第63話 イリス=ヴァレナの戦い
虚界の空は、変わらない。
歪み、流れ、淀み続ける。
その中を――イリス=ヴァレナは、一人で進んでいた。
音はない。
足音すら、意識して消している。
気配も、魔力も、極限まで抑制。
“狩る側”の動きだ。
その瞳に宿るのは、静かな光。
だが、その奥には。
消えないものがあった。
――――――
(……ネメシス)
その名を思い浮かべるだけで、胸の奥がざらつく。
怒り。
憎悪。
そして――
喪失。
イリスは、ゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、かつての光景。
アストラの隠れ里。
穏やかな光に満ちた場所。
柔らかな魔力の流れ。
仲間たちの笑い声。
「イリス、また訓練?」
「ほどほどにしなさいよ」
そんな、他愛のない会話。
当たり前に続くはずだった日々。
――それが。
壊された。
唐突に。
一方的に。
「――ッ」
思い出す。
黒い影。
空を覆う異形。
そして、その中心にいた“存在”。
ネメシス。
ヴォイドを従え、蹂躙する者たち。
「弱い種族に、価値はない」
誰かが、そう言った。
その声を、今でも覚えている。
仲間が倒れる。
里が崩れる。
光が消えていく。
――守れなかった。
その事実が、胸に残っている。
「……」
イリスは、目を開いた。
揺らぎはない。
もう、あの時とは違う。
(情報は、十分)
理久から共有されたデータが、脳裏に浮かぶ。
四天王。
ルク=エリオスは主戦場に出現。
もう一体――
イグ=レイヴ。
未完成。
だが、成長型。
戦闘中に強くなる。
(放置すれば、最悪になる)
だから。
“先に潰す”。
それが、今回の任務。
(単独行動)
地球連合とは別ルート。
感知されにくい経路を使い、接近。
戦力を分散させないための判断。
(理久……)
彼の顔が、ふと浮かぶ。
あの少年。
異質な知性。
感情よりも、最適解を優先する視点。
だが――
「……嫌いではない」
小さく呟く。
あの判断がなければ。
この機会はなかった。
ネメシスへ。
“攻め込む”機会など。
(これは、アストラの戦い)
イリスの手が、わずかに握られる。
守るための戦いではない。
取り戻すための戦い。
奪われたものを。
奪い返すための。
「……」
気配が変わった。
前方。
歪んだ空間の奥。
“いる”。
間違いない。
(発見)
イリスは、動きを止めた。
魔力をさらに絞る。
気配を消す。
呼吸すら制御。
視線だけを、前に向ける。
そこにいた。
黒い影。
ネメシスの個体。
だが、雑兵ではない。
密度が違う。
存在感が違う。
「……」
イグ=レイヴ。
まだ若い。
だが、その魔力は明らかに異質。
揺れている。
安定していない。
それが逆に――危険。
(未完成)
だからこそ。
「今、仕留める」
イリスの目が細められる。
距離。
角度。
周囲の地形。
魔力の流れ。
すべてを一瞬で計算。
(先制)
一撃で決める。
それが、最適。
イリスの周囲に、静かに光が集まる。
アストラの魔力。
本来ならば、分かち合う力。
だが今は――
“収束”。
(全力)
躊躇はない。
相手は四天王。
加減する理由など、ない。
「――」
一歩、踏み込む。
その瞬間。
空気が変わる。
隠していた魔力が、解放される。
「――ッ!?」
イグが、顔を上げた。
気づく。
だが。
遅い。
「……ここだ」
イリスの声は、静かだった。
次の瞬間。
光が、爆ぜた。
一直線。
圧縮された魔力の奔流が、イグ=レイヴへと叩き込まれる。
虚界の空間を引き裂きながら。
逃げ場は、ない。
「――!」
衝撃が、周囲を吹き飛ばす。
空間が歪む。
地面が砕ける。
光が、すべてを塗り潰す。
先制攻撃。
最大出力。
「……」
イリスは、動かない。
視線だけを前に向ける。
結果を、見届けるために。
――戦いが、始まった。
爆ぜた光が、虚界の空間を焼き払った。
直線的に叩き込まれた魔力の奔流は、逃げ場を与えない。
地面が削れ、空間が歪み、その中心にいたはずの存在を――
「……」
イリスは、動かない。
視線だけを、煙の向こうに向ける。
(直撃)
間違いない。
四天王相手に出し惜しみはしない。
最初から、全力。
「――はは」
