第十一話 おじさんだってオバケは怖い!(2)
「マエストロ?」
ジェリゴーの声だった。マエストロの全身から力が抜けた。
「どうした? 具合が悪いのか?」
ジェリゴーはつかつかと歩み寄り、マエストロの肩にそっと手を置いた。それまでうつむいていたマエストロは、そこでやっと顔を上げることができた。__先ほどまで側にいた「何か」は、姿を消したようだ。
「いや……」
立ち上がろうとして、マエストロはよろめいた。ただでさえ(痛風で)万全とはいえない状態の足が、タコかイカのようにぐにゃぐにゃとしなびきっている。
ゆっくりと足を動かし、客間にやっとの思いでもどってくると、マエストロは肘掛け椅子に倒れ込んだ。
「……リゴの言う通りだ。たしかに、この家には何かがいる」
「だろ。分かってくれて嬉しいよ」
異常事態にも関わらず、ジェリゴーは何故かにやにやしていた。
「……何?」
「いや。やっぱり、マエストロも幽霊は怖いんだなと」
マエストロはジェリゴーの脚を蹴飛ばした。
二人の声やかすかな身じろぎの音以外、何一つ聞こえない夜だった。暖炉に飾った謎の球体のオブジェに、ひどく歪んだ誰かの顔が映り、伸び縮みしている。クリスタル張りのテーブルに置かれたオリーブのオイル漬けや、アンチョビとチーズのカナッペがいつの間にか茶色く変色している。そこから目をそらした時、マエストロの視界を銀色の円盤がかすめた。__鏡。その中に白い影が映っていた気がして、マエストロはそっちを向いた。
けれど、向き合うとそれはただの鏡だ。柄にもなく疑り深い顔つきをしたマエストロと、呑気なジェリゴーが映っているだけ。
「……とにかく、早く幽霊とやらを追っ払っちゃおう。リゴ、君につきまとう幽霊に心当たりは? どうせ失脚させたライバルなんて山ほどいるんだろう」
「人聞きの悪いことを」
ジェリゴーは苦笑いした。
「……そうだな。特に恨まれているのは……まず、政敵のジョン。総理大臣候補だったけれど私のせいでなれなくて、最終的に命を絶った。それから……元秘書のニール。私や妻の財産をちょろまかしていたからクビにした。生きていれば、今ごろ地元の田舎村で惨めな暮らしをしているはずだ。あとは……そうだな、元王室のヘンリー殿下、王位を狙う野心のあるお方だったが、政治的センスが絶望的になかったので継承権争いから退いていただいた。お心を病んで出奔され、行方を今でも捜索中だ」
「皆魔法使いかな?」
「ああ」
今し方遭遇した幽霊は、髪が長かった。魔法使いの可能性が高いが、それ以上候補を絞れていない。魔法使いの中でも高い地位にあるジェリゴーの元には、魔法使いばかりが集うのだ。
ジェリゴーと目が合った。彼はへらりと弱々しい笑みを浮かべた。
「幽霊が彼らの中の誰かだったら、君だけでも逃げてくれ、マエストロ」
「縁起でもないことを言わないでくれる?」
マエストロはぴしゃりと言い返す。
「明日までに片をつけてみせるよ。自分に任せなさい」
マエストロは、いつも持ち歩いている銀製のフォークを取り出した。また幽霊が現れたら、これで怯ませてやろう。うまくいくかは分からないけれど。
魔法で室内を暖かくしているはずだが、やけに体感温度が低かった。ふと窓の方を見ると、内側に水滴が幾筋も垂れている。よく調べようと腰を浮かせた時、ジェリゴーが鋭く叫んだ。
「マエストロ!」
振り向くと、ジェリゴーはテーブルの上のグラスを指差して震えていた。宝石をちりばめたクリスタルグラスに、濁った液体が満ちている。グラスの底に沈む澱が、わずかな揺れでふわふわと泳いだ。
「さっきまで、グラスは空だったはずなのに……」
「参ったね。頼みの綱の酒も飲めなくなっちゃった」
