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一二三  作者: さわいつき
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 その後二次会になだれ込んだ一行と別れたわたしだが、家まで送ると言い出した藤澤さんに、少なからず慌てる羽目になった。

 勤務先では公共の交通機関を利用しての通勤が原則なので、当然ながらわたしは電車組だ。家も駅から徒歩で五分程度という恵まれた環境なので、何の不便もない。遅くなったらなったで、電話をかければ父か母が車で迎えに来てくれるという至れり尽くせり。少なからずお酒が入っている藤澤さんに、わざわざ遠回りしてまで送って貰う必要はない。そう言って断ろうとしたのだ。

 けれどどこか不機嫌そうな藤澤さんは、何か言いたげにわたしの方を睨んでいた。開いているのかどうかと言うほどに細い目が僅かに開き、こちらを見据えていたのだ。これが結構怖くて、

「じゃあ、せめて駅まで」

とまで言われてしまっては断る事もできず、わたしは渋々頷くしかなかった。

 いつものように改札を抜け、乗る予定の電車がホームに滑り込んで来る。

「それじゃあ、ここで」

 と言って藤澤さんにお辞儀をした。のだけれど。驚いた事に、藤澤さんはわたしの肩を押して一緒に電車に乗り込んでしまった。

「駅まで送るから」

 どうやら藤澤さんは最初からわたしの自宅の最寄り駅まで送ってくれるつもりで、だから当然のように電車にも乗り込んだのだとしれっとしている。そんな事までしてもらう理由がないと言えば、

「好きな女の子が痴漢に遭ったりしないか、心配するのは当たり前だろう」

と返されてしまった。どこか怒っているようなその口ぶりに、わたしは思わず萎縮してしまう。男の人の考えている事なんて、分かるはずがないでしょう。心の中でそう呟きながら、ガラス越しに外を見た。

「別に、怒っているわけじゃないから」

 ガラスに映り込む藤澤さんの表情が、どうやら少し困っているらしい事が分かるのだけれど。

 先程キスされた事を思い出してしまったわたしは、今さらどういう反応を返せばいいのかが分からず、そのまま窓の外を流れて行く景色を眺めている事にした。




 電車に乗る前にメールで連絡を入れておいたお陰で、駅に着いた時には既に、ロータリーに父の車が停まっていた。

「父が迎えに来ていますから。送って頂いて、ありがとうございました」

 わたしの後に続いて改札を出て来てしまっていた藤澤さんに、改めてお辞儀をする。

「それでは、お疲れ様でした」

 ようやく納得してくれたらしい藤澤さんに簡単に挨拶をして、わたしは急いで父の車に向かう。一秒でも早く、藤澤さんから離れたいと思ったのだ。

「ふみさんもお疲れさま。あと、できればでいいんだけれど、明日九時にここで待っているから」

 明日は土曜日だから、仕事は休みだ。なのになぜ藤澤さんに会わなければならないのか。そう聞き返そうと思ったけれど、時既に遅し。言いたい事を言った藤澤さんは、小走りに改札を潜って行ってしまっていた。

 仕方なくもう一度体の向きを変えてみると、父が顰めっ面を浮かべている。どうやら藤澤さんの存在に気付いて、機嫌を損ねたらしい。助手席に乗り込むと、僅かに引きつった笑顔をこちらに向けて来た。

「さっきの人は、誰なんだ?」

「同じ会社の、藤澤さんっていう人で」

「ふじさわ?」

 藤沢と藤澤。口に出してしまえば同じ名字だ。父が驚くのも無理はない。

「一二三。あの、藤澤さんという人は、お前の何なんだ」

 とても不機嫌そうな父に、けれど答える言葉が見つからない。同じ会社に勤めていて、部署は違うけれど先輩で。そしてつい先ほど好きだと言われてキスをされたばかりで、返事もしていない。そんな関係を、父にどう説明すればいいというのか。

「とりあえず、会社の先輩」

「とりあえず?」

 怪訝そうに眉を顰める父。

「今のところは、そういう事で」

 わたしのかなり苦しい説明に、けれど父はなぜかそれ以上突っ込んでは来なかった。

 車の中でも帰宅してからもずっと、頭の中は明日の事でいっぱいだった。行くべきか行かざるべきか。行きたくない気もするけれど、お酒が抜けた状態の藤澤さんとちゃんとお話をしてみたい気もする。けれどあんな事をされて、のこのこと誘いに乗ってしまってもいいものだろうか。

 しかし、である。断るにしても、わたしは藤澤さんの連絡先なんて、知らなかったのだ。なぜ今まで気付かなかったのか不思議なくらいなのだけれど。

 自宅の電話番号は当然の事ながら、携帯電話の番号もアドレスも知らない。一方的な約束だったとは言え、明日行かなければ、無断ですっぽかす事になる。そうなれば、休み明けに会社で顔を合わせるのが今以上に気まずくなるのは必至だ。

