第5話 森の主
それは、熊に似ていた。
ただし、大きさは小屋の五倍はある。
全身を苔と岩のような甲殻に覆われ、背中からは折れた木が何本も突き出していた。
額には、赤く光る目が三つ。
森の主が、朝靄を割って姿を現した。
「……でかいな」
「呑気に感心している場合じゃないわ」
アイビーが俺の隣に並ぶ。
そこで、俺はあることに気づいた。
「アイビー。袖」
「え?」
「魔力が戻ったなら、剥がせるんじゃないか」
アイビーは、俺の袖を握ったままの自分の手を見下ろした。
それから、ものすごく渋い顔をした。
「……今、剥がさないといけない?」
「戦うのに邪魔だろ」
「…………そうね」
指が、名残惜しそうに一本ずつ離れていく。
最後の一本が離れるまで、やけに時間がかかった気がした。
◇◇◇
森の主が、咆哮を上げた。
空気そのものが震え、木々の葉が一斉に散る。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
速い。
あの大きさで、馬より速い。
「下がって」
アイビーが、一歩前に出た。
銀の腕輪が、朝日を弾いて光る。
「――【粘着】」
彼女が両手を地面につけた瞬間、森の主の四本の足が、ぴたりと止まった。
地面に、縫い付けられている。
昨夜の処刑隊のときとは、比べ物にならない。
足元の地面ごと、空間ごと、巨体を押さえ込んでいるのが分かる。
「……すごいな」
思わず、声が漏れた。
これが、魔力を取り戻した彼女の本来の力なのだ。
森の主が、苛立ったように身をよじる。
びきり、と嫌な音がした。
「っ……!」
アイビーの顔が歪む。
森の主は、自分の足の皮ごと、地面から引き千切っていた。
血が噴き出し、肉が裂ける。
けれど、その傷は見ている間に盛り上がり、塞がっていく。
数秒後には、何事もなかったように元通りになっていた。
「再生……っ。だから、騎士団でも倒せなかったのよ」
アイビーが、再び地面に手をつく。
縫い止める。
引き千切られる。
再生される。
同じことが、三度繰り返された。
そのたびに、アイビーの額に汗が浮かんでいく。
(……縫い止めても、自分の体ごと剥がしてくるのか)
厄介な相手だ。
倒しても再生する。
止めても、無理やり抜け出してくる。
だったら。
(倒さなければいい)
◇◇◇
俺は、周囲を見渡した。
森の主がなぎ倒してきた、何十本もの倒木。
足元に転がる、大小の岩。
そして、薄い土の下に広がる、硬い岩盤。
パーツは、いくらでもある。
「アイビー、もう一回だけ止められるか」
「止めても、すぐ抜け出されるわよ」
「一瞬でいい」
アイビーは俺の顔を見て、何かを言いかけて、やめた。
それから、小さく頷いた。
「……一瞬なら」
彼女が地面に手をつく。
森の主の足が、もう一度止まった。
その一瞬で、十分だった。
「――繋ぎ合わせる」
倒木が、宙に浮き上がる。
一本、また一本と、森の主を囲むように組み上がっていく。
隙間には、砕いた岩を。
底には、足元の岩盤を。
前世で作った、城のジオラマを思い出す。
骨組みを組んで、壁を貼って、継ぎ目を埋める。
ただし、今回は内側から出られないように。
数秒後、森の主は、巨大な檻の中にいた。
倒木と岩でできた、継ぎ目のない檻。
森の主が、檻に体当たりする。
みしり、と木が軋んだ。
(さすがに、あの力だと内側から壊されるか)
継ぎ目がない分、一点に力がかかると割れやすい。
プラモでも、接着しただけの部分は案外もろいものだ。
もう一手、何か欲しい。
そう思った瞬間、隣でアイビーが動いた。
彼女は檻に駆け寄り、両手を押し当てた。
「――【粘着】」
檻の表面を、淡い光が走る。
木と木の境目が。
岩と岩の境目が。
ありとあらゆる境目が、彼女の魔力で貼り固められていく。
森の主が、もう一度体当たりした。
今度は、軋む音すらしなかった。
「……塗装だ」
「とそう?」
「いや、こっちの話」
組んだだけのプラモでも、上からコーティングすれば、ぐっと頑丈になる。
彼女がやったのは、まさにそれだった。
「最後の仕上げだ」
俺は、檻の底の岩盤に手を当てた。
地面の奥深くにある、もっと大きな岩盤と、繋ぎ合わせる。
檻が、ゆっくりと沈み始めた。
地面に呑み込まれるように。
森の主の咆哮が、だんだんと遠ざかっていく。
やがて、檻は完全に地の底へ消えた。
あとには、平らになった地面だけが残った。
◇◇◇
「倒せないなら、しまっておけばいい。再生するなら、なおさらな」
俺は手についた土を払った。
「アイビーの【粘着】がなかったら、たぶん内側から壊されてた。助かったよ」
返事がない。
振り返ると、アイビーは平らになった地面と、俺の手を、交互に見つめていた。
「……ハル」
「ん?」
「あなた、自分が何をしたか分かってる?」
「檻を組んだだけだけど」
「檻を、組んだ、だけ」
アイビーは、俺の言葉をゆっくりと繰り返した。
騎士団が三度挑んで、三度逃げ帰った化け物を。
倒木と岩で閉じ込めて、地の底に沈めて。
それを「組んだだけ」と言う人間を、彼女はじっと見つめていた。
紫の瞳の奥で、何かが静かに決まったような気がした。
「……誰にも、渡さない」
「え? 何を?」
「なんでもないわ」
アイビーは、ふいと顔を背けた。
……ああ、そうか。
森の主の素材のことか。
あれだけの魔獣なら、甲殻だけでも相当な値がつくだろう。
地の底に沈めたのは、ちょっともったいなかったかもしれない。
「悪い。素材、取り出せないよな」
「……あなた、本当に変な人ね」
なぜか、ため息をつかれた。
そして、さっきは名残惜しそうに離した指が、もう一度、俺の袖をつまんでいた。
今度は、魔力を使っていないのに。