得体の知れない水(?)が入っていたグラスなど、気持ち悪くてとても使えたもんじゃない。マエストロは、ジェリゴーに言った。
「リゴ、君は寝てなよ。明日から仕事なんだろう。自分が番をしとくからさ」
「いや、でも…………いいのか?」
「ああ。ほら、目つぶって。毛布かけて」
マエストロの言われた通りにしながら、ジェリゴーは眉をひそめた。
「……寝れない」
「そこは頑張って」
「子守歌でも歌ってくれないか?」
「はあ!?」
いい年したおっさんが、と呆れつつ、マエストロは「歌」という言葉に引っかかった。
「わかった、リゴちゃんのために歌ってあげよう」
マエストロは咳払いして、息を腹から吸った。
マエストロが歌う、古いメロディー。短調とも長調ともとれない絶妙な節に、ジェリゴーは顔をしかめた。歌い終わると、ジェリゴーはぱっと目を開けた。
「それ、何の歌だ?」
「祈りの歌だよ。ちょっと前に幽霊に近づかれた教え子がいてね、撃退する時にこの歌が役に立った。せっかくその時楽譜に起こしたし、今回も試してみようと思ったんだけど……」
マエストロは、辺りを見回した。
「効いたんだか効いてないんだか、いまいち分からないな」
客間に戻ってきてから、幽霊そのものの姿ははっきりと見ていない。グラスに満ちる謎の液体や腐る食料、鏡に少しだけ映る影などに気配を感じるだけだ。
ソファーに横たわるジェリゴーがじっとこちらを見ていたので、早く寝ろと手を振った。
ものの十分もしないうちに、ジェリゴーが寝息をたて始める。親友の図太さに感心しながら、マエストロはそっと椅子から立ち上がった。五本だての燭台のろうそくが縮み、消えかかっている。戸棚に新しいろうそくはないかと探しているうちに、ろうそくが五本同時に消えた。
「……来る」
マエストロは戸棚の方に向けていた顔をわずかに動かし、ジェリゴーの様子を窺った。寝息はいびきにかわりつつある。窓から差し込む月光が彼のいるソファーを照らした。
長い黒髪がさらさらと揺れている。月光のおかげで、さっきよりも多くのことが分かった。女だ。裾の汚れた白いドレスに、泥や小さな幼虫がくっついていた。彼女は、髪の毛を顔の前に垂らし、ジェリゴーにかがみ込んだ。
マエストロがフォークを握りしめた時、女は細く青白い手を伸ばした。その手が向かう先は、ジェリゴーののど元でも胸でも、顔でもなく__少しずれて床に落ちそうになった毛布だ。
マエストロが声もなく見守る中で、女は毛布をジェリゴーの胸元までかけ直した。
その時ジェリゴーが身じろぎし、むにゃむにゃと呟いた。女が動きを止め、闇に溶けていった。
マエストロはろうそくに火をつけることもなく、しばらくその場で何事かを考えた。
翌朝、ジェリゴーは無精髭を剃り、髪を結い直し、スーツに着替え、ピンバッジを胸にとめた。どこから見ても申し分のない総理大臣の姿になってから、マエストロに向き直る。
「本当に、先に行っていいのか?」
マエストロは笑ってうなずいた。
「うん。俺はもうちょっと、ここでやりたいことがあるから」
「すまないな。ドラゴンを庭に待たせておくよ」
「ありがとう」
ジェリゴーは俗に言う瞬間移動で都に帰るのだ。
「じゃ、行ってらっしゃい」
「ああ」
ジェリゴーを見送ってから、マエストロはふっと息を吐いた。
「さて」
一人になると、客間はいっそう不気味だった。マエストロは肘掛け椅子と揺りいすを動かし、背中合わせになるよう配置した。そして、肘掛け椅子に座り、まっすぐ前を向いて口を開いた。
「そこにいるお方、ちょっとお話ししませんか」
訳もなく、心臓が騒いだ。肘掛けに置いた手元を見ると、何故か手のひらや指の先がねとついている。冷たい脂汗がだらだらと額を滑り落ちた。
マエストロは微笑んだ。誰にも見られていなくても、本番や大切な時には自然と笑みがこぼれるものだ。
