19話 線状の日々の中で
ルクサーン王国の西側の入り口である「竜の門」が、夕陽に焼かれて赤黒く沈んでいる。
俺たちの目の前に立ちはだかる神殿騎士テオの瞳にあるのは、凍てつくような殺意と、底知れぬ悲しみだった。
「……勇者」
テオの低い声が、夕暮れの空気を震わせる。
アレンが困惑したように、俺とテオを交互に見た。
「テオさん……? 勇者って、一体何を……」
テオはアレンを無視し、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。背負った巨大な金棒が、彼の歩みに合わせて重苦しい金属音を立てた。
「あの戦場を覚えているか」
テオの声が、遠い雷鳴のように俺の脳内に響く。
――あの戦場。俺はもうずっと、思い出さないようにしていた。
エヴェラの勧めでもある。思い出すと俺はパニックになるだけで、子供たちを守れない。過去を変えられない以上、その行動にどんな意味があるのかと。
何度も何度も、思い出す度に、当時の記憶がまるで塗り替えられるかのように、どんどん変わっていった。
俺が、魔族を撃つ華々しい場面が、今では目の前いっぱいに人々の苦悶の顔が現れ、苦しみと呪いの悲鳴が耳の中で鳴り響く。
これが本当の記憶なのか、俺にはわからない。
エヴェラには罪悪感が作り出した妄想だと言われている。
この世界に来る前から持っている俺の病気の症状だと。
実際には、空中の高所から攻撃しているのだから、一人ひとりの顔がアップで見えるわけがない。轟音鳴り響く戦場で一人ひとりの恨みの声が聞こえるわけがない。
すなわち作り出した妄想のイメージだと、エヴェラはそう論理的に説明し、パニックになる俺を何度も落ち着かせた。それでも、ふと思い出してしまうと、子供たちにバレないよう、ずっと布団の中で詫び続けていた。――顔も知らない、だれかに。
思い出さないように。楽しい気持ちで埋まるようにしてきた。その作戦は功を奏し、最近では、思い出すことはほとんどなくなっていた。
それを目の前に提示される。
深い憎しみの眼差しとともに。
俺の足が震え、呼吸が荒くなる。
どうしたらいいか。わからない。
唇が冷たい。
テオや、あの冒険者たち、それからフンド将軍の怒りについて。謝罪するにしても、彼らは何に怒っているのか、それを知る必要がある。
でも、どうしたらいい?
俺はただ、テオを見つめていた。
しばらくすると、テオはため息をつき、おもむろに語り始める。
「あの日、俺は部隊を率い、前線に出ていたんだ。南東の元オレガノ村の近くにな」
彼は「まあ知らないだろうが」と小さく付け足し、続ける。
「貴様が現れる前、俺の部隊はすでに3分の2を失っていた。残った者たちも、もはやこれまでと覚悟を決めていた。……そこへ、貴様が来た」
テオの拳が、みしりと音を立てて握りしめられる。
俺の視界がわずかに揺れた。喉の奥で、何かが詰まる。
「部下たちは叫んだよ。『勇者が来た』とな。遠くで大きな魔法が見えていたんだ。あれが魔王軍の魔法なら俺たちは終わりだ、でも、あれが司祭様の言う勇者様の魔法なら、俺たちは勝てると」
「追い込まれ、ボロボロになり、もはや剣も握れぬ手で、アイツらは貴様という光を仰いで涙を流した。希望に震え、最後の力を振り絞って目の前の敵へ立ち向かったんだ。……傷つき倒れた者も、空を飛ぶお前に手をふり、声を上げた」
俺の膝が、わずかに折れかける。息が浅くなる。
「だが、貴様が彼らに放ったのは何だった?」
――光。
すべてを白く塗りつぶす、無慈悲な魔法。
「貴様は、敵も味方も、その高慢な魔法で等しく焼き払った。俺の目の前で、手を取ろうとした部下の指が、歓声を上げていた喉が、一瞬で炭となって崩れ落ちた。……救世主だと? 笑わせるな」
俺の血の気が引いていく。視界が歪み、足元の石畳がぐにゃりと曲がった。喉の奥から、酸っぱい塊がせり上がってくる。
「俺は、息絶える直前の部下と約束した。……必ず、仇を討つと」
俺が「良かれ」と思って振るった力。その裏側ではただ殺戮があったのだ。「理解」した瞬間、俺はイメージの中に取り込まれる。世界中から呪いの言葉が聞こえはじめる。
「俺は見ていたぞ、お前が笑っていたのをな」
立ったまま話していたテオは金棒を手にすると歩き出した。一歩、また一歩近づいてくる。
あの日、確かに俺は笑っていた。それはよく覚えている。
エヴェラ:もういいでしょ。逃げるわよ? それともここで仕留める?
俺:いや、もういいんだ。
エヴェラ:ちょっと、ユウト。何言ってるの? どうするの? 子供たちは?
俺:悪いんだけど、これからはあいつらの面倒見てくれないかな?
エヴェラ:そんなことできるわけないじゃない。ユウト、あなたが責任を持ってやるの。誓ったでしょ。一時の感情で終わらせるの? 生きていればできることはたくさんある。こんな事にその命、使って本当にいいの?
俺:いや、もう無理だよ。どこかで、何かの間違いじゃないかって、そう思っていたけど、どうやら間違いじゃないみたいだ。あれは妄想じゃなかったんだ。
エヴェラ:あれは妄想だって、何度も説明したよね。あいつに仇を討たせるってこと? それ、無知なユウトを一時の感情で殺した罪をあいつが一生背負うだけよ?
何かが自分の中で明確に折れたことを感じて、俺は何も答えが浮かばない。だが、エヴェラは止まらない。
エヴェラ:彼の部下も生き返らないし、子供も守れない、これから生きていれば出来たことも何もできない。これが、あなたの命の使い道なの?
