、私が再び歩き出すと、たったっ、とまたついてくるのだ。
どうすればいいのだろう、と焦りを覚える。
不思議なことに、あの犬を怖いとは思わない。けれど、相手は霊なのだ。
このまま祖父の所に戻って、祓ってもらうよう頼むか……いや、それも可哀そうな気がする。病室にはメグさんもいるから、「犬の霊がついてきた」なんて祖父に言えるはずもない。
なぜ、あの犬の霊は病院にいるのか。
何が理由で、成仏できずにいるのか――
「……」
意を決した私は、階段室の方ではなく、外に通じるドアから中庭に出た。
白い犬は相変わらず、とことこと付いてきている。その際、閉まったドアのガラスを通り抜けていたから、やっぱり霊なのだと実感した。
人気のない木陰のベンチまで来たとき、私はばっと振り返った。
数メートル先で、白い犬が左前脚を上げたポーズで固まる。
青い目が瞬き、はっと我に返り慌てて逃げようとするのを「待って」と呼び止めた。
一度逃げかけた犬は、そろそろとこちらを振り向いて、不思議そうに首を傾げた。まるで「見えてるの?」と言いたげな表情だ。もちろん見えていると答える代わりに頷くと、犬は緊張した面持ちでじりじりと少し後ずさった。
犬と対面した私は、祖父から貰った数珠をポケットの中で握りながら尋ねる。
「どうして、後をついてくるの? 何か私に用? ……もし、成仏したいのなら、おじいちゃんに頼んで供養してもらうから……」
しかし犬は、またもや不思議そうに首を傾げる。
言葉が分からないのかもしれない。それはそうか。犬だし。
どうしよう、と悩む私が口元に手を当てて考えていると、犬の目線がついと上がる。
何か上にあるのか、と思って上を見るが、何もない。それに犬は、今度は下の方へと視線を下げている。一体何を見ているのか――と、そこで気づいた。
犬の目線は、私の手の先、白いビニール袋を追っている。先ほど売店で買った物が入っている袋だ。
ふと、犬が冷蔵のショーケースの中をじっと覗き込んでいたことを思い出す。
私は袋から牛乳パックを一つ取り出した。犬の表情が、どこかぱっと明るくなった気がする。
「……牛乳、好きなの?」
尋ねると、犬はそわっとしっぽを揺らした。目線を逸らしながらも、時折チラッチラッと牛乳を見ている。
その様子に、私はふっと肩の力が抜けた。何だ、この子、牛乳が好きなんだ。
「いいよ。あげる」
声を掛けて牛乳を差し出すと、犬のしっぽの振りが早くなる。私は牛乳を地面に置いてそっと後ろに下がった。犬はそろそろと私の方へと近づいてきて、牛乳パックを大きな口でぱくりと加える。
「……あのさ。それあげるから、ちゃんと成仏しなよ」
わかった?と尋ねるが、わかったのかわかってないのか、犬はぺこりと頭を下げるように首を動かして、私の前から立ち去ってしまった。
「あ、しまった……」
牛乳が足りないと気づいたのは、祖父の病室の前に着いた時だった。
あの可愛らしい白い犬の霊を見送って安心したせいか、牛乳を一個あげてしまったことがすっかり頭の中から抜けていたのだ。
もう一度売店まで行くかとも思ったが、いったん祖父とメグさんに飲み物を渡してからにしようと思い直す。
病室に入ると、祖父とメグさんは話している最中だった。私に気づいた祖父が振り返る。
「おう、遅かったな」
「うん。ちょっと――」
答えかけて、私は固まった。
メグさんのベッドの傍らに、白い大きな塊がある。ふさふさのしっぽを揺らしているのは――先ほどの白い犬の霊だった。
「なっ……何で……!?」
驚く私に、祖父はにやにやとした笑いと浮かべ、メグさんは苦笑を浮かべる。
「すみません。もしかして、彼に牛乳をあげましたか?」
「あ……は、はいっ」
メグさんが示す白い犬。私が反射的に頷くと、メグさんは再度「すみません」と謝った。
「どうも食い意地の張った子でして……」
メグさんの言葉に、白い犬はしっぽでぱしりとメグさんの手を叩く。つんっと鼻先を高く上げてそっぽを向く犬の様子を呆気に取られて見ていると、メグさんは眼鏡の奥の目を柔らかく細めた。
「紹介しますね。彼は、私の犬神です」
雪尾と言います――。
少しだけ照れ臭そうに微笑みながら、メグさんはそう言った。
これが、私とメグさんと、『雪尾』という白い犬神との出会いだった。