第十話 バッカナールの日(2)
二人の小さな家に、何人もの関係者が集まった。役者、奏者、劇場で働く人々。老若男女、魔法使いも魔法無しもいる。彼らはフェルディナントからリブレット(台本)を、シャルルから総譜とパート譜を受け取り、興味深げに読んでいた。
「明日から合奏開始。指揮は、この人がやってくださることになった」
フェルディナントから皆に紹介されたマエストロは、軽く会釈した。歌劇に携わる人々は、突然現れた見知らぬおっさん(マエストロのことだ)をまじまじと品定めする。
豊かな髪の女が、手を上げた。
「あの……フェルディナント。この人は魔法無しでは?」
マエストロはうなずいた。
「そうです。自分は魔法無しです」
「指揮者の資格があるんですか?」
フェルディナントが一瞬言葉に詰まった。横目でそれを眺め、マエストロはいつものように笑みを浮かべて答える。
「ラポールやシグナスの王様たちや、オルバルドの皇帝陛下の前で指揮を振ったことは何度もありますが、資格がないと言われたことは一度もありません」
それを聞いた人々は、ほっとしたように表情を緩めた。嘘は全く言っていない。ただ、マエストロが生きているのはフェルディナントたちよりも遙かに未来だという事実を伝えていないだけだ。
この当時、指揮者という仕事は魔法使いのものだった。魔法使いの中でも、厳しい試験に合格し資格を獲得した者しか指揮を振ってはいけなかったらしい。
けれど、この時代とおそらくさほど変わらない時期に、魔法無しの指揮者が現れたらしい。その指揮者以来、指揮者になるための試験や資格はなくなり、魔法使いにも魔法無しにも開けた道となった。その人物のおかげで、マエストロも指揮者をやれているわけだ。
「さあ、各自譜読みと本読みに励んでくれたまえ。解散!」
何人かの役者たちが残り、狭い居間で我が物顔にくつろぎながら、台本を読みふけっていた。彼らは時折フェルディナントやシャルルに質問をする。
マエストロも空いた椅子に腰かけ、総譜を読んだ。五線譜の中のメロディを辿り、脳内で音楽を再現する。曲の流れ、使われている和音、ダイナミクス(音の強弱)を確認しながら、自分がどう振るべきか、合奏の際何に気をつけるべきかを考えた。
新曲の初演はこれまでに何度か経験していた。今回作曲者も脚本家も側にいるので、彼らの意図や変更点を都度確認することができる。
パズルのようにはめ込まれた音符を追いながら、マエストロは微笑んでいた。音楽を完成させることは、いつどんな時でも楽しい。
きっと今回も、良い本番になるだろう。
翌日街中の小さな劇場で、合奏練習が始まった。シャルルたちお抱えの楽団が、オーケストラピットに手早く椅子と譜面台を並べる。役者たちは別室でフェルディナントたちの指導を受けながら稽古をしているらしい。彼らが楽団と合流するのは、少し先のことになるだろう。
初回公演の日はまだ決まっていないが、可能な限り早く上演したいとフェルディナントが言っていた。内容が内容だから、噂が流布して上演前に禁じられることを心配しているそうだ。
連日合奏をしていると、一人の男が荒々しく劇場に入ってきた。男を見て楽器を演奏していた団員たちが明らかに動揺したので、マエストロは合奏を止める。打楽器奏者がフェルディナントを呼びに走った。
駆けつけたフェルディナントが丁寧に挨拶をすると、男は不機嫌な様子で団員たちを見渡した。
「劇をやるのか?」
「そうです」
フェルディナントがうなずく。
「台本を見せろ」
フェルディナントは、さっと一冊のリブレットを差し出した。表紙を盗み見て、マエストロはおやと思う。今練習しているのとは全く違う題名が書かれている。
台本をぺらぺらめくり、男はつまらなさそうに呟いた。
「恋物語か」
「はい」
「まあ、この内容ならよかろう……」