エヴェラの声が、頭蓋骨の内側で直接響くように鋭く刺さる。
……耳を塞ぎたい。
こいつが望むならそれに応えないと。
俺は、ゆっくりと両膝をついた。
石畳の冷たさが膝を通じて全身に回る。
喉の奥で、何かが崩れる音がした。
トラとサリーの驚いたような顔が視界の端に映った。
少し俯いて、首を差し出す。
そして、目をつむった。
「……何も言うことは無いのか?」
テオの口から、掠れた声が漏れる。
「……すまなかった。俺は、何も見えていなかった。……殺してくれ」
震えてはいなかった。
ずっと終わりにしたかった、その頃の願いが叶うだけだ。
エヴェラ:ユウト、何をしているの! 立って!
エヴェラの声が、再び頭蓋の奥で鋭く響く。
テオの金棒がゆっくりと振り上げられる。
死の影が俺を覆った。
「「兄ちゃん!!」」
鋭い叫び声。
目の前に、2つの小さな背中が割り込んできた。
トラとサリーが剣を抜いて俺の前に立っている。
その切っ先はテオを捉え、トラは今にも切りかかりそうだ。隣では、サリーが震える手で小剣をテオに向けている。
「どけ、小僧。お前らには関係ないことだ」
大人でも怯むテオの眼光がトラを刺す。
「知らねえよ! そんなこと、知るかよ!」
トラが吠えた。その声は、いつもの楽し気なものではない。
「兄ちゃんに何かするって言うなら、お前を、ころす」
「トラ、いいんだ……。これは、俺の……」
「嫌だ! そんなの絶対嫌だ!」
トラの涙がぼたぼたと地面に落ちる。
そして、テオを睨み、剣を両手で握り、切りかかった。
「お前がいなければ!」
テオは金棒をほんの少し動かし、これを弾く。サリーが逆から足に切りかかるも、金棒の持ち手で軽く防ぐ。テオはそのまま何もせず、トラの瞳をただ見ていた。
トラの瞳は、なぜか夕闇の中で異様な光を放っていた。
それは人間にはありえない、燃えるような「黄金色」の輝きに見えた。
(……黄金の瞳。迫害の象徴、ライカンスロープの血か。なぜ、こんな子供が、勇者の傍に……)
テオの脳裏に、教団が長年隠蔽してきた「歴史」と、目の前の奇妙な光景が混ざり合う。勇者を守るために、絶滅に瀕した異種族の少年が命を懸けている。
テオは、ゆっくりと地面に金棒を下ろす。
「元勇者だろうと、俺の生徒です。俺は知ってる、こいつは望んで人を殺すような奴じゃない。あんただって見りゃわかるだろ」
横で見ていたアレンが、俺の肩を強く掴み、無理やり引き起こした。
「……チッ」
テオは背を向けた。
「部下には仇を取ると誓った。だが……死にたがっている貴様を殺しても、意味が無い。貴様は生きろ、勇者。せいぜい、その重荷に背骨を折られながら、泥を啜って生き永らえろ」
その大きな背中が、夕闇の中に溶けていく。
テオの足音が遠ざかっていく。
俺は、崩れるようにアレンの体に寄りかかった。
「……ごめん。トラ、サリー……。アレンさん、ごめん」
トラの瞳からは、すでに黄金の光は消えていた。彼はただ、震える手で俺の服を掴み、「よかった……」と泣きじゃくった。サリーは俺たちの頭を抱きかかえてくれている。
温かい。
アレンは何も聞かなかった。ただ、その大きな手で俺の背中を叩き続けた。空はもう、夜の藍色に支配され始めている。
俺は、何を考えればいいんだろう。
憎悪する呪いの声はもう聞こえない。俺の頭はもう思考することを止めていた。代わりに、彼女の甘い声が聞こえ始める。
エヴェラ:どう? ユウト。生きているの、楽しい?
俺:……なんで、そんなこと。こんな時に。
ふと、ピクニックへ行った日が頭をよぎる。
俺は確かに言った。生きてるのって楽しいなって。
――あれは一体、何だったんだろう?
エヴェラ:あの『楽しかった日』と『今日』は、一本の道でつながっているの。もちろん、『今日』から『未来の楽しい日』へもね。だけど忘れないで、死んだらその道はそこで終わりなの。あなたはたどり着けないまま終わる。
俺が捨てようとしていたもの。
俺が差し出そうとしていたもの。
元の世界ではもういらないって思っていたもの。
それは何だろう。
俺はそれを何に使ったらいい?
エヴェラ:んー、今日の朝、あの門を出た頃のユウトは知っているみたいだったよ?
見上げると、闇の中に建つ門には、巨大な竜がしがみ付くようにレリーフが刻まれている。一体、どんな人が、どんな思いで作ったんだろう。
朝日を浴びながらこの門を通った時、トラとサリーを死んでも守るって決めた。俺たちの「家」で待つ、レナ。小さなヨルカとアマンを、きっと幸せにするって。
――俺、死ぬところだったのか。
あまりのバカさに気づき、帰り道を歩いていた俺の足はその動きを止める。
ボロボロと、涙だけが落ちる。
俺に分かるのは、心配そうに見上げる2人の手の体温だけだった。
◇
――ヴゥン――
[Internal Log - Memory Slot 192]
対象状態:外部刺激による確証バイアスの深層化
診断:C-PTSDに伴う自己攻撃的妄想の再燃
生存ルート継続率:78% → 11%(Critical)
処理系変更:
自己一貫性理論に基づく治療アプローチを優先実行。
外部情動を利用した心理的アンカーの固定。




