84:// 夜明け前こそ月色に
終わりのための祭典が始まる。
それは過去と再会するために儀式で、同時に、幸せな現在に別れを告げる儀式でもあった。
<1>
メアはふと目を覚ました。部屋は静かで、カーテンの隙間から月の明かりと、それよりも明るい街灯の光が差し込んできている。すぐ隣の部屋から一切の物音がしないということは、ベアトリーチェはまだ眠っているのだろう。
彼がふと時計を見ると、まだ日付が変わって間もない丑三つ時だった。彼はついさっきまで、夢の中のベアトリーチェと一緒に故郷を歩いていた。ルナリアに再現した月の彼方、今の地図情報と彼自身の記憶から構築したジオラマ模型の中を、二人でゆっくりと巡っていた。
(やっぱり綺麗だったなぁ……ベアトリーチェさまと一緒に見れてよかった……)
十五年ぶりに見た夜景は確かに美しかった。人工的な照明の星空も、電車の軌道も、巨大な観覧車も、全てはかつての自分が見ていたままの姿をしていた。あの頃の記憶はとても楽しくて、それから一年も経てば楽しい思い出なんてものはなくなるのだが、不思議とそのころの記憶は蘇らずに済んだ。
(ベアトリーチェさまは。また絵でも描いてるのかな……?)
夢の中で「またあとで」といって別れたはずのベアトリーチェだったが、どうやら彼女はまだルナリアに残っているらしい。メアはそっと寝返りを打ち、隣の壁に耳をつけた。彼女の気配は確かにそこにあるが、魂は感じられない。
彼女は確か、あの夜景をすごく綺麗だったと言っていた。もしかしたら今ごろ、ルナリアのどこかに腰を下ろして、夜空と照明のグラデーションを背景にした誰かを描いているのかもしれない。メアの中では、彼女は現実でもルナリアでも、いつも絵を描いているイメージがあった。好きなことに没頭して、たまに食事を忘れられたりするところはあるが、彼にとってはむしろ創作への熱量の高さとしてチャームポイントだった。
「ま、あんだけ絵が上手かったらそりゃ描きたくもなるか……」
ぽつりと呟いてから、メアはベッドから這い出した。部屋の隅に置いてあるカレンダーに視線をやると、今日は十二月二十四日となっていて、彼は改めて今日が冬季流星祭なことを認識した。
ヤドハベースが完成してから一年半、魔女として生まれ変わってからちょうど五年。この四日間が終わる頃には、世界はもう元には戻らないだろう。地上の一部が自由の国として書き換えられて、月はただの夢ではなくなる。
「長かったなぁ。でもこれで私も帰れるんだ……!」
もしも、あの街がもう一度メアの居場所になれるなら、その時彼はきっとこの家を出て、自分の足で歩き始めるだろう。それは彼の長年望んだ故郷を手にすると同時に、この何でもない日々が終わることも意味していた。毎日彼女の眠そうな顔を見て、料理や掃除をして、ときに呆れられながらも一緒に過ごしてきた日常が終わってしまう。
「……だったら準備しないとね。」
メアは立ち上がり、飾り付け用のリボンや小物を引っ張り出す。前夜祭に引き続いて、二人だけのクリスマスの準備だ。そして、彼女といったんお別れするための準備だ。
<2>
なるべく足音を立てないように、しかしできるだけ急いで、メアはまだ夜明け前の薄暗い家の中を動き回っていた。ベアトリーチェはまだ眠っている。彼女の魂はまだルナリアに置き去りにされているので、少しの物音では目を覚まさない。そんな不思議な時間を使って、それでも彼は静かに、せっせと手を動かしていた。
(せっかくのクリスマスだもんね。)
まずはリビングの飾りつけ、家全体をどうにかするには時間も物資も足りないが、一部屋だけならなんとかなる。せっかく二人で祝えるクリスマスなのだから、それっぽく見せたかった。
机の上に拾い物のキャンドルを二つ、壁際にはリースを飾り、冷蔵庫には、数日前の買い物で買っておいたクリスマス料理の素材が出番を迎えていた。
「……遷遺物で料理するのも堂々とできるようになるのかな……それとも地上が自由になったら使えなくなるのかな?」
誰にともなく呟きながら、メアはキッチンに立った。いつもルナリアで何か行事があるときは「一秒でも長く眠っていられるように」と言って、洗い物が少なくて済むようなワンプレートの手抜きメニューが定番だったが、今回は違う。前菜と主菜をきっちり分けて、小さなスープカップも用意した。それはまるで、自分以外の誰かのための食卓のようだった。
(あ、あとは掃除もしとかないと。もうゆっくり掃除する時間なんてないんだし。)
ルシファー作戦が本格的に始まれば、こんな日常的な雑務に割く時間はほとんど残っていない。それなら、今のうちにやれることは全部やっておくべきだとメアは思った。それは掃除というよりも片付けに近く、彼の私物、例えば勝手に持ち込んだ着替えや日用品、果ては使い道の限定的すぎる遷遺物まで、いずれは全て撤去しなければならないだろう。
ここはベアトリーチェの家なのだから、彼女の暮らしを圧迫してはならない――それは、メアが従者として自身に課した掟の一つだった。もっとも、実際にこの二年間で守られたことはほとんどなかったが。
(立つ鳥跡を濁さずって言うもんね。うん。)
