第十話 バッカナールの日(1)
年末、クロスランドの吹奏楽団で、集会場の大掃除が行われた。
合奏やパート練習で使用する部屋の掃除、古い楽器のメンテナンスや廃棄、そして楽譜の整理。古い楽譜もまた使うことがあるため、そうそう簡単に捨てることはできないが、虫干しや破損の修理を定期的にしていかなければならない。また、取り出しやすくするために作曲家・音楽ジャンルごとの分類も大切である。
マエストロもちょうどクロスランドに滞在していたため、楽団の大掃除を手伝った。といっても、もっぱら古い楽譜を見てはあれやこれやと解説しているだけだから、邪魔だったかもしれないが。
トランペットのカトリーヌが、ふと一冊の楽譜を抜き出した。その楽譜の表紙にはなぜか、タイトルが書かれていない。開くと普通に総譜とパート譜が始まる。オーボエの長いソロから曲が始まるらしいが、譜面をじっと見ても思い当たる曲はなかった。
「マエストロ、変な楽譜見つけた」
「どれどれ」
のぞきこんだマエストロは、総譜を読むなり顔を曇らせ、カトリーヌの手からそっと取り上げた。
「これは、『禁じられた曲』だよ。まだ残っていたんだね」
「禁じられた曲??」
「ある理由から、ほとんどの国で上演も楽譜の所持も禁止されている。オルバルドやラポールで見つかったら、まず間違いなく責任者の首が飛ぶだろうね」
比喩ではなく、とマエストロは付け加えた。
「このクロスランドでも、同様の措置がとられているそうだよ。……まあ、今の総代の方々は、そこまで厳しく咎めないかもしれないけど」
そう言いつつ、マエストロは総代のマシューが近くにいないことをさりげなく確かめた。
カトリーヌが首を傾げる。
「なんで禁止ながけ?」
「この曲はとある歌劇の一部なんだけど、脚本に思想的な問題があるそうだよ」
「マエストロはやったことあるが?」
「ないない」
マエストロは苦笑し、手をひらひら振った。
「知識として知っているだけ。__楽譜、自分が捨てておこうか」
「あ! なら、今晩あっちこっちで野焼きしとるから、ついでに焼いてもらわれ」
「わかった」
マエストロは楽譜を自分のカバンにしまいこんだ。
その夜、マエストロは楽譜を持って外に出た。カトリーヌが言っていた通り、遠くにたき火の明かりが見える。年末ということでどこの家でも大掃除に励んでいるから、集まったごみを地区ごとに燃やしているらしい。
外套の襟に、雪の欠片が落ちてきた。どうりで寒いはずだ、と灰色の夜空を見上げる。分厚い雪雲は空を丸く覆っており、ちょっとやそっとの降雪では晴れそうもない。
せめて自分の周りだけでも温めようと口を広げて吐いた息は、白い蒸気となって夜に溶けていった。霧が出始めている。さっきまではっきりと見えていた明るいオレンジ色のたき火は、今や白い霧にすっかり隠されていた。
早く用事を済ませて、暖かい集会場に戻ろう。そうマエストロは決意した。今ごろ、きれいにしたばかりの集会場で、団員たちが打ち上げをしているはずだ。
霧に包まれた田舎道を一人、マエストロは歩いた。まだお酒を飲んでいないので、多少視界が悪くても溝や畑に落ちる心配はない。誰もいないのを良いことに、「禁じられた曲」の旋律を鼻歌で歌った。
前方に再び明かりがぼんやりと見えてきたころ、雪が本格的に降り始めた。肩をすぼめ、早足で霧を抜け、そしてマエストロは立ち止まった。
降りしきる雪の中、目の前に一軒の小さな家が建っていた。窓から灯りが漏れている。
霧の中でいつのまにか道を間違えたのだろうか? 自分はたき火めがけて歩いてきたはずだ。だが、周囲を見渡しても、どこにもたき火らしき様子はない。
それどころか、これまで田畑に囲まれた一本道を歩いてきたはずなのに、気づけば古めかしい家並みに囲まれている。
どうもおかしい__マエストロはそう思い、振り返った。先ほどまで歩んできた道は、霧と吹雪に包まれて数歩先も見えそうにない。
来た道をまっすぐに戻れば、元いた集会場に帰ってこられるかもしれない。(いや、そうでないと困る)だが、元来好奇心の強いマエストロは、迷い込んだ見知らぬ町にほんのちょっとだけちょっかいを出してみることにした。すなわち、目の前の家の扉を叩いたのだ。