だが。
笑い声が、響いた。
「いきなり、やるじゃねぇか……!」
煙が、裂ける。
そこに立っていたのは。
イグ=レイヴ。
身体の一部は、確かに“削れていた”。
腕の外殻が砕け、内部が露出している。
だが。
「……効いてる」
イリスは小さく呟く。
それでいい。
致命傷じゃない。
それでいい。
「でもよぉ……」
イグが、顔を上げる。
その目に浮かんでいるのは、怒りでも恐怖でもない。
「面白ぇな!」
歓喜。
純粋な、戦闘への興奮。
「――ッ!」
次の瞬間、イグが踏み込んだ。
速い。
さっきまでの静止状態とは別人のような加速。
「……!」
だが。
イリスは動じない。
一歩、横へ。
最小限の回避。
「はずしたかよ!」
イグの拳が、空を裂く。
当たれば終わり。
だが、当たらない。
「遅い」
イリスが呟く。
同時に。
手刀が、振るわれる。
魔力をまとった一撃。
「――っ!」
イグが咄嗟に腕で受ける。
衝撃。
そのまま、吹き飛ぶ。
「ぐっ……!」
地面を削りながら、数十メートル。
それでも。
「……っは!」
すぐに、立ち上がる。
「いいな……いい……!」
その声に、歪みはない。
むしろ。
「強ぇやつだ……!」
楽しんでいる。
(……やはり)
イリスの目が細められる。
(成長型)
戦闘の中で、理解し、適応し、強くなる。
放置すれば、厄介になる。
だから。
「ここで終わらせる」
短く呟く。
次の瞬間。
イリスの周囲に、光が集まる。
今度は、直線じゃない。
「――ッ!」
複数。
同時に、異なる角度から。
「うおっ!?」
イグが反応する。
だが。
「甘い」
イリスの声。
タイミングを、ずらしている。
一つ目を弾いても。
二つ目が来る。
三つ目が来る。
「ぐっ……!」
光が、当たる。
弾かれる。
だが、完全ではない。
「……っ!」
削れる。
表面が、裂ける。
「チッ……!」
イグが舌打ちする。
だが、その目は。
「なるほどな……!」
むしろ、輝いていた。
「そういう戦い方かよ!」
理解が早い。
そして。
「なら――!」
踏み込む。
今度は、さっきよりも鋭い。
軌道が変わる。
フェイント。
変則的な動き。
「――!」
イリスが、わずかに反応する。
(変化している)
さっきまでの直線的な動きじゃない。
戦いの中で、学習している。
「っ!」
拳が、迫る。
速い。
さっきよりも、明確に。
「……」
だが。
イリスは、動かない。
最小限の動きで、回避。
そして。
「そこ」
一瞬の隙。
掌底が、腹部に叩き込まれる。
「――ッ!!」
衝撃。
イグの身体が、くの字に曲がる。
そのまま、吹き飛ぶ。
「がっ……!」
地面に叩きつけられる。
だが。
「……は、はは……!」
笑う。
苦しげに。
それでも。
「いいな……!」
立ち上がる。
ボロボロの状態で。
「どんどん、分かってくる……!」
魔力が、膨らむ。
さっきよりも。
確実に。
「強くなってる……」
イリスが小さく呟く。
事実だ。
目の前で、成長している。
だが。
「問題ない」
その声に、迷いはない。
「上回ればいいだけ」
シンプルな答え。
イリスの周囲に、さらに光が集まる。
密度が増す。
出力が上がる。
「――来いよ!」
イグが叫ぶ。
全身から魔力を噴き上げながら。
「もっと見せてみろ!」
その声に応じるように。
イリスが、一歩踏み出す。
「……望むなら」
静かに。
だが、確実に。
「見せてやろう」
その瞬間。
戦場の空気が、変わった。
優位は、変わらない。
だが――
相手は、確実に“伸びている”。
そして。
その先にあるものが。
わずかに、姿を見せ始めていた。
「もっと見せてみろ!」
イグ=レイヴの叫びが、虚界に響いた。
その声に呼応するように、魔力が膨れ上がる。
不安定。
だが、明確に“増している”。
「……」
イリスは、静かにそれを見据えた。
(来る)
直感ではない。
確信。
次の段階へ踏み込む兆し。
「――ッ!!」
イグが消えた。
踏み込み。
いや、それ以上。
さっきより速い。
さらに、軌道が読めない。
「……!」
イリスが、わずかに身を引く。
それでも。
「当たれぇッ!!」
拳が、掠めた。
「――ッ!」
衝撃。
初めて。
イリスの身体が、数歩分、押し返される。