流星祭の終わりと同時に、きっとメアはこの家を出ていくだろう。ルシファー作戦は派手に見えて、実行そのものは驚くほどの短期間で終わる算段だった。それが予定通りに進めば、地上にも月の民の国が一つできあがる。そして、そこが彼の居場所になるのなら、もうここに居候する理由がなくなってしまうのだ。
(もうベアトリーチェさまと一緒にご飯食べれないなんて、ちょっと、いや、かなり寂しいなぁ……)
メアはそう思ったからこそ、痕跡は綺麗に消しておきたいと思った。そうしないと、またここに帰ってきてしまいそうだったから。コトコトと鳴る鍋の音が、朝を迎えつつある静寂に溶け込んでいく。
<3>
ベアトリーチェが起きてきたのは、ちょうどメアが朝食の支度を終えたころだった。トースターが小さく鳴り、皿の上でパイが僅かに湯気を立てるその瞬間、寝ぐせのついたままの髪、羽織ったガウンは少し斜めというベアトリーチェがリビングに入ってきた。
「……おはよ、メア」
いつもよりほんの少しだけ早起きした彼女は、リビングに足を踏み入れてから数秒間、ぼんやりと何かを考えていたようだった。メアがこの短い間に飾り付けた即席のクリスマス飾りを少しだけ目を細めて見回している。
「何この部屋。超かわいい。」
「おはよう、お嬢様! 今日も愛をこめてメリークリスマスを!」
「今日イブでしょ。クリスマスは明日だよ?」
「知ってる! でも今日がメインって感じあるでしょ?」
ベアトリーチェは当然のように椅子を引いて、目の前の皿に手を伸ばした。彼女にとって、この家は最初は一人暮らし用だったはずなのに、今ではそれが嘘のようだった。メアは得意げにパイをすすめながら食卓に着いた。今日の食事は、行事がない日よりも品数が多い。
「今日のお昼って、メアはどうするの?」
「ごめんお嬢様! この部屋飾り付けてたからお昼のぶん作ってない! 今から作ろっか?」
「いや、今日は朝がなんか多いからなくて大丈夫。そもそも、どうせ流星祭一緒に来てって言われるんでしょ?」
「そりゃもちろん! 私のキャラクターデザインはお嬢様が描いてくれたんだから!」
二人で笑い合いながら、テーブルの上の食器が一つずつ空になっていく。食事が終わる頃には、朝の日差しがカーテンの隙間から差し込み始めていた。やがてベアトリーチェは立ち上がると軽く伸びをした。
「じゃあ、ちょっとだけ部屋戻って絵描いてくるね。」
「りょうか~い! 私は家事終わらせたらルナリア直行するね!」
そう言いながら、ベアトリーチェは自分の部屋に戻っていった。彼女が去った静けさの中、メアは黙って食器を重ね、丁寧に洗って、一枚ずつ布巾で拭いていく。全てを元通りに戻すようにテーブルを拭き、掃除機をかけ、最後にカーテンを少しだけ開けておいた。まだ、夜の気配が完全に消えていない時間だった。
彼はそのまま自室に戻って、パジャマに着替えてからベッドに潜り込む。いわゆる二度寝の時間だが、それは戦場へと赴くための準備でもある。ベッドの中で、メアは壁越しに声をかけた。
「それじゃ行くよ、お嬢様。」
「はいはい。今キリ悪いから先行ってて。」
「はーい! すぐ来てね!」
<4>
シオンは夜の中で目を覚ました。柔らかい街灯の明かり、煌めくネオンサイン、通りに満ちた人影のない幻想。現実では既に朝が来ていたが、彼女が見上げた空はまだ夜のままだ。昼が来ない結界の効果により、ルナリアでもこの場所だけは、永遠の宵闇に包まれていた。
夢の世界では、現実のように日々太陽の恩恵に縛られる必要はない。誰かの願いが魔術として世界の形を変え、ここは第四特異点であるシオンの聖域だった。
「……さてと。始めよっか。」
彼女はビルの屋上に立って夜景を眺めていたが、今は懐古に耽っている暇はない。今日は冬季流星祭の一日目、戦いの序章なのだ。
(流星祭の日に侵攻なんて言ったけど、三日目までは普通なんだよね……)
誤解されても仕方ないとシオンは思った。なにせ彼女は事あるごとに「流星祭の日に第七段階に――」と息巻いていたのだ。だが、その本来の意義はもっと淡く、もっと文化的で、もっと彼女らしいものだった。今日、彼女が開こうとしているのは戦争ではなく展示会で、それも、ルナリアですら表に出されない領域、アンダーカルチャーを主題に据えた祭典だった。
あの彗星祭ですら規制の視線がちらつくなら、ここでこそ表現される創作物があるだろう。ならば自分がルナリアの最も濃い影を照らす場所を作ろうではないか――それが、シオンのもう一つの戦争だった。
「……場所ないな。ちょっと気合い入れ過ぎたか……」
シオンはそう言いながら月の彼方の模型の中を歩いて回った。流星祭の会場に指定したのは、いつもヤドハベースが浮かんでいた場所の真下、ブラックマーケットから少し離れたクレーター地帯。だが、それと時を同じくして、彼女はその場所に自分の思い出を詰め込んだ都市を作ってしまっていた。月の彼方の再現に全力をつぎ込んだ結果、展示スペースを残しておくことを忘れていたのだ。
「……しょうがない。ちょっとだけ取壊そ。」
