87:// Neon Genesis SEPHIROTH
砂時計がゆっくりと回り、世界はここから始まっていく。
これは、誰にも語られることのない、二人の魔女の物語――
<1>
少女は過去の幻想を否定するように立ち尽くしていた。方角はなく、天地も分からない、真っ白な世界。霧の向こうから、一人の少年が音もなく現れた。少年はただ立ち尽くすだけの少女を見ると、少女の周りをより一層濃い靄で覆い隠して、その背後にそっと回り込んだ。
「だーれだっ?」
少年は自分の悪戯が上手くいったかを確かめるような子供じみた声で呼びかけた。少女は振り返ろうとしたが、靄が纏わりついて上手く首が回らず、少年の声など聞こえていないかのように目を閉じた。少年はしばらく何かを期待するような目でそれを眺めていたが、やがて諦めたように一度ため息をつくと、今度は少女の耳元で囁いた。
「ボクのこと忘れちゃった?」
温かくて柔らかい吐息が少女の髪を撫でる。少女は薄目を開け、真っ白な視界をぼんやりと見つめながら面倒くさそうに呟いた。
「……ありがとう。忘れないよ。」
その瞬間、霧は徐々に晴れていって――
<2>
少女が再び瞬きをすると、白く靄のかかった世界は無機質な灰色に変わっていて、少年の姿は影も形もなかった。少女はそんな灰色の中をあてもなく歩き続けていたが、どこまで歩いても景色は変わらず、不思議と足の疲労も訪れなかった。
ふと足を止めて周囲に目を向けると、地面の一段低くなったところに列車のレールが敷かれていた。上を向くと天井が、正面を向くと壁や柱があって、おそらくここが何かの地下にあることがわかる。少女はすでに凹凸のなくなった点字ブロックに沿って、その端に向かって再び歩き始めた。
やがて少女は一つの長い階段にたどり着き、見えない誰かに手を引かれるようにして一段ずつ上がっていく。天にも届きそうなほどの長さを歩き続けたとき、ようやく階段の終わりが見えた。少女が今まで上ってきた段を数え直そうと後ろを振り返ったとき、すでに階段はどこにもなかった。
<3>
階段の先にあったのは天空に浮かぶ神の国ではなく、気がつくと少女はコンクリートの上に仰向けになって倒れていた。その正面に広がる天球では、太陽と虹が輝く晴れた昼空と、星々とオーロラが輝く夜空がせめぎ合っていた。
少女はゆっくりと体を起こし。周囲に何があるかを確かめた。まず目に入ったのは座り心地の悪そうな椅子。その次に窓一つない壁と、四本のレール。少女がぼんやりとその光景を眺めていると、突然頭の中に声が響いてきた。
「――早くこっちにおいで。」
声に従って駅のホームを歩いていくと、これまでとは雰囲気の違う、展望台かプラネタリウムのような部屋にたどり着いた。部屋の中に声の主はいなかったが、全面がガラス張りの空間からは、先程は見えなかった壁の外の世界が見渡す限りに広がっていた。
<4>
少女がガラス窓に近づいて外の景色を見下ろすと、眼下には二本の線路が地平線の先までまっすぐと伸びており、その線路を挟んで右側と左側で世界の形は大きく違っていた。
左目に映るのは、青白くて細かい砂粒が形作る一面の砂漠。見たこともないような星座が天球を埋め尽くすように貼りついていて、ときどき落ちていく流星が、また新たな砂山となって世界の模様を描き換えている。その中心には星に届きそうなほど大きな樹が生えていて、枝葉がオーロラとなって夜空の隅々にまで手を伸ばしていた。
少女はその光景に得も言われぬ懐かしさを覚えながら、同時に揺らめく光に照らされてどこか不安になった。少女は一度深く息を吸ったあと、反対側へと目を向けた。
右目に映るのは、陽の光が反射して燦然と輝く鏡のような世界。空は青く明るく、たった一つの太陽が世界の全てを照らしていて、水面はその呼びかけに応えるように、まるで夜空に浮かぶ星座のように輝きを増している。空にはオーロラの代わりに大きな虹が架かっていて、空が落ちてこないようにその輝きで支えていた。
