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命の使い道 ~残された寿命を、きみたちへ~ 元勇者と五人の孤児  作者: @HIKAGE
第四章 加速する日々

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最終話 Subject A

朝の厨房は、まだ薄暗い。

俺は包丁を研いでいた。刃が砥石の上を滑る音だけが、静かな店内に響く。



「アマン、玉ねぎ終わったよ」



レーテルが目を赤くしながら、大きなボウルを運んできた。



「泣いてんじゃん」



「玉ねぎのせいだってば」



「はいはい」



彼女の手際は年々良くなっている。泣きながらでも手は止まらない。俺が褒めると「当たり前でしょ」と返してくる。——誰かに似てきたな。



天使の台所。俺はここの料理長だ。

この店ができる前から、決まっていたんだと、よく自慢している。



二十五歳になった。もう「子ども」だった時間のほうが短い。それなのに、あの頃の記憶のほうが、ずっと鮮やかに残っている。



仕込みを進めながら、ふと窓の外を見る。朝陽が川面を照らし始めていた。兄ちゃんが好きだった時間帯だ。走るのが好きだと言っていた。朝の空気が気持ちいいのだと。



俺にはわからなかった。走るより寝ていたい。

それは今も変わらない。





兄ちゃんが死んだ日のことを、今でも思い出す。



刺された記憶が鮮明に残っている。腹が熱くなって、冷たい石の床に崩れ落ちた自分。レーテルの泣き声。暗闇の中で「ユウト兄ちゃん」と呼んだこと。



そこから先は、光に包まれた記憶だけだ。



目を覚ましたら、兄ちゃんが横たわっていた。冷たくなっていた。レナ姉ちゃんが、声にならない声で泣いていた。



トラが壁を殴っていた。拳から……血が、出ていた。サリー姉ちゃんは兄ちゃんの手を握ったまま、ずっと無言だった。



ヨルカは——立っていた。立ったまま、兄ちゃんを見下ろしていた。



俺は何も理解できなかった。ただ、兄ちゃんの胸を叩いた。起きてよ、と。何度も何度も。



俺のせいだと気づいたのは、その夜だった。



俺が下水道に連れて行った。俺があの子どもに近づいた。俺が刺された。だから兄ちゃんが、死んだ。



十二歳の俺は、その重さに押しつぶされてしまった。





葬儀の後、俺たちの家族は壊れた。



レナ姉ちゃんが最初に崩れた。

———厨房に立てなくなった。



兄ちゃんのレシピを見ると呼吸がすごく早くなって倒れてしまう。レナ姉ちゃんは、そのまま修道院に入ってしまった。



1年ほど後にカリンちゃんが連れ出してくれなければ、今でもいたかもしれない。



ゼルグとレーテルと俺で店を回した。エルリーナさんは変わらず取引をしてくれた。今だっていい関係が続いてる。ヘンスが朝から晩までいてくれた。



だけど、兄ちゃんの味は出せなかった。俺がやっても。誰がやっても。

———トラは、半年ほど姿を消した。



ユウト兄ちゃんも、レナ姉ちゃんもいなくなって、寂しかったのかもしれない。俺たちは、一緒にいたけど、支えきれなかったんだ。



トラが少し離れた街の酒場で見つかった。目の焦点が合っていなかったらしい。アレンさんに連れ戻されたのだと、後で聞いた。



「俺がもっと強ければ」



トラは、それだけを繰り返していた。ダンジョンであの巨人を倒せていれば。兄ちゃんに魔法を使わせなければ。あの時もっと早く変身できていれば。そう言って修行を続けた。



「この店に、兄ちゃんは一人だけ」



帰って来た後、変な事を言い出し、トラ兄ちゃんとは呼べなくなった。

何故かみんなが納得し、今では、俺たちの共通認識となっていた。



サリー姉ちゃんは、落ち込むみんなを元気づけようとしてくれた。黙り込み、いつまでも立ち上がれない俺たちの尻を叩いてまわった。———俺たちがバラバラにならないように、みんなの間を取り持ってくれた。