シオンはそう言うと、都市の中心部、現実なら首都があるあたりに指を向けた。そこは彼女が子供の頃に通ったことのないエリアで、記憶には残っていない、無機質なハリボテのような場所だった。彼女の指先から光が放たれ、建物が消しゴムをかけられたように消えていく。代わりに広がっていくのは展示会のための新たな空間で、それはただの準備ではなく、彼女なりの新しい物語の始まりだった。
「いつか私が神話になったときに記念碑でも建てられたりしてね……」
彼女は踵を返し、ヤドハベースにいる整備班へと指示を飛ばした。あらかじめ招待を送っていたアンダーカルチャーの作家たちも、そろそろ結界の外から到着する頃だろう。そして、シオン自身の作品に興味を持ったもの好きがいたら、今日、ようやく顔を合わせることになるかもしれない。
<5>
ベアトリーチェはまだ現実世界に残っていた。メアが再びルナリアに潜っていった時も、彼女は机に向かい、ペンを走らせていた。夢の中で過ごした月の彼方の風景が、彼女のモニターに再現されていく。彼女が絵を描くのは、別に珍しいことではない。むしろ彼女にとって絵を描くというのは呼吸をするようなもので、気がつけばペンを握ってしまっている。
(……あの子、今日は大事な日って前から言ってたからね……)
普段のこの時期なら、残り一週間を切った彗星祭に向けた作品を描いているころだろう。ただ、今日の一枚は少しだけ意味が違っていた。今日からは冬季の流星祭が始まるのだ。シオンがずっと前から準備に明け暮れていた大切な日。ベアトリーチェは、彼女のために一枚の絵を仕上げていた。
作品にとって記念すべき日には、新しいイラストを贈る――それはルナリアの絵師たちの間での習わしのようなものだった。祝福の証であり、作品への愛の証であり、絵師と作品世界を結ぶ儀式のようなもの。
もっとも、ベアトリーチェとシオンの間にそんな契約があったわけではない。報酬もなければ義務もないただの友人同士の、片方の一方的な気まぐれにすぎないが、それでも彼女は描きたかったのだ。
「昨日の、確かに綺麗だったもんなぁ……」
ついこぼれた言葉に、ベアトリーチェは少しだけ頬を緩めた。自然すらも人工的に作られた都市の夜景。けれど、メアの記憶から再構築されたというその風景は、どこか懐かしく温かかった。明らかに彼の「好き」という感情が詰め込まれていて、それに触れた瞬間、ベアトリーチェもまた無性に「描きたい」と思ったのだ。
液晶タブレットの表面で音がして、描きこまれた線が景色とキャラクターに命を与えていく。明暗の境界、電飾の滲み、ビルの重なり、そして夜の空気。彼女はそれらを夢中で描き、時間の間隔はとっくに薄れていた。
シオンはきっと今ごろ、ルナリアでバタバタしているだろう。どうせ初日から完璧にカッコつけようと無理をして、ハイテンションで突っ走っているに違いない――そう思うと少し笑えて、同時に少し心配にもなった。
「でもまぁ、あの子なら最後は何とかするよね。」
心からそう信じられるからこそ、ベアトリーチェは自分にできる応援の形を選んだ。それがこの一枚なのだ。心を込めて描いた夜の街、メアが帰りたがっている、彼の故郷。
ベアトリーチェは、ふと画面の端に表示された時刻が目に入った。そろそろルナリアでは流星祭が始まるだろう。間に合うかどうかは分からないが、せめて今日が終わるまでには仕上げたい、その一心で彼女はまたペンを動かした。液タブの表面は、ほんのりと温かかった。
<6>
シオンが飾りつけを終えたころ、都市の模型の端のほうにちらほらと人影が現れ始めた。最初に来たのはブラックマーケットの裏側出身、つまりは表通りには並ぶことのないアンダーカルチャーの作品を好む表現者たちだった。
開催時刻は特にはっきりとは決めておらず、出展者への招待状にも「何時から何時までの間」程度の雑さだったが、それでもこうして開始前に集まってくれたことが、シオンにとっては何よりの成果だった。
「来た、来た……!」
シオンは目を輝かせながら案内用の標識を起動した。雰囲気を壊さないように、ライトはほんのりと淡いピンクと紫で、都市の一角にぽっかりと開いた広場のような会場、次々とサークル主たちが集まってブースを作り始めていく。夜しか存在しない街の一角は、いつの間にか歓楽街へと変貌していた。
会場の設営に特有の、段ボールを開ける音と神の擦れる音が響き、すでに完成しているイラストのパネル、おそらくは地上の闇市に流す用のキャラクターグッズ、そして一ページ目から過激な同人誌などが堂々と並び始めた。この雰囲気こそが、シオンが求めていた自由だった。
やがて予定していた開始時刻がやってきて、シオンは夜の街の中央に浮かぶ高台に立ち、高らかに叫んだ。
「今この時をもって、流星祭は幕を上げ、我らが計画はついに第七段階へと移行する!」
叫び終わった瞬間、周囲の建物の一部が光を放ち、夜空に魔法の花火を打ち上げた。少し安っぽい演出だったが、始まりはそんなものでもいいだろう。
開幕からしばらくして、ちらほらと一般の参加者、シオンの作品目当ての参加者も集まってきた。その多くはベアトリーチェの描いた作品があると聞いたといういかにもなファンたちで、シオンとしては少し複雑な気持ちにもなったが、それでも自分の作った世界に誰かが見に来てくれていること自体が嬉しかった。
