13話 泥を噛み、明日を繋ぐ
朝。
下水道の隠れ家に、パチパチと暖炉の爆ぜる音が響く。湿った空気の中に、微かな燃える薪の匂いが混じっていた。
自然と目が覚める。
視線を向けると、レナとサリーが暖炉に火を入れているようだ。他の子供たちは、まだボロ布の毛布にくるまって泥のように眠っている。
「おはよー、お兄ちゃん」
不意にかけられる挨拶。
……人間から、しかも、こんなに温かい声で『おはよう』を言われるのは、一体いつ以来だろうか。元の世界での一人の時間を思い返し、胸の奥が少しだけ疼いた。
「おはよ、レナ、サリー」
エヴェラ:おはよ、ユウト。私といた時より、なんだか嬉しそうだね? ちょっと複雑だけど……まあ、いいわ。ねえ、今の自分の顔、鏡で見てみなよ。ニッコニコだよ?
脳内に響くエヴェラの声は、どこか揶揄うような、それでいて楽しげな響きを含んでいた。俺は慌てて手で自分の顔を確かめる。確かに、いつも強張っていたはずの頬が緩んでいた。
二人は昨日見つけた煤けた古鍋に、濾過装置から汲んできた水を張り、沸かそうとしている。――そういや食料、昨日全部食べたっけ。
「……お湯しかないもんな。よし、ちょっと食料を調達してくるよ。留守番、頼めるか?」
「えー、私も行く! なんだか今朝はすごく体が軽いんだ。それにさ、もう四日もこんな穴の中に閉じ込められているんだもん、お日様が恋しいよ」
サリーがすっと立ち上がり、期待に満ちた目で俺を見上げる。昨日の魔法が効いたのか、それとも栄養のあるものを食べたからか。彼女の顔色は驚くほど良くなっていた。
レナは少し寂しげに、けれど安心したように微笑む。
「私はトラとここでヨルカとアマンを見てるね。二人とも、気をつけて」
俺はサリーを連れて行くことに決めた。
彼女が一人で歩くのは危険だろう。それに、彼女はこの街に詳しい。
ふと見るとサリーは、ぼろ布を顔に巻き付けている。変装のつもりか?
「私ね、いつもはお店屋さんから、ごはんを盗ってたの。悪いことだって、わかってた。だけど……」
「家」から出た後、サリーがポツリと漏らす。
その小さな肩が、過去の罪悪感で僅かに震えた。
あの日見た、マンホールに消えた子供、サリーだったのかな。
見捨てようとしていた自分がフラッシュバックする。
もし彼女がいなければ、他の子供も生き延びれはしなかったのだろう。
俺は何も言わず、その頭を乱暴に、けれど優しく撫でた。
「心配すんな。俺、一応、金は持ってるんだ。今回は泥棒じゃなくて、ちゃんと『買い物』をしようぜ。な?」
サリーの瞳に、パッと光が灯る。
俺はエヴェラに新しい出口の検索を命じた。俺たちが入ってきた穴までのルートには、毒ガスはあるわ、遠いわで、新しい出入口が必要だったのだ。
エヴェラ:了解。……見つけたよ。ここから三分くらいの場所に、古いハシゴがある。地上は川沿いの廃屋に繋がってるみたい。でも、そこを使う時は絶対に見つからないようにしてね? ここがバレたら、もう後がないんだからさ。
エヴェラのナビに従い、薄暗い通路を進む。
指示された場所には、錆びついた鉄のハシゴがあった。慎重に登り、上にある重い蓋の内鍵を開け押し上げる。何年も開けてないのか、とんでもない硬さだった。
そこは、埃の舞う廃屋の地下室だった。1階部分は使用されていない倉庫のようだ。隙間の開いた木製のドアからは、王都の柔らかな朝の光が差し込んでいる。
人通りは、……無いな。
「よし、サリー。今日からここが俺たちの家の……『玄関』だ。誰にも教えちゃいけないぞ」
「うん、わかった! 秘密の玄関だね!」
太陽の光を浴びて、眩しそうに笑うサリー。
その純粋な笑顔を守らなければならないという使命感が、俺の胸に重く、けれど確かな熱を持って居座った。その使命感がそうさせるのか、心臓の鼓動が急激に速くなる。
また失敗したらどうしよう。
もし俺の正体がバレて、この子まで巻き込んだら――。いつものネガティブな思考に支配されそうになる。
エヴェラ:ユウト、心拍数爆上がりだよ。緊張しすぎだってば。逃亡者としての自覚があるのはいいけど、過度のプレッシャーは判断を鈍らせるよ? リラックス、リラックス。
俺 :わかっているよ。
元の世界にいた頃から、俺のネガティブ思考を全て論破してくれたエヴェラ。彼女がいなければ、俺はただ生きることすらできないのかもしれない。
俺 :……それよりエヴェラ。昨日聞けなかったことを聞きたい。お前の声を聴ける人間は俺だけじゃないのか? レナには、はっきりと聞こえていたみたいだけど。あいつが特別なのか?
