第1話:メスを置かない理由
「――規則だ、エレノア。そこを離れなさい」
頭上の見学バルコニーから降ってきたのは、怒声ではなく、冷徹な一言だった。
声の主は、王立病院の総院長であるグレイブ男爵だ。その横には、実力も実績もない筆頭執刀医の男が、どこかホッとしたような顔で立っている。
「女性医師の単独執刀は法で禁じられている。破れば病院の信用に関わる。直ちに退出しなさい」
(信用、ですか)
私は心の中でそう呟き、手元の術野から一切目を逸らさなかった。
目の前に横たわるのは、事故で運ばれてきた青年だ。
右の胸腹部に激しい鈍的外傷。血圧は急降下し、腹部は膨隆している。
「助かる見込みがない」と他の男性医師たちが匙を投げ、放置されていた重患だった。
「……総院長。患者は腹腔内出血を起こしています。右葉の肝損傷、あるいは下大静脈からの出血です。あと三十秒で止血しなければ、確実に失血死します」
「だからこそだ。規則を破って女の貴様が触り、万が一のことがあれば誰が責任を取る? 執刀は筆頭執刀医に引き継がせなさい」
指示を受けた男の医師は、溢れ出る血を見て顔を青くし、執刀器具を持つ手さえ震わせているというのに。
「総院長、おやめください!」
その時、見学バルコニーの静寂を破って、一人の若い男が前に進み出た。
この病院の若き副院長であり、王立医療院から派遣されている貴族――ルシアンだ。
彼は必死な眼差しで総院長を見据え、私を庇うように声を張り上げた。
「今メスを置かせれば患者が死にます! 彼女の技術は本物だ、責任なら私が取ります!」
「黙れルシアン副院長! 青二才が口を挟むな! 男の医師たちの面目を潰す気か!」
ルシアンは必死に食い下がろうとしたが、古い権力を持つ老害医師たちに取り押さえられ、制止されてしまう。
悔しそうに拳を握りしめるルシアンの視線と、私の視線が不意に交差した。
(ありがとう、ルシアン様……)
私を『優秀な一人の医師』として正当に評価しようとしてくれた、唯一の人。
彼が庇おうとしてくれただけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。
「……エレノア」
脇に控えていた事務官が、冷淡な手つきでカルテの執刀医欄に筆を走らせる。
『執刀医:筆頭執刀医 〇〇/助手:エレノア』
私がどれだけ夜を徹して症例を研究し、血の滲む努力で技術を磨いても、記録はいつだってこうして書き換えられてきた。
私の存在は、彼らの功績を引き立てるための「都合の良いゴースト」に過ぎないのだ。
「エレノア、聞こえないのか。メスを置きなさい!」
規律を盾にした命令。
だが――私の手は止まらなかった。
「……お断りします」
「何……!?」
「私が今ここでメスを置けば、この患者は死にます。規則よりも、面目よりも、今この瞬間途絶えようとしている命を救うことの方が……私にとっては遥かに重要です!」
私は呼吸を整え、手元の開腹部へ集中力を注ぎ込んだ。
(損傷部位は……やはり肝静脈の分岐部……!)
暗く衛生環境も劣悪な手術室。
だが、私の指先は迷わない。
クーパー鉗子で組織を迅速に剥離し、出血点をピンポイントで圧迫。視界を遮る血をガーゼで吸引しながら、特殊な縫合糸を滑らせる。
通常なら男の医師が数人がかりで三十分はかかるであろう複雑な脈管形成を、私はわずか数十秒の精度で完了させていく。
ピタリ、と。
あれほど溢れ出ていた鮮血が、嘘のように止まった。
「……なっ!?」
「出血が……止まった……だと……!?」
バルコニーで見下ろしていた医師たちが息を呑む。
私は止血を確認すると、手早く腹膜を縫合し、閉腹処置を完了させた。
「バイタル安定。……処置、完了しました」
静まり返る手術室。
私は血に染まった手袋を脱ぎ、見学席へ向かって静かに告げた。
「患者の命を救うのに、性別は関係ありません。……違いますか?」
総院長の顔が、屈辱で激しく歪んだ。
「……増長するなよ、エレノア。どれほど腕が立とうと、規則を乱す者は我が病院には不要だ。……本日をもって、貴様を王立病院から永久追放とする!」
「総院長……!?」
「実績はすべて我が病院の指導によるものと記録する。貴様は二度とこの国で医療に携わることはできん。……出て行け!」
言い渡されたのは、理不尽な追放宣告。
◇
病院の外に出ると、そこには冷たい雨が降っていた。
手柄を奪われ、職場を追われ、行き場を失った私。
「エレノア! 待ってくれ、エレノア!」
雨の中を、後ろからルシアンが必死に追いかけてきた。
高級な上衣を雨で濡らしながら、彼は私の前で立ち止まり、痛烈な悔しさを滲ませた顔で頭を下げた。
「すまない……! 俺に権威がないばかりに、君を守れなかった……! 君のような優秀な医師を失うなんて、この病院は狂っている……!」
自分のことのように悔しがり、拳を震わせるルシアン。
そんな彼の姿に、私は静かに首を振った。
「頭を上げてください、ルシアン様。……私を庇おうとしてくださって、本当に嬉しかったです。でも、私は後悔していません。あの方が生き延びてくれた……それだけで、私の選択は間違っていなかったと思えますから」
「エレノア……」
「お元気で、ルシアン様」
私は微笑みを残すと、彼の手を優しく振り払い、雨の街へと歩き出した。
冷たい雨が容赦なく身を打つ。
ポケットの中で冷たく収まっている小さな金属――幼少期からお守りにしていた『救済の銀メダル』を、私は強く握りしめた。
(私はただ……目の前の命を救いたかっただけなのに……)
極度の疲労と、どうしようもない徒労感。
視界がぐらりと揺れ、膝から崩れ落ちた瞬間――握りしめていた古びたメダルが、私の流した悔し涙に反応するように、眩く静かな青い光を放ち始めた。
(……え?)
身体がふっと軽くなり、意識が深い光の穴へと沈んでいく――。
◇
「――おい! 大丈夫? しっかりしなさい!」
凛とした声と、眩しい光で目が覚めた。
目を開けると、そこは見たこともない場所だった。
雨を弾くガラスの天井。壁には無数の光る板が取り付けられ、見たこともない機械音が一定のテンポで鳴り響いている。
何より、部屋全体が清潔な匂いに満ちていた。
「意識が戻った? 良かった……病院の敷地内で突然倒れてたのよ。立てる?」
声をかけてきたのは、綺麗な青いスクラブを着た女性だった。
胸元のネームプレートには【救急救命科 医師:佐藤】と刻まれている。
その時、激しいサイレンの音とともに搬送ベッドが滑り込んできた。
「佐藤先生! 交通外傷、バイタル低下してます!」
「すぐ救急処置室へ運んで! 私が執刀するわ!」
佐藤医師は即座に指示を出すと、周りの男性医師たちを従えて爆速で走り出した。
呆然と立ちつくす私の視界に、その光景が強く焼き付いた。
(女性が……当たり前に『執刀医』として、命を救っている……!?)
ここが、私の運命を劇的に変える舞台――「現代の日本」であると知る由もなかった。