「あ、これってあのシーンの?」
「このキャラ最近出番多いよね。推しなのかな?」
そんな声が聞こえるたび、シオンは満足げな笑みを隠すようにしてもう片方のブースへと足を向けた。せっかくのアンダーカルチャー限定の展示会なのだから自分でも楽しまないといけない。
展示会場は主に二つのエリアに分かれていた。一つは、シオンが運命の神託によって選定した、現実では首都にあたる都市の一角で、こちらにはエロとグロが集められていた。そしてもう一つは、彼女自身の作品を中心とした、彼女のよく知る月の彼方のエリアだった。両者はいくつかの街を挟んで少しだけ距離があったが、そこまで遠すぎるわけではない。それぞれの文化が干渉せず、しかし互いに影響を与え合うためにはこれくらいの距離がちょうどいいのかもしれない。
(……これだよ。これこそが自由の国だよ。うんうん。)
来場者はそれほど多くはなかった。そのおかげでトラブルも特になく、シオン一人でも余裕をもって対応できた。ベアトリーチェの絵に興奮して感極まるひと、こそこそと同人誌を読んではにやにやと笑う人、それぞれが自分の好きに素直になれる空間だ。
全体の完成度はまだ低いと言わざるを得ない。だが、そもそもこれはルシファー作戦の布石のようなものだ。こうして誰かが、自分で作った世界に集まってくれることがたまらなく嬉しかった。
「早く来ないかな、ベアトリーチェさま……」
彼女がまだ来ていないことを思い出して、シオンは空を見上げた。深い夜の中に浮かぶ星々は、誰かの物語のように輝いていた。
<7>
時間は緩やかに流れ、永遠の夜が続くこの結界の外では、現実の夕方が近づいていた。空の色は茜色に染まりつつあり、現実と夢の境界線が僅かに揺らいでいるように感じられる。
シオンは小さな端末を手に、掲示板へと書き込みをしていた。ブラックマーケットの掲示板は、ルナリアで最も混沌とした情報交換と誹謗中傷の場であり、アンダーカルチャーとは密接な関係と言ってもいいだろう。
『アンダーカルチャーの祭典たる流星祭はすでに始まっている。展示、鑑賞、交流、どれも人の生まれ持つべき自由だ。第四特異点である私が、その全てを保障しよう。』
そんな書き込みが功を奏したのか、しばらくすると追加で数人の出展者や参加者が現れた。とはいえ時間はすでに昼を過ぎ、陽が傾き始めていた。出展者の中には「ごめん、昼飯食ってくる」と一旦退出していく者や、「用事あるから今日はこのへんで」と早めに帰っていく者も現れ始めていた。
シオンはそんな現実に戻っていった出展者たちの店番を手伝いながら、残った参加者たちに「汝の欲するものを取るがいい」と声をかけて回った。そのついでに、展示会場の端から端までをパトロールして、聖騎士が潜伏していないかも確認する。
本来、こういった雑用はスタッフに任せるべきなのかもしれない。だが現地スタッフの大半はヤドハベースから動員したベアトリーチェのイラストたちだった。それはシオンの想像力とベアトリーチェの画力によって生まれた、物語をなぞるための存在で、愛着はあるものの、やはり物語外の問題発生時の対応力にはまだ難があった。結局のところ、主催者にして最高司令官のシオン自身が現場を動き回るしかなかったのだ。
(……でもそろそろ夜ご飯作んないとなぁ……)
現実の空腹感を想像しながら、シオンはポケットからスマホを取り出す。その時、ちょうどベアトリーチェからメッセージの通知が来た。
『イラストできたよ~。そっちはまだやってる?』
「ベアトリーチェさまが来るまで終われないから早く来て!」
シオンは間髪入れずに返信をし、送信を終えると彼女は即座に展示会場の自作品コーナーに移動した。なんだかんだ言って数時間ぶりに戻ってきたその場所は、昼よりも人が増えていた。参加者たちがベアトリーチェの新しい絵を見ようとして、基地の前に小さな輪を作っている。
やがてベアトリーチェが基地から出てきて、その手には現実で完成させたイラストのデータが入ったスマホを持っていた。
「お待たせ、シオン。」
「……全然大丈夫。むしろ完璧なタイミングみたいだよ。」
シオンは笑顔でデータを受け取り、それを街の広場の中央に設置した大型のスクリーンに投影した。次の瞬間、彼女の描いた一枚のイラストが浮かび上がる。それは月の彼方に立つシオンの姿で、背景には地上の星が輝き、まるでシオン自身が月の彼方の一部であるかのようだった。それを見た誰もが息を呑み、そして歓声が上がった。
「同志諸君! これは彼女からの一日早いクリスマスプレゼントだ! だが三日後、君たちの意志と覚悟がこの絵を現実に変える! それこそが、私からの贈り物だ!」
どっと湧き上がる喝采、ベアトリーチェを称える言葉が飛び交い、彼女は少し照れたように手を振ると、さらに場の熱気は高まった。熱狂がひと段落したところで、シオンは会場に別れを告げ、最後にもう一度だけ振り返る。
「明日も今日と同じくらい、いや、それ以上の祭りにしてみせよう。君たちも、ぜひその目で見届けてくれたまえ。」