夜中にふと目が覚めると、サリー姉ちゃんが暖炉の前に座っていることがあった。兄ちゃんがいつも座っていた場所に。膝を抱えて、火を見つめていた。





ヨルカは、研究室にこもった。



何か月も帰ってこないことがあった。帰ってきても、目の下に隈ができていて、食事も摂っていないのが見てわかった。



「間に合わなかった」



一度だけ、彼女がそう呟くのを聞いた。あと少しで量産化できるところだった。あと数か月あれば……。その数か月を、俺が奪った。



————全部、俺のせいだ。



その思いは、十三年経った今でも消えていない。薄れたけど、消えてはいない。きっと、消えなくていいのだと思う。





一年ぶりに、レナ姉ちゃんが厨房に立っていた。

手は震えていた。だけど、包丁を握っている。



彼女は、サリー姉ちゃんに頼まれたカリンちゃんに、修道院から連れ戻されたのだった。



「きっとお兄ちゃんは、冥福を祈ってほしいんじゃないと思うよ」



サリー姉ちゃんは、残りの人生をユウトへの祈りに捧げようとした彼女に言った。贖罪に震えるレナの手を両手で包みながら。



「……お兄ちゃんのレシピ、やってみる」



その日の天使のハンバーグは、しょっぱかった。だけど懐かしい味だった。誰も残さなかった。



トラが酒をやめたのは、サリー姉ちゃんが殴ったからだった。

俺は、彼女が初めて声を上げた瞬間を見た。本当に容赦が無かった……



「兄ちゃんが見たら泣くよ」



拳よりもその言葉が効いた。



トラはそれ以来、酒に手を出していない。代わりに、毎朝走るようになった。兄ちゃんがそうしていたように。



ヨルカがある日、研究室から一本の薬瓶を持って帰ってきた。桃朱雀の完全な合成に成功したのだと、静かに言った。



「もう、誰も……同じ思いをしなくていい」



彼女は笑おうとしていた。でも、笑えていなかった。

最近になって、ようやく彼女が「兄さんの選択は正しかった」と言えるようになった。



言葉にするまでに十三年かかった。





俺自身のことも、話しておこうか。



あの日から、半年くらい料理ができなくなった。包丁を持つと、あの夜のナイフが重なる。自分の腹が熱くなる幻覚が走る。



だから、皿を洗ったり、会計なんかもこの時に覚えた。少しでも役に立ちたかったから。天使の台所に。



レーテルが、毎朝隣に立ってくれた。何も言わず、ただ同じ時間に厨房に来て、同じように仕込みを始めた。



ある朝、俺は包丁を握れた。手が震えなかった。



「……やっと、戻ってきたね」



隣に兄ちゃんは、いないけれど。

それでも、仲間が、兄弟がいた。



それからは、料理が俺の全部になった。兄ちゃんが残してくれた『天使の台所』。エヴェラが記録していたレシピの数々。



アマン料理長と呼んでくれた、あの声。

俺はこの天使の台所を守る。それが、俺の一番やりたいことだと思ってる。





あの日、俺を刺した子ども——ジンは、今うちで働いている。



兄ちゃんが俺にしてくれたことを、俺はジンにはできなかった。あの夜から、俺は憎んだ。殺したいと思った。十二歳の俺の中に、そんな感情があることに自分で驚いていた。



許せるようになるまで、何年もかかった。



ジンが天使の台所に来たのは、三年前だ。孤児院のマージュさんの紹介だった。痩せて、目を合わせない少年。あの時の面影はほとんど残っていなかった。



「……すみませんでした」



初めてジンが俺に言った言葉がそれだった。



俺は何も言えなかった。「許す」と言える自分が、まだいなかった。だから、代わりに皿洗いを教えた。



今では仕込みも任せられる。不器用だが、真面目だ。兄ちゃんなら、最初から笑って受け入れたのだろう。俺にはできなかった。



それでも、ここにいる。





今日は、年に一度の日だ。

兄ちゃんの命日。毎年、みんなが天使の台所に帰省する。



トラは、Aランクの冒険者になっていた。普段は各地を回っているが、この日だけは必ず帰ってくる。最近は後進の育成もしているらしい。



サリー姉ちゃんは影の一族に入った。一度、みんなで村を訪れた時に決めたそうだ。それから何故かヨルカと仕事の話をするようになった。



レナ姉ちゃんは、孤児院の運営の中心になっていた。マージュさんと二人で、この王都だけでなく近隣の街にも教育プログラムを広げている。兄ちゃんのような人と結婚し、今では、お母さんをしている。