中で声がして、扉が開いた。現れたのは、短い巻き毛の若者だった。無愛想な顔で、じっとマエストロを見つめた。
「ごめんください。自分、ちょっと道に迷ってしまったようで……」
マエストロが笑顔でそう言うと、青年は家の中に引っ込んだ。どたどたと声がして、別の若者が顔を出す。もじゃもじゃともつれた長い髪やくたびれて古めかしい服装に似合わず明るい表情で、彼はマエストロに笑いかけた。
「こんばんは。迷子ですって?」
「ええ」
「じゃ、中に入ってください。今夜は吹雪だから、あんま出歩かない方がいいですよ」
そう言ってから、彼は振り向いて怒鳴った。
「おい、シャルル! お前もあいさつくらいしろよな!」
家の中に入れてもらったマエストロは、床という床を埋め尽くす紙の束や、壁を占領しぎっしりと中身のつまった本棚、そして部屋の隅にひっそりと置かれたピアノをしげしげと眺めた。どさっと側で音がして、見下ろすと灰色のクッションが転がっていた。最初に顔を出した男が投げてよこしたらしい。
「すみません、お邪魔します」
マエストロが声をかけると、巻き毛の男は黙って床の紙を一枚取り上げ、羽ペンで何やら書き始めた。もしかしたら、あまり歓迎されていないのかもしれない。
「散らかってて、すみませんねぇ」
愛想のいい方の青年が、お茶を入れてくれた。
「僕、フェルディナント。売れない劇作家なが。こいつはいとこのシャルル。やっぱり売れない、作曲家」
「おお、素晴らしい」
音楽を愛するマエストロは本心からそう讃えたが、シャルルには皮肉に聞こえたらしい。ぎろりと睨まれ、マエストロは肩を縮めた。
「お客さんは? この辺の人やないですよね」
マエストロはうなずいた。
「自分はラポール出身で、あちこちの国を回っています。生業は指揮者です」
「指揮者!」
フェルディナントが大声を上げた。シャルルも興味深げにマエストロを見つめている。
「おいシャルル、今度の歌劇の初演、この人に頼まないか? オーギュストのおっさんはいろいろと面倒だろ」
マエストロは首を傾げた。
「歌劇?」
「そう! 今、僕とシャルルで、オペラ作ってんです。役者や楽団はシャルルお抱えのがいるし、演出やなんかは自分たちでどうとでもなる。でも、指揮者となるとちゃんとした資格を持ったプロを呼ばなきゃいけないでしょ」
「……資格?」
マエストロが生まれるよりもずっと昔、指揮者という仕事は魔法使いのものだった。資格試験に合格し、国家に認められた魔法使いしか指揮棒を振ることが許されなかった。だが、とっくの昔に廃れた慣習だ。マエストロのような魔法無しでも勿論指揮者として活動しているし、資格は特に必要ない。
「この辺で資格持ってる指揮者はオーギュストっていう人だけなんだけど、偉そうだし劇の内容にもあれこれ口出ししてくるから、嫌なんだよなー。あと、シャルルのことを馬鹿にしてる。魔法無しって」
シャルルは黙って肩をすくめ、いとこの憤りを静観している。彼は魔法無しなのだろう。
「では、自分が振りましょうか」
「えっ、マジっすか!?」
フェルディナントが身を乗り出した。
「……あー、でも、今回やろうとしてるオペラ、ちょっとヤバそうなんすよ。なんというか、お国から怒られそう」
「どんな内容なんですか?」
「有名な神話がベースなんですけど……」
告げられた題名を聞き、マエストロは息を呑んだ。
今日楽譜を見つけた、「禁じられた曲」の歌劇だったのだ。
「……いいですよ。やりましょう」
マエストロは二人にそう言った。「禁じられた曲」を振るのは初めてだ。こんな貴重な経験はそうそうない。
二人が喜んでいる隙に、マエストロは鞄の中から楽譜をこっそり取り出し、奥付に書かれた作曲者と劇作家の名前を確認した。先ほどから感じていた違和と話の内容から、ある仮説が頭の中で固まりつつある。
「一つ教えてください」
マエストロは問いかけた。
「今は何年ですか?」
フェルディナントとシャルル__二人の芸術家は、同時に答えた。告げられた年は、マエストロの生きる現代よりも百年ほど昔だった。