 わたしは一人、ベッドの上に胡座を組んで、気付いた事実に頭を抱えたのだった。




 まんじりともしないまま朝を迎えたわたしは、ぼーっとしたままで家を出た。何か問いたげな父の視線を背中に感じたけれど、あえてそれを無視する。

 どんな顔をすればいいのだろうかと考えながら駅に着いたのは、八時五十五分。改札周辺に藤澤さんの姿は見当たらず、わたしはひとまずほっとした。のだけれど。

「ふみさん!」

 小さなクラクションの音の後、覚えのある呼び名を聞き覚えのある声が呼んだ。もしやと思い視線を廻らせると、てっきり電車で来るのだと思っていた藤澤さんが、シルバーグレーの車から降りて来るのが見えた。

「良かった。来てくれなかったら、どうしようかと思った」

 細い目がさらに細められ、どうやら笑顔になっているらしい。

「お断りしようにも、藤澤さん、さっさと走って行ったじゃないですか。連絡を取ろうにも、電話番号も知らないし」

 少しだけ愚痴めいた口調になってしまったのは、寝不足の八つ当たりだ。いや、そもそも原因が藤澤さんなのだから、正当な矛先と言えない事もない。

「ああ、そういえばそうだった。ごめん、ごめん」

 などと言って後ろ頭を掻く藤澤さんは、いつものスーツ姿ではなく、Tシャツの上からポロシャツを重ね、下はなんとジーンズだ。こう言っては失礼かもしれないけれど、スーツの時よりも格段に若く見える。

「今さら言っても仕方がないから、いいですけど」

 困っているのか困っていないのか今ひとつ分かり辛い藤澤さんの様子に、怒気が削がれてしまう。

 とりあえず駅前のコインパーキングに車を停め直して来た藤澤さんと一緒に、ロータリー沿いにある喫茶店に落ち着いた。大きめの窓と白を基調とした店内がとても明るくて、決して広くはないけれど開放的な印象を受ける。

 いい天気ですねとか二日酔いは大丈夫ですかとか、当たり障りのない事を言ったりしていたのだけれど、途中から藤澤さんが黙り込んでしまった。少し汗をかいているグラスの表面の水滴を指先でなぞりながら、次の言葉を探しているように見える。

「それで、昨日の返事とかは、もらえるのかな」

 そして沈黙を破ったのは、やはり藤澤さんで。

「え、と。お聞きしても、いいですか」

 なぜ、どうしてわたしなのか。どちらかと言えば内向的なわたしは、男性受けするような容姿も性格も持ち合わせてはいない。なのになぜわたしのどこを、藤澤さんが気に入ってくれたと言うのだろうか。

 藤澤さんは、昨日の本木さんが言っていたのと同じような事になるけれど、と前置きをしてから、あれこれと指折りしながら上げていく。日頃賛辞なんて受け慣れていないものだから、言われているわたしの方が恥ずかしくて、次第に顔が俯き加減になってしまった。

「あの、ですね。わたしの名前って、変だと思いませんか」

 子供の頃からどうしても好きになれなかった、ずっと劣等感を抱き続けていた名前。大人になった今でも気にしているのは、もしかするとわたしだけなのかもしれないけれど。

「一二三さん? いい名前だと思うけれど」

「え」

 いい名前だなんて、名付け親である祖母と両親以外から言われたのは初めての事だ。わたしはぱっと顔を上げ、藤澤さんの顔を真っ正面から凝視した。

「ひい、ふう、みい。全ての物事はそこから始まるわけだし。何よりも、優しい響きが好きだな」

 思いがけない一言に、わたしの視界がじわりと滲んだ。自分でも好きになる事ができずにいた一二三という名前を、好きだと言ってくれる人がいるなんて。

 ずっとこの名前が嫌いだった。いじめられた過去もその時に負った心の傷も、今でもはっきりと思い出せるほどに鮮明で。なのに嫌だ嫌だと言いながら、心のどこかではずっと、祖母と両親に対して申し訳ないという思いがあって。

「困ったな」

 藤澤さんが、視線を窓の外に向けて小さく呟いた。

「ご、ごめんなさい」

 急に泣き出してしまったわたしと一緒にいるだけで、きっと周りの人達は、藤澤さんに泣かされたのだと勘違いしてしまうだろう。

「いや、そうじゃなくて。そんな風に泣かれると、場所を弁えずに抱きしめたくなるから」

 びっくりして思わず身を引いて。涙なんて、すぐに止まってしまった。

「それで、返事は」

「え。あ、と。その。ありがとう、ございます」

 そう答えるのが精一杯だったのだけれど、藤澤さんが意図を掴みかねたように小首を傾げている。

「あ、あの。名前、を、好きだと言ってくださって、ありがとうございます」

「ああ、うん。でも好きなのは、名前だけじゃないと言うか、むしろふみさんの名前だから好きなんだけど」

 一瞬何を言われたのか分からなくて、ぽかんと口を開けてしまった。そしてすぐに藤澤さんが言わんとしている事に気づいて、かあっと顔に血が上る。

 必死に言葉を探す間、藤澤さんは、ただじっと待っていてくれた。

「あの、ですね。と、とりあえず」

「とりあえず?」

 一つ、大きな息を吐く。そしてまた胸一杯に空気を吸い込んで。

「ふみ、じゃなくて、一二三、って呼んでいただけますか」

 今のわたしには、それが精一杯の返事だった。




 休み明けの月曜日。会社で会った藤澤さんに

「一二三さん」

と呼ばれ、それを聞いていた周囲から冷やかされるのは、また別の話。

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