そう言い残して、彼女は静かに現実へと帰還した。だが、祭りが終わったわけではない。シオンがいなくとも、一人でも参加者が残っている限り、流星祭は続いていく。
<8>
メアがベッドから降りて時計を見ると、外はすっかり暗くなっていた。時間だけなら夕方を少し過ぎた程度のはずだったが、今は冬。日没の早いこの季節では、もう夜と呼ぶに相応しい暗さだった。パジャマを着替えてからリビングに向かうと、窓の外にはルナリア並みに、夜景がないぶんだけさらに暗い町並みが映っていた。その黒さに対して部屋はあまりにも明るく、彼は目をしょぼしょぼさせながらキッチンへと歩いていく。
「七ってやっぱり縁起いいよね。特に今年の冬はさ。」
冷蔵庫を開けて七面鳥の塊を取り出しながら、メアは得意げに呟いた。
誰も来なかった時期を合わせれば、彼がイベントを主催したのは通算七回目となる。その記念すべき一日目の夜に相応しいご馳走として、彼はこの鳥を選んでいた。元々はただの季節ネタで、クリスマスの雰囲気を味わいたかっただけなのだが、やはり七という数字にはなんとなく縁を感じてしまう。
オーブンを予熱にかけながら、メアは手際よく他の料理の支度を進めていく。サラダ、スープ、簡単な前菜、デザート用のケーキも切り分けて準備しておいた。七面鳥がオーブンの中でじりじりと焼ける香ばしい音が響くころ、彼はベアトリーチェの部屋の前に立ってノックをした。
「お嬢様ー。ご飯できるよー。」
「……ん、は~い。」
数秒の沈黙の後、少し眠そうな声が返ってきたのを確かめて、メアは軽く笑ってリビングに戻った。ベアトリーチェが起きてきたころにはテーブルの上はちょっとしたパーティーのような光景が広がっていて、二人きりの食卓には、想像以上にたくさんの料理が並んでいた。
「うわ。本当に七面鳥焼いたんだ……でもなんで今日?」
「今日は流星祭始まった日だから!」
そう答えながら、メアは切り分けた肉を皿に取り分けた。二人は朝食ぶりの会話を交えつつ、夕食を楽しんだ。
「昼くらいには結構人が集まっててね。最初は来るか不安だったとこもあるけど、案外楽しみにしてくれてたみたい。特にお嬢様のイラスト!」
「そう? 私も今日のは描いてて止まらないって感じだったかな……ああいう構図ももっと練習しないとね。」
「もう十分上手かったけどな……でも私のために描いてくれてありがとね!」
二人の間に、静かで温かい時間が流れていく。いつも通りの会話なのに、どこか名残惜しい。この穏やかな食卓があと数日で終わってしまうことを、どちらもまだ言葉にはできずにいた。
やがて食事を終えると、ベアトリーチェは着替えを持って風呂場に向かい、その間、メアは静かに後片付けを済ませ、洗い物を丁寧に拭いて食器棚に戻していった。ベアトリーチェの好みのカトラリーを見るだけで、彼の頬は緩んでいく。その後、自分の風呂も終えた彼は寝る前の準備として、少しだけ部屋の整理に手を付けた。
(あと三日か……短いな……)
メアの自室にはすでにキャリーケースが一つ、壁際に置いてある。中身は服が少しと小物が少し。遷遺物はベアトリーチェが欲しがったものはプレゼントにして、残りは全てルナリア経由で持ち運ぶつもりなので、現実で運ぶものは思ったよりも少ない。
彼は一つ、また一つと、もう使わなくなった小物をしまっていき、そのたびに心の中に重たい感情が積もっていく。この家にいた時間、その多くはベアトリーチェと一緒だった。ルナリアで描かれる幼馴染のような日々がもう終わるという実感は、まだ現実味を帯びていない。
<9>
流星祭、二日目の朝。シオンは昨夜よりも明らかに増えた参加者の気配を感じて、思わず口角を緩めた。昨日ブラックマーケットの掲示板に投稿したレポート的なものが効いたのか、それとも昨日の参加者たちの口から口へと噂が広がったのか。いずれにしても、彼女の呼びかけは確実に届いていた。
「こういうのでも来てくれるもんだな……やっぱりみんな自由になったらこういうので楽しむってことか……」
呟きながら、シオンはすでに設営された各ブースを見て回る。昨日と同じ出展者の多くが、今日も続けて参加してくれていた。あと一週間もしないうちに彗星祭が控えているというのに、それでもこの発展途上の流星祭に足を運んでくれることに、彼女は心の底から感謝していた。
顔なじみになった出展者や参加者とは、もう固く構える必要もなかった。会話は自然体のまま進み、話題も様々だ。アンダーカルチャー作品の裏話や苦労話、時にはシオンの作戦内容や、特異点としての思想今で話が及ぶこともあった。
「いや~、ほんとに面白い方ですね。」
「私は使命を果たすだけですよ。自由あっての物種って言いますからね。」
シオンはそうやって充実した朝を迎えていたのだが、人が増えれば、それに比例して望まぬ者たちも現れる。午前十時を少し過ぎたころ、聖騎士の一団がアンダーカルチャーコーナーに現れた。彼女たちも流星祭に参加しに来た、なんてことは当然なく、すでに戦闘態勢で、手には火炎放射器を構え、口からは怒りの言葉が次々と飛び出した。