リブレットを放り投げるようにして返しながら、男は脅した。
「分かっているだろうな。今度不適切な劇を上演したら、ただじゃ済まないぞ」
「わかっています」
「それと、指揮は誰だ?」
マエストロが名乗り出る前に、コンマスが叫んだ。
「オーギュストさんです!」
フェルディナントもうなずき、マエストロをちらっと見た。
「彼は、ただの代振りで」
マエストロの刈り詰めた頭を見て(魔法使いは髪が長く、魔法無しは髪が短い)、男は顔をしかめた。
「そうか。ならばいい。魔法無しが指揮を振るなど……」
「よくわかっています」
まだ何か言い足りなそうな男だったが、今一度団員に混じる魔法無しを睨みつけてから、劇場を出て行った。
フェルディナントが慌ててマエストロに謝る。
「すいません、お役人の前ではああ言うしかないんです」
「本当のことを言ったら、捕まるからですか?」
「はい……」
「自分は構いませんよ」
そう言いながらオーケストラを見下ろすと、彼らは一様に不安な顔をしていた。
今はごまかせたが、実際上演しようとしている歌劇は、正直、魔法使いにとって面白くない内容だ。しかも、役人のさっきの口ぶりからすると、彼らが「危ない」歌劇を上演するのは初めてではないらしい。演奏中に役人たちに踏み込まれ、一網打尽に捕らえられる様子を、マエストロはこっそり想像した。
フェルディナントが静かに尋ねた。
「怖くなりました?」
マエストロは首を振る。
「いいえ、ちっとも」
周囲で笑いが起こった。
「そう来なくっちゃ!」
それからすぐに、練習は再開された。
オーケストラの演奏がある程度整ってきたところで、役者たちの歌を入れた。
「皆さん、歌を聴きながら弾いてください。歌声に負けてもいけないけど、勝ってしまっても駄目です」
歌劇は歌がメインだ。伴奏となるオーケストラは、徹底的に歌い手に合わせなければならない。音量を抑えて、といわれ、金管奏者が嫌そうな顔をした。しかしマエストロは敢えて彼らを無視する。
「出だしはこんな感じでいいですか、ノエルさん?」
ヒロインを務めるソプラノ歌手のノエルが、マエストロを見下ろしてうなずいた。
「ええ。今ので入りやすいです」
「それはよかった。独唱、もう一度やりましょう」
スコアに一瞬目を落とし、それからマエストロは舞台状に目を向けた。オーケストラピットの位置上、役者たちのことを目で見ることができるのはオーケストラの中では自分しかいない。歌の出だしもその後の伴奏も、全て自分の指示にかかっている。
練習が順調に進み、上演の見通しがたってきた頃、フェルディナントたちは宣伝を開始した。奏者たちの家族友人やなじみの客を中心に、肝心の内容には一切触れず、歌劇をやるとだけ触れ回る。
その「なじみの客」の大部分が、魔法無しであることにマエストロはじき気がついた。
「歌劇団はあっちこっちにあるから、僕らの公演にはいつもあんまり集まらんがやちゃ」
居間で、フェルディナントはそうぼやいた。
「まあ、だからこそ自由にやれたんやけど。一回冷やかしに来た魔法使いが怒っちゃって、役人にチクりやがった」
「どんな内容だったんです?」
「別に、普通ですよ。恋愛もの。でも、魔法無しに魔法使いがフラれる展開にしたのが気に入らなかったんだって」
フェルディナントがため息をつく。彼も魔法使いだが、その時代を生きる人間としては珍しく魔法無しに友好的だ。いとこのシャルルが魔法無しであるからだろうか。
「フェルディナント君は、我々のような魔法無しをどう思いますか?」
マエストロが尋ねると、彼は少し考えてから答えた。
「子どもの頃はね、僕らが当たり前にできることが、なんでシャルルにはできないのかって不思議やった。というか、むしろ馬鹿にしてた。でも、じいちゃんが僕らにピアノを教えてくれたんやけど、シャルルの方がずっと上達が早くて。その時、こいつ魔法無しやけどすごいんやなって思ったんです」