これ以上見るものはないとばかりに、少女が来た道を戻ろうとすると、そこには壊れた改札が一つだけ佇んでいた。改札は開いたままになっており、少女は特に意識することもなくその間を通り抜ける。特に何か料金を請求されることはなく、少女は来た道とは明らかに違う容貌をした渡り廊下を抜け、ついに駅の外へと飛び出した。
<5>
少年は雲一つない晴天を映す水鏡に腰掛け、光を遮るようにして顔の前に手をかざし、水平線の彼方に浮かぶ境界線を見つめていた。空は地面と同様にどこまでも蒼く、水平線は曖昧で、世界の全てを同じ色で塗りつぶしたようだった。
「もうすぐ着く頃かな。」
少年の視線が真上の太陽に向かい、次いで世界の端まで届こうとするような虹の根元に移った。陽の光は心地よく世界を熱し、虹は世界の果てを越えてオーロラと溶け合っている。少年は静かに立ち上がり、招かれた家の門をくぐるような所作で虹の表面に触れた。
次の瞬間、空から真っ白な車体の列車がゆっくりと降りてきて、少年の目の前に停車した。少年がその扉に手をかけると、車体の側面に一本の朱色のラインが浮かび上がる。
「さて、そろそろ歓迎会の準備といきますか。」
少年が列車に乗り込むと、列車は波の一つさえも立てずに、静かに空の上を滑り出した。
<6>
少女は透き通るような水面の上に立っていた。空からは白く鋭い光だけが降り注いでいる。足元の水面は光を反射しながら小さな波紋を広げていて、その上には天空を背負うような虹があった――先ほど改札を抜ける前の部屋で見た場所だ。
水面に足を乗せても沈まないことに少女が驚くのにはそれなりに時間がかかったが、そのすぐ後にはもっと驚くべきことが起きた。水平線の向こう側から、線路も何もないところを列車が滑って走ってきている。列車は少女の前までまっすぐに進み、ぶつかりそうになる少し手前で、車体を大きく振って向きを変えて停車し、少女の目の前に乗降口を晒した。
そんな乱暴なことこの上ない操縦でも水面は沈黙したままだった。少女も同じようにしばらく沈黙したまま、身じろぎ一つしなかったが、やがて我に返ったように列車の端から端までを眺めた。その瞬間、少女の目の前の扉が開いて、軽快な足音とともに少年が姿を現した。
「あかつき線をご利用いただきありがとうございます。たそかれ駅行きでございます。
――早くしないと遅れちゃうよ?」
<7>
少女が拒否する間もなく、気がつけば少女の身体はすでに列車の中にあった。アーチ状の天井からは暖かいオレンジ色の光が注がれ、床面には青灰色の絨毯が敷かれている。外見とは裏腹に、この列車には座席らしいものは一つもない。その代わりに、不自然なほど列車内の空気に溶け込んだ場違いなティーテーブルのセットが置かれていた。
「じゃあ、とりあえず着くまでお茶でもしてよっか。」
少年は椅子を指してそう言うと、何もないところに手を伸ばして、棚から物を取るような動作でティーセットを用意した。少女はその様子を不思議そうに眺め、自分も同じ場所に手を伸ばしてみたが、指が何かに触れることはなく、ただ空を切るだけだった。少女は大人しく椅子に腰掛けて待つことにし、視線をテーブルの上に戻したときには、すでに香り立つ紅茶とガトーショコラが並べられていた。
「どうしたの?」
「……なんでもない」
少年が少女の向かいの椅子に腰を下ろすと、どこかぎこちないお茶会が始まった。ティーセットが二人の周りを浮かんでいる。
<8>
お茶会が始まったあとも列車は光り輝く水面を音もなく走り続けていて、それでもティーカップの水面は地面と同様に、波の一つさえ起きなかった。少女が窓の外に目をやると、今まで雲一つなかった空にちらほらと白い綿のようなものが見え始めるようになっていた。
