第1話「予知するカレー屋」
山田貴明が可児の温泉宿に着いたのは、七月の終わりの、蝉の声がやけにけたたましい午後だった。
フリーランスのジャーナリストとして食っていくのは、正直なところ楽ではない。
大手新聞社を辞めて三年、ネタになりそうな話ならどんな小さな噂でも拾いに行く。
今回追っているのは、「事故を予知するカレー屋」という、正直タイトルだけ見れば眉唾もいいところの話だった。
温泉宿の女将に聞いた道順を頼りに、山田は温泉街の外れにある小さなインドカレー店の暖簾をくぐった。店内には、スパイスの香りと、扇風機の回る音だけがあった。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から出てきたのは、恰幅のいい、日に焼けた肌の男だった。イエンガー・ムハンマド、五十五歳。事前に調べた通りの人物だ。
「取材で伺いました、山田と申します。実は――」
山田が名刺を差し出そうとした瞬間、イエンガーの目が一瞬、店の窓の外に流れた。ほんの一瞬だが、山田はその視線の動きを見逃さなかった。何かを警戒している。
それも、単なる不審者への警戒ではない、もっと訓練された人間特有の、周囲を「走査する」ような目の動きだった。
「取材? ああ、あの噂か。予知するカレー屋、ね」
イエンガーは笑って誤魔化すように言ったが、その笑顔はどこか硬かった。
「先月、峠道でトラックが崖から落ちる事故があったでしょう。あなたが、その三日前に常連客に『あの道は今週使うな』と忠告していたと聞きました」
「勘ですよ、勘。長年商売してるとね、天気やら何やらで、なんとなく『嫌な感じ』がする日があるんです」
山田は食い下がろうとしたが、イエンガーはそれ以上語る気がないようだった。
話を切り上げるように厨房へ戻っていく背中を見送りながら、山田はノートに一言書き留めた。
――この男、ただの勘ではない。何かを知っている。
その夜、山田が宿へ戻る道すがら、里山の一角にある古い日本家屋の縁側で、一匹の黒猫が身じろぎもせず、山の方角をじっと見つめているのが目に留まった。
黒猫ヤマト。近くに住む根古親司という初老の男の飼い猫だと、後で聞くことになる。
だがこの時の山田は、ただ「妙に落ち着いた猫だな」としか思わなかった。
猫が見つめる方角には、地図で見る限り、これといって何もない、ただの山並みが続くばかりだった。
しかし、それから数日のうちに、山田はこの静かな町が抱える、途方もなく大きな謎の入り口に立っていることを、まだ知らなかった。
(第2話へ続く)
引きこもりと黒猫 のスピンオフ 可児奇譚 可児探偵ファイルの抽出版 のストーリーです。
本編を読んでいればキャラもストーリも簡易です。
ここでは 特に探偵業手と裏組織関連で話を進めています。