うまく言えないけど……と、フェルディナントは言葉を探した。
「大きくなったら、シャルルが作曲を始めた。あいつ、音楽の天才なが。いつもすごく良い曲を作るんです。……だから、いつかシャルルが魔法使いにも、すごい作曲家って認められたらいいなって思う」
フェルディナントは、床に落ちていたリブレットを一冊取り上げた。
「本当は、魔法使いならもっと、魔法を活かせる仕事をせんなんけど……僕はシャルルの音楽を活かす方が楽しいから、こうやって細々と歌劇の台本書いてるんです」
「では、今回の歌劇で、魔法使いと魔法無しの戦いを描いたのは……魔法使いたちに問うためですか」
「はい。互いを憎む意味を、その源にあるものを」
フェルディナントは胸を張った。ピアノの前に座って、黙って話を聴いていたシャルルが目を細めてうなずいた。
公演の一週間前。役者たちの都合で、この日の練習は夜からだった。家にこもって楽譜を読むマエストロとシャルルを、フェルディナントが誘う。
「コンサート観に行こまいけ」
「コンサート?」
「前言ったうるさい指揮者の、オーギュストが振るんやちゃ」
マエストロも興味があったので、フェルディナントと連れだって出かけることになった。シャルルは留守番だ。
出かける前に、フェルディナントがかつらを差し出した。
「これ、被っていった方がいいですよ」
「おや、どうして?」
「だって……その、見るからに魔法無しだって分かる格好をしていたら、危険ですよ。急に襲われるかもしれないし、劇場に入れてもらないかも」
マエストロは問いを繰り返した。
「どうして?」
「どうしてって、」
「魔法無しだから何故劇場に入ってはいけないのです? ちゃんと入場料を払うのに。魔法無しであることを隠す必要などありません」
そしてマエストロは、何もかぶらずに外へ出て行った。
通りを二人で歩いていると、好奇と蔑みの視線が四方八方から飛んでくる。けれどマエストロは気にしなかった。冬のすがすがしい空気をかぎながら、鼻歌を歌った。最初周囲に気を張って厳しい表情で見回していたフェルディナントも、次第に慣れたようだ。
コンサートは上質だった。この時代よりもさらに百年以上も前から受け継がれた音楽が、オーケストラと指揮者の手で完璧に再現されている。
オーギュストは指揮棒を使わない指揮者だった。ぶんと腕を振るうたびに、背中に垂らした白髪まじりの髪が揺れる。口うるさいとフェルディナントは悪口を言っていたが、それは音楽にまっすぐ向き合う姿勢からくるのだろう。
全ての演目が終わった後、マエストロは盛大に拍手を送った。オーギュストは立派な指揮者だ。自分が彼に劣っているとは思わないが。自画自賛するようだが、どちらもそれぞれの素晴らしさがある。
「いやあ、素晴らしかったね」
フェルディナントも小さくうなずく。
「彼に挨拶していくの?」
「いえ、今日はそのまま帰ります。その、ちょっと気まずいんで」
「これからやる歌劇に彼を誘わなかったから?」
「……はい」
マエストロは含み笑いをした。
「今回の公演が大成功したらさ、次からは彼に振ってもらいなよ。良い曲と内容だから彼もきっと分かってくれるよ」
「あなたはどうするんですか?」
「自分は、いつまでもここにいられるわけじゃないと思うし」
フェルディナントがはっとした。
「……ラポールから来たんでしたっけ。いつまでクロスランドにいられるんですか?」
マエストロは首をひねった。自分の居場所は、外国どころか時をいくつも隔てた向こうにある。どうしてここのこの時代にやってきたのか、そしてもどることはできるのか、マエストロ自身も全く分かっていない。