「そろそろ着くよ。」
少年が雲を見ながらそう言って数分後、列車がつんのめるようにして停車する。車内のものは車両の揺れなど感じていない様子だったが、少女の心臓は慣性の法則に従って大きく揺れ動いた。扉が開き、少女が列車から降りて水面に足をつけた瞬間、目の前にあったのは予想外の光景だった。
「久しぶりだね。元気そうで何よりだよ。」
そこには一匹の大きなドラゴンが寝そべっていて、足のところに少年が座っていた。少年の周りにはすでにたくさんの食べ物や飲み物が並べられていて、自宅の庭でホームパーティーでもしているような雰囲気だ。少女はそこに並んでいる料理をちらりと見て、すぐに少年に向き合った。
「あなたは誰? ここは夢の中?」
「キミはボクのことを忘れちゃったの? まったく、しょうがないなぁ……いいよ。教えてあげるからとりあえずご飯にしよ? ボク結構待ってたからお腹空いてるんだ。」
少年はドラゴンの足から降り、テーブルの縁を撫でながら大仰な仕草で一品つまむと口の中に放り込んだ。
<9>
少女は困惑した顔で、少年は対照的に楽しげな顔で、青空と湖の狭間でのパーティーを過ごしている。真上に浮かぶ太陽は傾く気配すら見せないまま、時間が経っているのかすらも分からない。少女が空を見上げると、様々な形をした雲が青空をキャンバスに思い思いの姿を描いていた。
「ねえ、あの雲って何?」
「……実はボクも全部知ってるわけじゃないんだよね。キミのほうが詳しいことだってあるんじゃない?」
少年はニヤリと意味ありげに笑うと、手に持っていたピザの切れ端を口に押し込みながら空を指さした。天球に張り付くように雲が浮かんでいて、風もないのに形を崩して散っていく。絵筆、子猫、イーゼル、ティーカップ、どれも見たことのある形だった。
「……えっと、全然意味分かんないんだけど、どういうこと?」
少女はきょとんとした表情で首を傾げながら少年のほうに向き直り、問いかけの意味を探るように少年の顔や態度を見つめた。少年はその視線に気がついたようで、少女に微笑みを返した。
「……ほんとにもう、キミってばボクのこと忘れちゃうし、自分のことも忘れちゃったの?」
少年は少女と同じ銘柄の紅茶をカップに注いで、昔話を思い出すように目を閉じて口をつけた。少年は紅茶を飲み終えると、ドラゴンの足に座り直して、静かに、楽しかった日々を懐かしむように語り始めた。
<10>
大きなテーブルの上にはまだ料理が残っていたが、少年が話をするうちにすっかり冷めてしまった。少年の口から語られたのは、どれも明るい話ばかり。しかし、少女にはどこか寂しい余韻の残る話だった。
「キミはさ、本当はもうとっくに気づいてるんじゃないの? ボクが誰かも、自分がなんでここにいるのかも。」
少年は一瞬だけ、答えを言ってもいいのか悩むように空に目を向けた。パレットの形をした雲が虹にぶつかってかき消される。だが、すぐにまっすぐ少女に向き直って最後の言葉を紡いだ。
「――キミはね、一回夢捨てちゃってるんだよ。捨てたっていうか、置き忘れてきちゃったって感じかな。だからこんなとこに迷い込んじゃったんだろうね。」
「……」
少女は下を向いて黙り込んだ。少年は組んでいた足をほどいて少女のもとまで駆け寄り、頬を突いたり手を振ってみたりして、近くにあった椅子に座らせると、ぶつぶつと呟きながら少女の目の前でパチンと指を鳴らした。
「あ、起きた?」
「……うん。それで、夢がどうこうってのはどういうこと?」
「そこまで覚えてれば大丈夫だね。それじゃ、ここからが今日の本題。さっきキミの夢は置き忘れられてるって言ったじゃん。ボクね、その場所知ってるんだ。」
「……だから?」
