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【最強】異世界でも「いい子」はやめます。~まずは契約婚した公爵閣下の胃袋を掴んで、私を虐げた家族は塩漬けにします~  作者: 河合ゆうじ


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第305話 揺り椅子

 かんなが木材の表面を滑る、シュッ、という湿った音が、風に乗って鼓膜を震わせた。

 歩道の端に、薄く削ぎ落とされた木の皮が散らばっている。

 カールした木屑の一つが、風に吹かれて私のブーツの爪先に当たった。

 鼻孔をくすぐるのは、乾燥した杉の香りと、塗りたてのニスの刺激臭だ。

 家具屋の軒先には、制作途中の棚や、修理を待つテーブルが雑然と並べられている。その中で、一脚の椅子だけが、通りを行き交う人々の視線を避けるように奥まった場所に置かれていた。


 アレス様が足を止めた。

 彼の視線は、その椅子に固定されている。

 飴色に磨き上げられた、ナラ材のロッキングチェア(揺り椅子)だった。

 背もたれは高く、緩やかな曲線を描いている。座面には厚手のクッションはなく、木板が臀部の形に合わせて窪んでいるだけだ。

 脚の下には、弓なりの部材が取り付けられている。

 アレス様は無言で店先に入り、椅子の前に立った。

 手袋を外し、アームレスト(肘掛け)を鷲掴みにする。

 力を込めて揺する。

 椅子はきしむことなく、重厚な音を立てて前後に揺れた。ゴトン、ゴトン、と床板を叩く音が規則正しく響く。

「……芯が太いな」

 彼が背もたれの支柱を指で弾いた。硬い音が返ってくる。

「接合部に釘を使っていない。組み木だ。これならガタが来にくい」

 店主が奥から出てきた。

 口に小さな釘を数本くわえ、手には金槌を持っている。彼は釘を掌に出し、愛想よく笑った。

「お目が高い。そいつは昨日仕上がったばかりです。十年乾燥させたナラを使ってるんで、狂いが出ませんよ」

「座ってみても?」

 私が尋ねると、店主はどうぞと手で示した。


 私はコートの裾を整え、椅子に腰を下ろした。

 木の硬さが腿の裏に伝わるが、曲線が体に沿っているため痛くはない。

 足で軽く床を蹴る。

 重心が後ろに移動し、視界が天井の方へ傾いた。

 すぐに重力が働き、前へ戻る。

 ゆらり。

 ゆらり。

 滑らかな揺れだった。

 背中を預けると、木の冷たさはすぐに消え、体温が馴染んでいく。

 アレス様が横からアームレストに手を置いた。

「どうだ」

「安定しています。酔うような揺れ方ではありません」

 私は揺れに身を任せながら答えた。

「座面の幅も広いので、膝掛けを使っても窮屈ではなさそうです」

 アレス様は頷き、自身も背面に回って構造を確認した。

「頑丈だ。大人が座っても、……あるいは、何かを抱えて座っても、バランスが崩れることはないだろう」

 何かを抱えて。

 その言葉に、具体的な主語はない。

 けれど、揺り椅子という家具が持つ機能と、その言葉が指し示す光景は、明確に一つの像を結んでいた。

 日だまりの中で、膝の上に小さな重みを乗せ、ゆっくりと揺れている時間。

 それはまだ、私たちの生活にはない時間だ。


「……場所を取りますね」

 私は現実的な指摘をした。

「執務室には置けませんし、寝室も家具が増えたばかりです」

「置く場所ならある」

 アレス様は即答した。

「東棟の二階。角の部屋だ」

 私は屋敷の間取りを思い浮かべた。

 東棟の角部屋。今は使われていない、空っぽの客間だ。

 家具はほとんどなく、埃除けの布がかけられているだけの空間。

「あそこは、朝日が一番早く入ります」

 私が言うと、彼は椅子の揺れを止めた。

「南の窓も大きい。冬でも昼過ぎまで日が当たる。……昼寝にはいい場所だ」

 昼寝。

 彼はそう言ったが、視線は椅子の座面ではなく、もっと遠い未来のどこかを見ているようだった。

 私は立ち上がった。

 椅子が軽く跳ね上がり、すぐに静止する。

「そうですね。あの部屋なら、この椅子も窮屈ではないでしょう」

 アレス様は店主に向き直った。

「もらう」

「ありがとうございます。配送はいかがなさいますか」

「公爵邸の東門へ。今日中に頼めるか」

「へい。梱包して、夕方の便で届けます」

 アレス様は支払いを済ませ、配送伝票にサインをした。

 インクが紙に吸い込まれていく。

 『東棟二階、南角部屋』という指定書きが、黒い文字で記された。


 私たちは店を出た。

 店主が早速、椅子に梱包用の厚紙を巻きつけ始めている。

 アレス様が手袋をはめ直した。

 革が擦れる音がする。

「……気が早かったか」

 彼が歩き出しながら、独り言のように呟いた。

 私はその隣に並び、彼の腕に自分の腕を通した。

「いいえ。良いものは、出会った時に確保しておくべきです」

「そうだな。木材は年々値上がりしている」

 彼は照れ隠しのような理屈を言い、私の腕を引き寄せた。

 通りの向こうには、雪を頂いた山脈が白く輝いている。

 空は青く、雲ひとつない。

 足元の石畳は乾いていて、歩きやすかった。

 タンプ、タンプ、という二人の靴音が、一定のリズムで響く。

 その音は、どこかで途切れることなく、道の先へと続いていた。

 私たちは言葉を交わさず、ただ繋いだ腕の温かさを確かめながら、屋敷への坂道を登っていった。

 夕方の風が吹き、どこかの家の煙突から、スープを煮込む匂いが漂ってきた。

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― 新着の感想 ―
不器用な公爵とお互いに心の傷を癒しながら、ゆっくり着実に心を通わせていくのが良かったです。かわいい赤ちゃんと揺り椅子を使う日が早く来ますように。
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