「まあ、公演まではいられるでしょう」
マエストロのその答えに、フェルディナントはほっとしたようだった。
飛ぶように時間は過ぎて、本番の三日前となった。練習はもう大詰めだ。最初マエストロを侮っていたらしい楽団員たちも、すっかり彼を認めたようで、積極的に質問や相談をしに来る。合奏が終わっても毎日遅くまで練習に励む奏者や役者たち、とっくに覚えた台本をしわくちゃになるまで読み返し、段取りを頭に叩き込む舞台係、低予算でも立派な衣装を仕立てようと針仕事に集中する衣装係、そして直前まで楽譜を微修正するシャルル。皆本気で、歌劇の初演を成功させようとそれぞれ頑張っている。
ところがその日、ヒロインのノエルの様子がおかしかった。
ノエルは魔法無しで、普段は酒場で恋歌などを歌って生活の足しにしている。豊かな黒髪のかつらを普段から被っていることから、彼女のことをよく知らない人間は魔法使いだと勘違いしていた。
ノエルの独唱を振っていて、マエストロはおやと彼女を見上げた。どうもしっくりこない。いつもより声に張りとつやがないし、出だしやフレーズの切れ目など、細かい部分で伴奏とずれる。昨日まではぴったりと合っていた部分だから、マエストロも奏者も全く同じに演奏しているのに。
日によって調子が変わることは誰にだってある。リハで調子が良すぎると本番はコケるという昔からのジンクスもあるため、むしろ今調子が悪い方がいいかもしれない……そう思った矢先、フェルディナントが手を振って音楽を止めさせた。
「……フェルディナント君、どうかしましたか?」
舞台に近づいたフェルディナントが、ノエルの方を見た。
「ノエルの様子が変だと思いません?」
皆がノエルに注目した。ノエルの顔からすうっと血の気が引く。
「……あの」
「うん?」
「……わたし、この歌劇には出られません」
劇場は騒然となった。
「え、え、どうして?」
「お仕事入った?」
「何か悩みでもあるなら__」
マエストロは片手を上げ、動揺する奏者たちを制した。
「ちょうどいい。少し休憩しましょう。ノエルさん、自分とちょっと話しませんか?」
ノエルはこくりとうなずいた。
彼女を連れて、ホールを出た。
「どこか、邪魔されない場所があればいいんだけど……」
「ここで大丈夫です」
「わかった」
二人並んで廊下の床に直接腰を下ろし、どちらともなくため息をついた。
「もうすぐ本番だね」
「ええ」
「怖いんでしょ」
マエストロは真横のノエルに顔を向けた。
「君は、魔法使いの主人公の敵を演じることになる。主人公を色香で惑わし、騙し討ちで魔力を封じ、破滅に導く。……神話とはいえ、怖い役だね」
「……ええ」
ノエルは自分の腕に顔を埋めた。
「どうして、フェルディナントはわたしをヒロインにしたんでしょう。役と同じ魔法無しだから?」
「違う。君に十分な実力があるからでしょ」
「でも、この役を演じたら、わたしは魔法使いの敵になります!」
彼女は震えていた。
「観に来た魔法使いがわたしをどう思うか、分からないはずがないのに。フェルディナントもシャルルも、裏方だからそんなに影響はないかもしれないけど。わたしはこれからも、顔も声も世間にさらしていくんです。魔法使いたちはきっと、わたしをデリラ__魔法使いの仇としか見なくなる。ただの虚構の役だなんて、大嘘だわ。物語と現実の区別をちゃんとつけられる人なんて、そんなに多くはないんです」
ノエルはそでとスカートのすそをたくし上げ、くっきりと残るいくつもの傷跡を見せた。
「みんな、魔法使いにつけられた傷です。魔法使いは魔法無しを嫌っています。理由さえあれば、わたしなんか殺してしまっても構わないと思ってる」
「じゃあ、その考え方を変えてもらうしかないね。彼らに」
マエストロは静かにそう言った。
「どうやって?」
「この歌劇で」