ヨルカは——相変わらず、よくわからない。軍を退いてからは、研究と教育を行ったり来たりしているらしい。エルフの村々を回り、子どもたちに教えていると聞いた。



時々、ここに帰ってくる。帰ってくると、必ず兄ちゃんが座っていた席に座って、カレーを頼む。



「兄さんの味と違うね」



「毎年言うな、それ」



「毎年言うよ」



10年経って、やっと美味しくなったと言ってくれた。





みんなが揃った。



暖炉の前の、あのテーブル。何度も修理して、もうほとんど原形を留めていないけど、捨てられない。



俺は兄ちゃんのレシピで料理を作った。焼き鳥も焼いた。兄ちゃんの味には、まだ届かない。エヴェラの残したデータ通りに作っても、何かが足りない。



「いただきます」



みんなで手を合わせる。兄ちゃんの席だけ、空けてある。そこにはいつも、一杯の水と、小さな花が置いてある。



食事の後、みんなが思い出話をする。毎年同じ話もある。でも、毎年少しずつ笑える話が増えていく。



トラが「兄ちゃんのランニング、遅かったよな」と言って、みんなが笑う。サリー姉ちゃんが「でも毎朝走ってたのは偉かった」と小さく付け足す。



レナ姉ちゃんが「最初のハンバーグ、焼きすぎだったよね」と言って、俺が「あれはうまかったよ」と返す。



ヨルカが静かにカレーを食べている。時々、目を閉じる。何を思い出しているのかは、聞かない。



ただ、帰り際にいつも俺の頭を撫でていく。昔、兄ちゃんがそうしていたように。





夜。



みんなが帰った後、俺は一人で厨房にいた。

レーテルも先に寝かせた。彼女も母になる身だ。そろそろ厨房の仕事もお休みしてもらわないとな。



洗い物を終え、かまどの火を落とす。兄ちゃんのエプロンが壁にかかっている。もうボロボロで、何度も縫い直した。使うことはない。でも、ここにある。



手に取る。布は薄くなっているが、形はまだ残っている。



「兄ちゃん」



声に出すのは、年に一度、この夜だけだ。



「俺たち、ちゃんとやってるよ」



返事はない。当たり前だ。エヴェラもいない。



「俺、父親になるよ。相手はわかるだろ」



エプロンを胸に当てる。兄ちゃんの匂いなんて、もうとっくに消えている。



「そうだ。今日、新しい子が来たんだ。孤児院からの紹介で。八歳の男の子。すげえ生意気で、いきなり厨房に入ってきて、味見して、まずいって言いやがったんだ」



少し、笑う。



「そいつがさ、俺のことなんて呼んだと思う?」



エプロンを壁に戻す。



「——兄ちゃん、って呼びやがったんだ」



一瞬、呼吸が止まった。



「だから言ってやったよ。うちに兄ちゃんは一人しかいねえ、って」



窓から月明かりが差し込んでいる。厨房が白く照らされる。兄ちゃんの席に置いた花が、わずかに揺れた気がした。



「……でも、悪くない響きだったな。兄ちゃん」



兄ちゃんがいない世界が、もう十三年も続いている。慣れたなんて言わない。でも、ここに立っている。兄ちゃんがくれたこの場所で、兄ちゃんが教えてくれたことを、誰かに渡していく。



完全に癒えたわけじゃない。たぶん一生、癒えない。

それでいいって言うはずだ。



この痛みごと、生きていく。

兄ちゃんが選んでくれた命で。

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