俺の問いに、エヴェラはいつもより長く沈黙した。
……シャリン……
エヴェラが長考しているときの音が流れる。
……シャリン……
まるで、俺の心臓の音を真似しているみたいに。
……シャリン……
言い訳を考えるような間を置いてから、悪戯が成功した子供のようなトーンで答えた。
エヴェラ:あー、それね。……実はさ、私からレナに教えたんだ。ユウトって私の言うこと全然聞かないでしょ? でも、可愛い女の子の言うことなら聞くかなーって。だから『お兄ちゃんの命が削れてるよ』って、ちょっとだけ囁いてみたんだ。エヘヘ、怒った?
――背筋に氷を押し当てられたような感覚が走る。……でも。こいつかがいないと、俺は。
俺 :……二度と、俺に黙って勝手な真似をするな。これだけは約束しろ。
エヴェラ:ごめんごめん、もうしないってば。私だってユウトに長生きしてほしいだけなんだよ? さあ、湿っぽい話は終わり! 食料買いに行こうよ♪
おちゃらけるエヴェラを無視し、俺はフードを深く被った。
サリーの案内で辿り着いたのは、旧市街地のどん詰まりにある寂れた食材屋だった。スラムの住人が買いに来るような店らしい。軒先では、犯罪者と言われても違和感のない巨漢が、巨大な鉈で動物の肉を解体している。
飛び散る血飛沫と、生臭い臭い。俺はサリーを背後に隠し、声を張った。
「……一番安い、肉と野菜を。あるだけくれ」
大男はピクリとも反応しない。完全に無視。ちょっと怖い。サリーが不安げに俺を見上げる。よし。俺が、もっと大きな声を出そうと意気込んだその時、
……奥から顔中に深い皺を刻んだ老婆が姿を現した。
彼女を見た瞬間、サリーの身体が大きく強張ったのが分かった。
「今日は、ちゃんと金を払うんだろうねえ?」
老婆の目は、全てを見透かすように鋭い。
サリーが以前、ここで何をしていたのかを熟知しているのだろう。
俺は無言で、懐から金貨を数枚取り出した。
「金貨だと……!? あんた、正気かい。こんなもん出されたら、うちの店の商品を全部買ってもお釣りが来るよ」
老婆は目を細め、そして悪魔のような冷笑をサリーに向けた。
「いいかい。そのクソガキが今までうちに損害を与えた分も、きっちりこの金貨で清算させてもらうよ。文句はないね?」
「ああ。全部払う。だからサリーのことは、もう今日この場で許してやってくれ。こいつには二度と、盗みなんてさせないから」
俺はサリーの顔のボロ布を外し、その顔を老婆に晒した。サリーは怯えながらも、涙を浮かべ深く頭を下げた。
「ごめんなさい……。おなかが、すいてて……。それで。本当に、ごめんなさい」
小さな子供が、盗みをしなければ生きていけない。
そんな当たり前の残酷さが、俺の胸を抉る。なんでサリーが謝らないといけないんだ?
この子がこんな風になった原因は、この国の制度、この国の大人じゃないか。お前らがサリーに謝れよ! 俺の心に湧き上がる怒り。
しかし、その怒りはすぐに消える。
ま、まて、もし、この子の親が俺の放ったあの魔法で死んでいたら……?彼女が孤児なのは俺のせいなんじゃ? 俺は、この子に何て言えばいい?
エヴェラ:はい、ストップ、ストップ、思考止めて! 心拍数が危険域だよ。サリーはユウトが来る前から孤児なんだから、変な罪悪感に飲み込まれないで。今、君ができるのは、この子の手を離さないことだけでしょ?