「来てくれたんですね」
柔らかい長い髪の毛先が、マエストロの首筋をくすぐった。
「どうぞ、座ってください。腹を割って話し合いましょう。__あなたは、リゴが好きなんでしょう?」
マエストロは、静かに語りかけた。
「恨みがあってとりついているのなら、いくらでも危害を加える機会はあったはず。それなのに、あなたは何もしなかった。それどころか、リゴが来るとあなたは逃げた。それから、リゴに毛布をかけてあげているところを見て、気づきました。あいつが憎くてついてきたんじゃない。側にいたいから、ここまで来たんですね」
リゴに、このことを教えてあげていいですか? とマエストロは尋ねた。
「あなたの正体に、心当たりがあるかもしれない。こうして、背中合わせにふれあうことだってできる」
しかしその時、骨がきしみ、腐った肉がすりつぶされるような声が返ってきた。
__ダメナノ。
マエストロは口を閉じた。
__ダメ。ワタシハ、リゴニアエなイ。アいタクナい。コンナヤリかタデシカ、チカヅクコトガデきなイカラ……。
マエストロは、腐った食べ物やどろどろした液体を眺め、音もなく息を吐いた。
__ひさシブリニメザメたとキ、リゴニアエるこトガウれしくテたまらなかった。デモ……わたしは、もうしんだにんげんだから、やくそくをはたすことはできない。
マエストロが目を上げた時、正面に鏡があった。鏡には、あの趣味の悪い球体のオブジェが映っている。
__リゴに、つたえて。きゅうでんの、ばらえんのすみのうさぎのせきぞうのあしもとを掘って。そこに、大切な物を隠したの。どうか、伝えて下さい。私は、もう帰ります。
銀の球に、彼女の顔が小さく映っていた。奇妙に歪んだ顔全体に、ぽっかりと大きな穴が黒々と開き、彼女の言葉に合わせてぱくぱくと動いている。
マエストロは片手で顔を覆い、何も見ないようにした。幽霊の気配が次第に薄まっていった。
その日のうちにマエストロはドラゴンに乗り、都の総理官邸にやってきた。
「リゴはいるかな?」
部下に取り次ぐと、一時間ほど待たされた後でジェリゴーが現れた。
「マエストロ!」
「やあ」
マエストロは口早に伝言を述べた。ジェリゴーの眉が不審そうに動く。返事を待たず、マエストロは官邸にさっさと上がっていった。昨日からほとんど寝ていないせいで、眠くてたまらない。
ジェリゴーの私室でたっぷり眠り、翌朝清々しい気分で目を覚ますと、ジェリゴーが部屋に入ってきた。
「おはよう、マエストロ」
「……おはよう。リゴ」
ジェリゴーは、マエストロに小さな指輪を見せた。純金製で、今し方磨いたばかりのようにぴかぴかと輝いている。ジェリゴーの指にはとても入らないサイズだ。
「どうしたの?」
「君に教えてもらった場所で、見つけた」
ジェリゴーは指輪を握りしめ、ベッドに腰かけた。
「幼なじみの女の子がいてな、いつも仲良く遊んでいた。畏れ多くも、王宮や庭園を遊び場にして。……遊びで、結婚の約束をしたんだ。生意気に、指輪まで交わして」
ジェリゴーは目を細め、握った手をふたたび開く。金の細い指輪に、土がひとかけら残っていた。
「その子はどうなったの?」
「流行り病で、成人する前に亡くなったよ。亡き王妃陛下も、たいそう嘆かれた。……妹君だったんだ」
ジェリゴーはマエストロの背中を叩き、腰を上げた。
「ありがとう、ユーリ。久しぶりに彼女の夢を見られそうだ」
部屋を出て行こうとするジェリゴーに、マエストロは問いかけた。
「これだけ教えて、リゴ。死者を蘇らせる魔法はあるの?」
ジェリゴーはかぶりを振った。
「ないわけではない。だが、未だかつて成功した試しはない」
マエストロは自分の両手を握り固めながら、しばらく物思いにふけっていた。




