第37話:聖都の聖断 ――アルバン枢機卿と法皇の決断
沈黙は、音の欠如ではない。
それは、問いが発せられぬまま積み重なる状態――信仰が、自らを疑い始めたときに生まれる重さだった。
聖都ラグニアは、表向きには平静を装っていた。大聖堂の鐘は変わらず時を告げ、聖職者たちは定められた祈祷文を唱える。
だが、その中心に座す者――大法皇エル=マルティスだけは、もはや同じものを信じてはいなかった。
地下五層《聖統地底回廊》で起きた異変。止まった魔法陣。理解を拒む裂け目。そして、そこから零れ落ちた、鉄の冠を戴く腐肉の異形。
あれは、神ではない。
「……奇蹟とは、我らのために起こるものなのか」
その迷いは、当然、枢機卿会議にも影を落としていた。
福岡から持ち帰られた「停戦条件」。特に、第四項の戦争責任条項と、第三項の《原初大奇蹟魔法陣》再成就放棄は、教条主義派の逆鱗に触れた。
「停戦など、論外です!」
赤衣の枢機卿マルセル・ド・ヴァリウスではなく、その下の急進派が声を荒げる。
「福岡県なる異教の政体が、王を裁くなど! 神の秩序を人の法に委ねる行為だ!」
アルバン=リヴェール大枢機卿は、静かに反論する。
「敗北ではありません。生存です。我らは奇蹟によって勝利できなかった。ならば今は剣を収め、対話を選ぶべき時だ」
だが、議論は平行線のまま、会議は決裂に近い形で散会した。
その夜。
聖都の地下、封鎖された副回廊で、別の「確信」が静かに育まれていた。
老司祭オルディス=カレオンと、若き司祭ミルド=サーリクをはじめとする数名の聖職者。彼らは自らを教条主義派とは呼ばない。ただ「正しさを守る者たち」だと思い込んでいた。
「大法皇は、揺らいでおられる」
老司祭オルディスが、低い声で告げる。
「福岡との停戦。捕虜の引き渡し。王を裁かせること……それは、神の秩序を我ら自身の手で手放すことだ」
地下に残る、あの禍々しい魔力の残滓が、彼らの思考を歪めていく。理解しようとするほど、思考の一部が脱落し、過剰な“正解”だけが残る。
『迷いは、秩序を腐らせる』
『腐敗は、切除されねばならない』
若き司祭ミルドの手に、祝別された短剣が握らされた。
標的は――大法皇エル=マルティス。
血が流れること自体が、迷いを断ち切る象徴となる。彼らはそう信じ込まされていた。
深夜。大聖堂奥、聖具安置室へ至る回廊。
ミルドの足取りは、次第に現実感を失っていた。時間が伸び縮みし、短剣の感触が自分のものか分からない。
だが、その回廊の奥に、壁のように立ち塞がる影があった。
聖衛隊の槍列。そして――大枢機卿アルバン=リヴェール。
視線が交わる。アルバンは、即座に理解した。この若き司祭は、加害者である前に、地下の“何か”に壊されかけている。
「……剣を置け」
その声は、命令ではなかった。現実へ戻るための、最後の糸だった。
――カラン。
短剣が、石床に落ちる。
ミルドの膝が崩れ、聖衛隊が彼を拘束する。血は流れなかった。だが、露見したものは、血よりも重かった。
翌朝。大聖議場。
高窓から差し込む冬の光が、石床に細く落ちていた。大法皇エル=マルティスの御前に、停戦条文が上奏される。
暗殺未遂の事実が、教条主義派の急進的な声を封じ込めていた。自らの正義を刃に変え、法皇に向ける。それは信仰の守護ではなく、ただの反逆だ。
教条主義派主席、赤衣の枢機卿マルセル・ド・ヴァリウスは、終始、目を閉じていた。指一本、動かさない。賛同か、拒絶か。その沈黙が、逆に圧力を生む。
アルバンが進み出る。深く、頭を垂れる。
「至高にして慈悲深き大法皇猊下。東方の異邦地・福岡との最終条文にございます。ご聖断を、賜りたく存じます」
退路を断つ言葉。
大法皇マルティスの喉が動く。冷たい汗が頬を伝う。聖戦を終わらせるということは、自らの神託に終止符を打つことだ。
しかし。
疲弊した国。割れかけた教会。そして、地下で脈打つ制御不能の“何か”。いま必要なのは、炎ではない。
「――福岡との条文に、同意する」
その声は、震えていた。だが、確かに響いた。聖断が下る。
「聖断、ここに下る!」
総侍従長が高らかに宣し、聖都中央大聖堂の鐘が鳴り響く。戦を布告したときと同じ鐘が、今は戦を止めるために鳴る。
大法皇は立ち上がり、アルバンの前へ歩み寄った。
「アルバン=リヴェール。我が名において署名せよ」
震えを含んだ声。
「汝を、聖務総代理に任ずる」
法皇権威の全権委任。
それは栄誉ではない。異教徒の机にサインをするという大罪すら背負う、重責だった。
アルバンは膝を折る。
「この身、教会と国のために」
赤衣のマルセルは、なお沈黙する。その唇が、わずかに動いたようにも見えた。祝福か、呪詛か。誰にも分からない。
数日後。聖都の城門前。
重く曇った冬の空の下、アルバン=リヴェールは馬車に乗り込んだ。その胸には、法皇印章を納めた封印筒。
階上の回廊から、マルセルが見下ろしている。視線が交わる。言葉はない。だが、理解はある。
停戦は成立するだろう。だが、教条主義は死んでいない。沈黙は、退いたのではない。待っているのだ。
アルバンは振り返らず、前を向いた。
成功すれば、法皇国は時間を得る。失敗すれば、再び聖戦の火が灯る。
馬車は、静かに聖都を離れた。
銃を使わない戦争――その決着の地、福岡へ向けて。
法皇国で起きた不協和音。
それが決定的な決断へと動きます。
切っ掛けに過ぎないこの出来事が、多くの人の人生に影響を与える出来事になります。
現実の世界も似たことが多く起こりました。
そして今も。
いよいよ、不条理な争いは終息へと向かいます。
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本日も『福岡異世界転移史』をお読みいただき、ありがとうございます!
第一次西糸島事変――福岡の存亡を懸けた戦いは、小説家になろうに初転載になります。ファンタジーの不条理バグに対し、最後まで見届けていただければ嬉しいです。
順次、公開予定です! 面白かった! 続きが気になる! と思っていただけましたら、ページ下部より☆☆☆☆☆の評価とブックマークをよろしくお願いいたします。作者の執筆スピードが(魔法ではなく物理的に)加速します!