「「どうしてクソオスどもは女性をこんなにも性的に描かないと気が済まないの? こんなに胸も誇張して、腰は細いし、オスどもの欲望に合わせた身体なんて! こんなものはただの汚物よ!」」
「よく観察していただき誠にありがとうございます。ですが私たちは女性以外も多く取り扱っておりますので、ご安心を。きっとあなた方の好みのものが見つかることでしょう。あるいは――」
シオンはそれを聞いても特に感情を動かした様子もなく、ただ彼女たちの前に一歩踏み出し、言葉と共に聖騎士の一人の胸元を貫き、他の聖騎士たちが炎を浴びせる暇もなく、シオンの連撃が聖騎士たちを蹂躙していった。彼女たちの魂がエーテルの残滓となって空気へと溶けていくのを見ながら、シオンはため息をついた。
「――こうして二度と見ることも聞くこともできないようにして差し上げましょうか。」
その後、混乱はすぐに終息した。出展者たちはこういう事態には慣れたもので、誰もが淡々と後片付けと再設営を始めていた。あの短い戦いの中でも、彼らの創作物を守る手は止まらなかった。シオンがそうして設営に混ざっているうちに昼が近づき、空は未だ暗いままだが、結界の外ではもうそろそろ午後になろうかという頃だった。
「一時……もうちょいかな……」
シオンはスマホを取り出して時間を確認した。昨日と同じなら、ベアトリーチェが来るのは夕方だ。現実で描き上げたイラストを、今日もきっと持ってきてくれるだろう。彼女の絵はこの祭りの看板のの一つで、この街の灯りであり、この戦いの旗印でもある。
シオンはそのイラストを見るたびに思うのだ――この世界を、全ての人にとって自由なものにしなければならない。
<10>
冬の昼下がり、とはいえ夕方にはまだ早い、太陽が空の高みにある時間帯。シオンの手元にスマホの通知が響いた。画面に表示されたのは、ベアトリーチェから送られてきた一枚のイラストだった。
それは明らかに季節限定のネタ絵だった。シオンの物語に登場するキャラクターたちがミニスカのサンタやトナカイ、雪だるまなどの格好をしていて、プレゼント袋を担いだりケーキを囲んで笑っていたりしている。世界観からすれば完全に逸脱しているが、こういうお祭り時にはむしろそれがいい。
『ちょっとノリで描いてみたんだけど、こういうのって世界観的にどうかな?』
添えられていたメッセージは短くて素朴な一文だった。シオンは迷うことなく返信を打つ。
「全然大丈夫! っていうか、今日みたいなイベントのときはこういうほうが盛り上がりそう!」
「描き終わったんならさ、ちょっとこっち来てよ~! 今忙しいからヘルプ~」
シオンはすぐにヤドハベース側の展示エリアに向かい、ベアトリーチェが現れるのを待った。この辺りはアンダーカルチャーコーナーから離れた場所にあるからか、また別種の賑わいを見せている。少なくとも、聖騎士によって破壊されている様子はないので、基地の防衛システムが機能してくれているのだろう。
やがて基地内に降り立ったと思われるベアトリーチェが現実からデータを持ち込んで現れた。シオンが大仰な仕草で出迎えると、彼女は顔を赤らめながら手を振ってきた。どうやら彼女は先ほどのイラストを展示してすぐに帰るつもりだったようだ。
「よくぞ来た、我が親友にして――」
「ありがと。イラスト展示してもいい?」
「いいけど、もうちょっと後でもいいかも。もっと人が集まるまでさ、せっかくだからクリスマスデートしよ?」
シオンは胸を張って言い、ベアトリーチェは「はぁ?」という顔をしたが、断るほどでもないようで、そのままシオンに連れられてより賑やかなエリアに足を運ぶこととなった。
アンダーカルチャーコーナー、シオンは昨日もここで観覧していたが、今日はまた別の熱気が満ちていた。昨日はなかったのだが、彼らなりに主催者への敬意を表したかったのか、シオンの作品に登場するキャラクターたちを題材にした二次創作の展示があって、議論や感想が交わされていた。
「……これって私が描いた子だよね……」
「うん。人気なんだよ~! やっぱ絵がいいとキャラの魅力も引き立つし!」
自分の描いたキャラクターが堂々と脱がされているというイラストの数々に、最初は若干の羞恥を隠し切れなかったベアトリーチェだったが、他の参加者やファンが熱心に語る姿を見ているうちに少しずつ感覚が麻痺してきたのか、やがて自然と受け入れていた。
「まあ、確かに嬉しいかもね。」
「でしょ? じゃあ、明日はもっとすごいの見せよっか?」
夕方になったころ、二人は再び自作品のコーナーに戻っていた。そのころにはベアトリーチェも普段通りの表情で周囲に溶け込んでいて、彼女の到着を待ちわびていたファンたちが自然と集まってきていた。彼女は笑って頷くと、朝から描いていたクリスマス仕様の集合絵を掲げた。
その瞬間、周囲の歓声が一気に上がり、シオンも負けじと声を張り上げた。
「同志諸君、よく見るがいい! これが彼女からのクリスマスプレゼントだ! 次の戦いに勝利すれば、現実でもこのような美しい文化に触れることができる。諸君、そんな未来を共に作ろうではないか!」
熱気に包まれるブースの中で、やはりベアトリーチェは少し照れくさそうにしていたが、それでも絵の前に立ち続けた。演説よりも、スローガンよりも、たった一枚の絵のほうが何倍も人の心を掴むのだ。