「……」
静止する。
ダメージは浅い。
だが。
(届いた)
事実として。
「はは……!」
イグが笑う。
息を荒げながら。
「やっと……当たった……!」
その目には、明確な手応え。
そして――
「まだいける……!」
魔力が、さらに膨らむ。
制御が甘い。
それでも。
「……成長している」
イリスが、低く呟く。
想定通り。
だが。
(速い)
予想以上に。
「次!」
イグが踏み込む。
連続。
今度はフェイントを混ぜてくる。
左右。
上下。
変則的な軌道。
「――!」
イリスが、わずかに後退する。
回避。
防御。
だが。
「逃げてんじゃねぇよ!!」
イグの声。
苛立ち。
興奮。
それが混ざった、歪な熱。
「……」
イリスは、答えない。
ただ。
一歩、踏み込んだ。
「――!」
イグの目が見開かれる。
攻撃を受けるのではなく。
“迎えに行く”。
その選択。
「そこ」
短い一言。
拳と拳が、ぶつかる。
衝撃。
空間が、歪む。
「――ッ!!」
イグが、歯を食いしばる。
力は、拮抗しない。
押される。
それでも。
「……っ!」
耐える。
そのまま。
「まだだぁッ!!」
さらに魔力を引き出す。
限界を超えて。
膨張。
暴走しかける力。
「……」
イリスの目が、わずかに細まる。
(覚醒の兆し)
制御が崩れれば。
爆発的に伸びる。
だが、それは――
(危険)
長引けば。
本当に手が付けられなくなる。
「……終わりにする」
静かに告げる。
その声に、感情はない。
ただ、事実。
「――あ?」
イグが顔を上げる。
その瞬間。
イリスの周囲に、光が満ちた。
今までとは、密度が違う。
質が違う。
空間が、軋む。
「な……」
イグの表情が、初めて変わる。
理解が追いつかないという顔。
「……アストラの力」
イリスが、ゆっくりと腕を上げる。
「見せてやろう」
その一言と同時に。
光が、収束した。
圧縮。
限界まで。
「――ッ!!」
イグが動こうとする。
だが。
遅い。
「消えろ」
振り下ろされる。
その瞬間。
光が、爆ぜた。
――世界が、白に染まる。
音が消える。
空間が消える。
ただ、圧倒的な“力”だけが存在する。
逃げ場は、ない。
防御も、意味を持たない。
純粋な魔力の暴力。
「――――」
光が、消えた。
残ったのは。
抉れた大地と。
何もない空間。
そして。
「……」
そこに立つ、イリスの姿。
その前に。
イグ=レイヴの姿は、なかった。
完全に。
消滅していた。
「……終わり」
小さく呟く。
静かに。
何もなかったかのように。
その言葉を聞く者は、いない。
だが。
イリスは、ゆっくりと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは。
あの日の声。
『弱い種族に、価値はない』
「……そう」
静かに、呟く。
「なら」
目を開く。
その瞳に、揺らぎはない。
「お前たちは、価値がなかった」
皮肉でも、怒りでもない。
ただの結論。
事実としての言葉。
――――――
しばらくして。
イリスは、その場に膝をついた。
「……っ」
息が、わずかに乱れる。
魔力の消耗。
無視できない。
(……使いすぎた)
当然だ。
あの一撃は、出力制限を外した。
短期決戦のための手段。
その代償は、大きい。
「……だが」
視線を上げる。
遠く。
別の戦場。
ルク=エリオスのいる方向。
(まだ終わっていない)
四天王は、あと一体。
そして――
首魁。
「……合流する」
立ち上がる。
だが、すぐには動かない。
「少し……休む」
魔力の回復が必要だ。
無理をすれば、次に響く。
それは、許されない。
(理久……)
あの少年の顔が浮かぶ。
「……待っていろ」
小さく呟く。
「すぐに行く」
虚界の歪んだ空の下。
イリス=ヴァレナは、静かに力を整え始めた。
次の戦いへ。
すべてを終わらせる、その戦場へ。
お読みいただきありがとうございました!
この作品を
「面白い!」
「続きが気になる!」
と思っていただけましたら、
★評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。
皆さまの応援が更新の大きな力になります。
今後ともよろしくお願いします!