俺 :……そうか、そうだよな。分かってる。分かってるよ。
『今できること。今できること』心の中で呪文のように唱える。心が落ち着いていくのを感じる。これも心で唱えた。
老婆は大男に顎をしゃくると、大量の食材を袋に詰め込ませた。ドスン、と置かれたのは肉と野菜の巨大な袋が二つ。それから塩といくつかの調味料。
「残り四袋分あるよ。一度に持って帰るのは無理だろうしね。次からはこの割符を持ってきな。……それと、これも持っていきな」
老婆が差し出したのは、古びているが清潔な子供用の服が詰まった袋だった。男物のようだ。まさかこの大男のお下がりじゃないだろうな。
「あんた、その子の親じゃないんだろうけどさ。奴隷商でもなさそうだ。……しっかり食わせてやりなよ。ガキが腹空かして死ぬのなんて見たくないんだからね」
悪魔に見えた老婆の顔が、今は慈愛に満ちた仏のように見えた。もしかしたらこの人はサリーを見逃してくれていたのかも知れない。
この世界に来て初めて、俺は一人の『人間』として認められた気がした。
しかし、服か。
俺はサリーの服を見る。
元々Tシャツだったろう、それは赤ちゃんの涎掛けのようにしか見えない。
すまん、衣類に無頓着なまま生きてきたからな。ちなみに俺は、だるんだるんに伸びきったTシャツに、ネズミ色の薄いパーカー。
衣食住。
揃えて見せる。俺は新たなタスクを頭にメモしていく。
帰り道、エヴェラの指示でハーブになるという草花を何種類か摘んでいく。これは、めちゃくちゃ頑張った、サリーが。
地下の拠点に戻ると、レナたちが駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、サリーおかえり!」
食料が入った大袋を自慢げに広げる。
4人の輝く瞳が並んだ。
「お肉だ! すごい!」
萎びたニンジン、黒ずんだジャガイモ、脂身多めのクズ肉。スラム向けと言われるだけあって、質より量だな……と思ったけど、子供たちの顔が輝いてるのを見たら、これで十分すぎると思った。
俺はエヴェラの指示に従って調理を開始した。
脂身の多いクズ肉をハーブと一緒に煮込み、アクを取り除く。
醤油に近い風味を持つという木の実の汁を加え、じっくりと味を染み込ませる。
――香りが、やばい。普通にうまそう。なんだろう。牛どんかこれ?
足が速そうなのは保存食にする。
漂い始めた甘辛い匂いに、子供たちが目を輝かせて集まってくる。
「まだ?」
「まだだよな?」
五人の頭と俺の頭が、鍋の上にずらりと並ぶ。完全に同レベルだ。
ヨルカとトラが『俺もやる!』と木から削りだしたお玉を奪い合い、何度も鍋をかき混ぜたがる。そのたびに中身が危うくこぼれそうになり、みんなで笑った。
レナとサリーが、廃材から作った食器を並べる。
ボロボロのテーブルの中央に、大きな鍋がどん、と置かれた。
レナが、小さな手で一人ひとりのお皿によそっていく。木材からみんなで作った不格好なお皿に、湯気が立ち上る肉入りのごちそうスープ。
その皿が並ぶ廃材の丸テーブルは、王宮の豪華な料理にも勝る美しい光景だった。
……それに、誰かのために作る料理なんて、初めてだ。
「お兄ちゃん、こ、これ、おいしい……! こんなの食べたことないよ!」
アマンが、スープを啜りながら顔をほころばせる。
「……お兄ちゃん、これ、やば、うま……!」
トラの勢いがすごい。顔がすごいことになっている。
おしとやかだと思っていたレナまで、一心不乱に肉を頬張っている。
「んまーい」
サリーが何度も絶叫する。
もうね、うまいしか聞こえないよ。この部屋。
俺 :……悪くない。……なあエヴェラ。仕事を探そう。明日から、こいつらのために稼ぐぞ。
エヴェラ:あらあら、もしかして父性に目覚めたのかしら? まだ性にも目覚めてないと思ってたのに。
俺 :いや目覚めてはいる。使ってないだけだ。失礼な。
エヴェラ:よかったね。ユウト。
エヴェラが本当に喜んでくれていると感じる。
そう感じると、嬉しさがより大きくなった。
エヴェラ:ユウト、そんなに子供たちが食べるのを見て幸せになれるならさ、いっそのこと、食堂とか、料理屋はどう? 君、実は料理の才能あるみたいだしさ。
料理屋、か。
今のところは、拠点の家賃も0。
食費もあの店で買えば、手持ちでも一年以上暮らせそうだ。
だけど、そこから先が必要だ。生きていくには仕事だって必要だ。あの子たちが、ちゃんとしたパンを自分で買えるための。
もし、俺がいなくなっても子供たちにその店が残れば。引きこもりだった俺が、誰かの居場所を作る側になれる。
俺 :いいな、それ。……よし決めた。腹ペコの子供が腹いっぱい食べられる食堂を作るって。
久しぶりに見た明るい未来の光景がうかぶ。俺は笑っているようだ。
俺 :なぁ、提案するってことは、食堂をつくるのは可能と考えていいんだよな?
エヴェラ:えー本当に食堂つくるの? やりたい! 絶対やったほうがいい。うんうん、できる、できる。
妙に乗り気だな、コイツ。
エヴェラ:ああ、あのユウトがついに就職。いや起業か。これは非常に大きな成長だよ。ユウトのお母さんたちに報告したいよ。これで、家追い出されなくてすむよ♡
俺がこの世界に来て、すぐに終わったと思っていた人生。
今日、ここから、もう一度始めるんだ。