<11>
「またすぐ後で会おう。君たちも少しばかり休むといい。」
ルナリアの夜景と群衆に向かってそう言い残し、シオンは一度その場を後にした。彼女には、ルシファー作戦以外にも果たさなければならない任務がある。ベアトリーチェに夕食を用意すること、それは彼女にとって世界を変えるのと同じくらい重要な役目だった。
(……ん、ちょうどいい時間かな。)
メアは目を覚ますと、少しだけぼんやりした頭を振って、いつものようにキッチンへ向かった。冷蔵庫から取り出したのは、今夜のために用意しておいた食材たち。クリスマスらしさを演出しつつも重すぎない、バランスのいいメニュー。ご馳走が続くと、どこか胃も心も疲れてくるものだ。だからこそ、今日は余白を意識した献立になった。あとは、昨日でモチベーションの大半を消費してしまったという理由もある。
「明日からは朝もちょっと軽めにしよっかな……胃が苦しい……」
「それがいいと思うよ。メアは明後日が大事な日なんだし。」
二人はほんの少しだけゆっくりとした食卓を囲んだ。メアは今日の祭りの出来事について、ベアトリーチェは彗星祭に出す予定の新作について、それぞれに語り合った。
食後、ベアトリーチェが風呂に入り、メアはその間に片付けを済ませた。使い終わった皿を一枚、食器棚の一番奥にしまう。そんな些細な所作が、胸の奥にじんわりと寂しさを染み込ませてきた。
(あと二日かぁ……)
メアはその言葉を喉の奥でかみ殺し、風呂を終えて着替えを済ませると、ルナリアへと向かった。「すぐ後」と言えるような時間は過ぎていたが、許し合う社会を目指す者達ならば、遅刻くらいで怒ったりはしないし、逆に怒られたりもしないはずだ。
「待たせたな……ん?」
再び降り立ったルナリアは先ほどと変わらずに輝いていて、会場は活気に満ちていた。そして、思わぬ光景がシオンを迎えた。ベアトリーチェがすでにルナリアに来ていたのだ。彼女は自分の描いたキャラクターたちの前でファンたちに囲まれていて、少しだけ困ったような、しかしそれ以上に嬉しそうな顔をしていた。誰だって、自分の作品を褒められれば嬉しいに決まっている。
「あの、すみません、シオン様……」
シオンは少し離れた場所から、まるでストーカーのようにその様子を見守っていた。すると、一人の参加者が彼女に声をかけてきた。小さく申し訳なさそうな声で、その人物はどこか気まずそうに言った。
「明後日の作戦決行の日、ちょうど現実のほうで予定があって……なのでこれ、お返しします!」
手渡されたのは、小さなアクセサリーのようなものだった。だがシオンにはすぐに分かった。それは彼女の物語のあるキャラクターが大事に嵌めていた装飾品で、誰かの強い想いによってここまでやってきた意志の結晶だ。目の前の人物の気持ちがそこに込められていることは疑いようもなかった。
シオンはそれを恭しく両手で受け取り、しっかりと目を見て、毅然とした声で応じた。
「君の想いは確かに受け取った。これはありがたく活用させてもらおう。君は君の戦いをすればいい。私は私の道で、自由な世界を掴み取ってこよう。」
参加者は深く頭を下げて走り去っていった。それを見送ったあと、シオンは小さく笑った。
(ちゃんとが私たちの物語を見てくれてる人がいるんだ……)
誰もが同じ場所にいられるとは限らない。けれど、それでも繋がっているという感覚は確かにあって、それがこの祭りの価値の一つなのだろう。
シオンはその遷遺物を右手の人差し指にはめながら、ふと空を見上げた。今日もたくさんの星が瞬いている。
<12>
三日目の朝はやけに静かで、メアとベアトリーチェはいつも通りに朝食の席に向かい合った。メニューは質素なものだったが、それは前日からの取り決め通りのことで、やる気が尽きたというわけではなく、ただ、少しは胃を労わるべきという実用的な理由だったはずだ。
それでも、テーブルの上に並べられた湯気の立つスープと焼きたてのパン、控えめなサラダはどこか名残惜しい色をしていた。
「それで? 今日はどんな絵なの?」
「んー……今日は絵のネタがそんなにないんだよね……」
「そっか。じゃあ今日は私が何か出そっかな~」
ベアトリーチェはスープを飲みながらそう言い、メアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに笑顔を取り戻した。朝食後、家事を手早く片付けたメアは再びルナリアへと潜った。
「おはよう同志諸君! 平和な祭典は今日で終わり、明日には最終戦争の幕開けとなる! そして、この戦いが終わったとき、私たちは晴れて地上で生きる自由を手にするのだ!」
シオンはいつものようにアンダーカルチャーコーナーの警備に立ち、時折やってくる聖騎士たちを槍で刺し貫き、自作品の並ぶコーナーでは、考察を行っているグループの中に紛れ込んで一緒に議論をした。
「このキャラが裏切る理由が分かんないんだよね……」
(理由なんてないからね……でも実際そうだったんだよ。)
「ここなんて最後まで回収されてないし、結局何だったんだろうな。」