「ボクならキミをその場所まで案内してあげられるってこと。そうすればキミはこの世界から出て行けるってことね。」
<11>
少女は椅子に座ったまま少年の話を聞いていた。少年に渡されたティーカップが膝に置いてあるが、まだ口をつけてはいない。もうお腹がいっぱいだったのもあるが、少年の話を飲み込むので心が精一杯だった、というのが一番の理由だった。少年は久しぶりに会えた友人と話すような軽さで話を続けている。
「……まあ、別に今のままでもいいって本心から思えるんなら、わざわざ夢を取りに行かなくってもいいんだけどね。」
「あ、そうなんだ。てっきり夢取り戻すまで帰さないのかと思ってた。」
「ボクだってそんなに性格悪くないよ?」
少女は両手の中のカップに視線を落とした。カップにはまだ微かに温かさが残っていて、少年の語り口と同じくらいの温度だった。
「それではボクから最後の質問で~す。元の世界に戻ってそのまま人生進めるか、夢を置いてきた場所まで一旦戻るか。どっちがいい? あ、ずっとここに残ってボクとお喋りするってのも全然アリだよ!」
少年は笑いながら、「どうしても決められなかったら、なんか適当な……コインとかトランプとかで決めてもいいよ」と言うと、残り物の料理を手の一振りで片付け、新しい料理に入れ替えた。少女は空に浮かぶ雲の模様を見て、無邪気そうに笑う少年を見て、カップにまだ残っていた紅茶を一口で飲み干すと、やがて一つの結論を出した。
「私は――」
<12>
「……ふ~ん。キミはそっちを選ぶんだね。」
「うん。後悔したくはないからね。」
「ま、ボクは上手くいくように祈っとくことしかできないかな。頑張れ~」
少年は静かに微笑むと、ゆっくりと立ち上がって虹の根元に向かい、虹に手を触れながら少女に向かって手招きをした。少女は困惑しながらも少年のもとに向かい、少年はどこからか取り出した懐中時計に目をやった。
「そろそろ来るね。」
「……何が?」
「見れば分かるからもうちょい待ってて。」
少年がそう言った直後、突然、虹を裂いて列車が空から舞い降りてきた。先ほど少女をこの場所まで運んできたその列車は、空中をくるりと一度旋回してから少女の目の前に停車した。虹でできた光る階段が、乗降口から少女の立っているところまで伸びてくる。
「……これは?」
「あかつき線、たそかれ駅行きでございま~す。乗れば目的地まで連れてってくれるから、行ってらっしゃい!」
少年は少女の手を引いて乗降口の前まで階段を上り、扉を開いて少女の背中をぽんと押し、車内へと案内した。扉の中に広がっていたのは先ほどと全く同じ内装で、ただし、そこに少年はいなかった。列車の扉が閉まる瞬間、少年は誰にともなく、少女に向けて呟いた。
「――Gratia Domini nostri Tua cum omnibus vobis.」
<13>
少女は列車の中で一人、たった一つしかない座席に座っている。虹の上を走る車内で、太陽が刺すように睨みつけてきたが、不思議と熱さも痛さも感じなかった。
しばらく正面の展望室の窓を眺めていると、虹とオーロラの境界に、小さく光るものが浮かんでいた。少女は立ち上がってそれに手を伸ばし、光を優しく包み込むようにして掴み取る。その瞬間、少女の中に何か大切なものが宿ったような感覚が全身に走った。手からは光がこぼれている。
少女が手を開くと、そこには光り輝く一つの指輪があった。少女はそれを右手の人差し指にはめ直し、列車は幻想のような夢に向かって速度を上げた。
> You have finished observing ringmoire RiNGS-RD-87. What would you like to do?
> logout
> Logout successful. Goodbye, esteemed Observer.