ノエルは困惑して、ただパチパチと瞬きをした。
「フェルディナントは__そしてきっとシャルルも、我々魔法無しが生きるこの社会を少しでも良いものにしようとして、この歌劇を作った。だから、我々もそれぐらいの覚悟で演じないとね。彼らのかわりに作品を発表するのは、他でもない俺たちだから」
本気で臨もう、人生変わるよ。マエストロはノエルにそうささやいた。
「音楽は__我々が愛し、生活の糧とするあの美しい芸術は、魔法無しだけでなく、魔法使いも幸せにする。明後日、観に来てくれた皆にそれが分かるはずだ。自信を持って演じて」
ノエルの背中を軽く叩き、マエストロは先に立ち上がった。
「休憩は終わり……と言いたいところだけど、自分ちょっと用事ができたから、抜けるね。この後は自主練って皆に伝えておいて」
「は……はい」
ノエルを置いて、マエストロはさっさと劇場を出た。
街を少し歩き、辻に停まっていた馬車に乗った。行き先を聞かれ、「王宮へ」と答える。走り出す馬車の窓から、外の様子が見えた。石畳の敷かれた賑やかな街はじきに過ぎて、懐かしい田園の風景に出た。まだ何も植わっていない冬の耕作地。現代のクロスランドとさほど変わらない景色だ。
まだ午後の早い時間だから、曇っていても外は明るい。遠くにあった純白の塔が、だんだん大きく見えてくる。魔法使いサザールのことを思い出しながら、マエストロは珍しいその塔を眺めた。
王宮は塔からさほど離れていなかった。近隣の国々で一番面積が広い、王族の住まい。馬車はそこから少し離れたところに停まった。マエストロのことをただの観光客と思ったのだろう。
御者に運賃を払い(持ち合わせていた宝石を、この時代の金に換えた)、マエストロは悠々と巨大な門へと歩いて行った。
門の前には当然衛兵がいて、マエストロを見ると警戒した。
「何者だ」
「自分は指揮者です。王様に会いにきました」
「何だって?」
衛兵は、マエストロの顔に剣をつきつける。
「用もないのに、平民が陛下にお会いするなどまかりならぬ」
「用ならあります。今日は陛下に、あるご提案を」
「提案だと?」
マエストロは、懐から一枚のハンカチを取り出して、衛兵に見せた。無地のハンカチにブローチが七つついている。純金も純銀も、宝石をあしらったものもあった。意匠は木の葉や小鳥、ドラゴンと、それぞれ違う。
「自分の身元は、この方々が保障してくださっています」
やりとりを聞きつけたのか、門の前の衛兵の上官らしき騎士が現れた。彼もマエストロを睨んだが、ブローチに目を落とすなり顔色を変えた。
「ドラゴンと真珠……ラポール王室の紋章だ。小鳥はシグナス、木の葉はラピア……あなたは、一体?」
マエストロは微笑んだ。
「言ったでしょう。自分は指揮者です」
マエストロは王宮の一室に通された。だだっ広く、壁に大きな田園の水彩画がかけられている。部屋の中央に置かれた椅子はふかふかだった。
くつろいでいる間もなく、召使いがマエストロを呼んだ。彼の案内に従って広い廊下を歩きながら、きょろきょろと見回した。廊下から中庭が見える。人工的に作られた花畑には、冬であるにも関わらず春夏の花が咲き誇っていた。大声ではしゃぎながら走り回る子どもたちは、王子や姫だろうか。
ひときわ荘厳な扉の前に案内され、マエストロは躊躇なくノックした。中から返事がある。ちらりと召使いを見ると、彼は少し震えていた。
部屋の中に、壮年の男が一人立っていた。頭のてっぺんから足のつま先まできらびやかだ。堂々たる態度の彼はちっともその格好に負けていない。
それも当然だろう__おそらく彼がクロスランドの「当時の」国王だ。今はもう断絶した王室の。