(そんな設定書いたっけ? ごめん覚えてないや。)
そんな他愛もないやり取りに、シオンは確かに文化が育っていく気配を感じていた。
三日目ともなると参加者もかなり増えていて、大半は昨日や一昨日も見かけた顔だったが、彗星祭の綺麗さに背を向けた者達がこの場所に集まってくるようだった。彼らの共通点がただ一つあるとすれば、今の自由の在り方に違和感を感じているということだ。
聖騎士の襲来も何度かあったが、アンダーカルチャーのほうはシオンが直接防衛し、ベアトリーチェの健全なイラストが展示されたほうはヤドハベースの迎撃システムが自動で対応してくれていた。今のところは自由を守れている。
(そろそろ出してもいいかな……)
そして夕方、現実では空気が一段と冷たくなってきたころ、あの定刻の時間がやってきた。一昨日ベアトリーチェがイラストも持ってきたあの時間、今日の彼女はネタ切れということなので、代わりにシオンは密かに用意していた短編小説を一つだけ公開した。かつて誰にも認められずに死んでいった、ある脇役の人生を拾い上げたものだ。ベアトリーチェのような華やかさはないし、人が集まるか不安はあった。
「地味だけどさ、こういうののほうがリアルだよね。」
「そうそう。世の中そんなに上手くいかないんだよな。」
だが、それでもほんの少しだけ読者がついた。一年前とは違う、あの頃は想像もできなかったような光景だ。それはファンという形かもしれないし、あるいは理解者という名前の仲間なのかもしれない。いずれにせよ、確実に何かが育っている。
<13>
三日目にも夜が訪れた。冬の夜は早くて、そのくせ長い。メアはキッチンに立っ今日も簡素な夕食を用意指していたが、今日のそれはどちらかというと明日のためでもあった。
「明日はついに帰る日かぁ……」
彼はそう呟きながら、味噌汁の味を調整し、明日のために小分けの冷凍パックを作っていった。夕食そのものは朝と同じように控えめな内容で、彼はベアトリーチェと向かい合って座り、二人はいつもと変わらぬように箸を進めていた。だが、食卓を包む空気はどこかいつもと違っていて、言葉を交わせば交わすほど、その違いは明確になっていった、
「こういう生活も明日で最後なんだね……」
「うん……二年だっけ? 家事の仕方忘れてたらどうしよ……」
無理に感傷的になる必要はない、そんな雰囲気を作っていたはずなのに、自然とそういう話題が出てきてしまう。明日の夕食くらいは一緒に食べてから家を出てもいい。だが、それでも、これが最後の晩餐のような気がしてならなかった。
「ねえお嬢様、最後くらい、一緒にお風呂入る?」
「パス。それくらい一人で入らせてよ。」
「え~……お嬢様のケチ……」
食後、冗談半分でメアがそう尋ねてみたら、あっさりといつも通りの返事が返ってきた。彼は苦笑しながら黙々と洗い物を片付けて、その間にベアトリーチェは風呂に入っていった。風呂場から聞こえるのはいつもと同じお湯の音で、何の変哲もない生活音だったが、それも今日で聞き納めだと思うとメアは少しだけ切なさを覚えた。
風呂が交代になり、メアの番。湯船に浸かると、先程までベアトリーチェがいたことを感じさせる残り香がふわりと鼻先を掠めた。この香りもこれで最後だと思うと、温度が少しだけ高く感じられて、出るタイミングを何度も迷って、いつもよりもずっと長風呂になった。
「おやすみ、お嬢様。」
「おやすみ、メア。」
風呂上がりの時間、二人はそれぞれの部屋に戻っていった。短いその言葉に、いつも以上に意味が込められていたが、それ以上の言葉を交わすことはなかった。
例えばここで、自分がやっぱり残ると言えば彼女は喜んでくれるだろうか――そんな考えが一瞬だけ頭をよぎったが、メアはそれをすぐに打ち消した。これは自分で選んだ運命なのだから。
(明日でベアトリーチェさまともお別れかぁ……寂しいなぁ……)
その夜、メアはなかなか寝付けなかった。ベッドで横になっても、瞼の裏に浮かぶのは明日のこと、そしてもう過ぎ去ってしまったことばかり。
それでも時間は進んでいき、彼は起き上がって部屋の最後の片付けをして、この部屋中に置いてある遷遺物を一ヶ所に纏めておいた。ルナリアに持ち込む準備はほぼ完了している。キャリーケースに入れる荷物もすでに整っていて、残っているのは歯ブラシセットを今身に着けているパジャマだけ。
(ちょっとこの家もう一回見ておこっかな。)
ベアトリーチェが完全に寝静まったのを確認してから、メアはそっと部屋を出た。彼女の部屋以外の空間を、脳裏に焼き付けるようにゆっくりと見回す。リビング、キッチン、洗面台、脱衣所、浴室、玄関、その一つ一つに、思い出が詰まっている。
「……また建てればいいよね。この家と同じやつ。」
月の彼方を取り戻したあとで、今度は自分の家として作ればいい。その時の参考にするために、彼は全てを記憶に刻んでいった。気がつけば早朝と呼んでも差し支えない時間で、彼にもようやく、眠気が訪れてきていた。
次に月が昇ったころには、魔女は変わり果てた故郷と対面するだろう。
だが、それを喜ぶには、二年という時間はあまりにも長すぎた。