王は、入り口付近に佇む見知らぬ男を品定めした。魔法無しであることを示す頭。眼鏡の奥の目が、落ち着きなく揺れている。物は良いが端がすりきれている黒い外套に、乾いた泥や草がついた革靴。右手小指にはめている指輪は、歪んだ真珠の見るからに安物だ。
どこからどう見ても、つまらない魔法無しの平民だった。国王がわざわざ時間を取って会うべき人物とはとても思えない。焦って報告をしてきた衛兵を後でクビにしてやろうと考えながら、王はその男に呼びかけた。
「指揮者と申したな? 余に何の用じゃ」
くだらない用事だったらただじゃ済まさぬ、と言外に警告したのを、その男はきちんと悟ったようだった。やや慌てたように深々とお辞儀をして、へつらうように言った。
「こうしてお時間をとってくださり、嬉しゅうございます、クロスランド国王陛下。ご機嫌麗しく……」
「世辞はよい。用件だけを申せ」
男は目を細めた。
「陛下は、魔法無しが指揮し、演奏する音楽を聴いたことがございますか」
王は鼻で笑った。
「音楽なら、魔法使いたちの一流の演奏を聴いておる」
「それはようございます」
男が食えない笑みを浮かべる。
「もう一つ質問をお許しください。陛下は、魔法が次第に使えなくなる病の治療方法をご存じですか」
王は顔をしかめた。
魔法が使えなくなる奇病は、何百年も昔から世界中の人間を悩ましてきた。徐々に__あるいは、ある日突然魔法が使えなくなり、自然に治ることもあれば、一生涯治らず魔法無しとして生きるしかなくなることも多い。魔法以外に体の異常はなく、医者たちですらまだ有効な薬を発明できていなかった。
通説として広まっているのは、魔法無しに近寄るとその病が伝染する、という噂だった。だから魔法使いは魔法無しを嫌い、遠ざける。自分の魔力を守るために。
魔法に関わるその奇病を治せると豪語する者は、今までに腐るほどいた。けれど、彼らが唱えたどんな治療方法も所詮はインチキだ。
「そなたが病を治せるとでも申すのか? 魔法無しが?」
「そうです。魔法無しだからです」
男は堂々と答えた。そして、懐から一枚の紙切れを取り出し、王に差し出した。
「『歌劇公演』……?」
「はい。自分たちの歌劇を、ご覧になっていただきたいのです。その時必ず、魔法が使えなくなった魔法使いたちを連れてきてください。魔力を取り戻すことができます。魔法無しの音楽は、魔法使いを救うのです」
「くだらない」
「畏れながら陛下、ラポールやシグナスの国王陛下も、オルバルドの皇帝陛下も、このことはよくご存じです」
王は顔をしかめた。そして、「もうよい、わかった。さがれ」と男を追い出した。
王宮を出てから、マエストロは深く白い息を吐いた。近隣諸国の元首たちの名を出したのは、ある種のはったりだった。「当時の」王たちは、勿論マエストロのことを露ほども知らない。だが、クロスランドの王は他国の王たちに照会まではしないだろうと計算していた。クロスランドは昔からやや閉鎖的で、王室同士も形式以上の交流はなかったらしいと現代で聞いたことがあったのだ。
劇場まで乗せていってくれる馬車を探して歩き回りながら、マエストロは王宮を振り返る。王たちが歌劇を観に来てくれるかは分からない。来たとしても、魔法無しの自分が指揮をしているのを見て怒り出すかもしれない。
指揮者の歴史の転換となった、魔法無しの指揮者に会ってみたいものだ。そうマエストロは考えた。その人がどんな指揮者か知らないが、これまで魔法使いにしか認められていなかった指揮者の資格を撤廃させたというのなら、よほどすごい音楽家だったはず。この時代のどこかにいるのか、少し前後なのかは分からないが。
一台の馬車を見つけ、マエストロは手を挙げた。御者は手綱を引き、馬は荒くいななきながら足を止めた。帰ったらリハーサルの続きだ。王が来る来ないに関わらず、本番は目の前に迫っている。自分には、本番を最高のものにする義務がある。




