悪者
最初のうちは、静かすぎるこの部屋が好きだった。
冬の夕方みたいに、余計なものが削ぎ落とされて、ただ空気が透明に沈んでいくのを眺める時間。
君がコートを脱いで、マグカップをふたつ用意して、テレビをつけるか迷って、結局つけない日。
そういう日が好きだった。
だけど、最近は、静かすぎるこの部屋がこわい。
なにかを話さなきゃって思ってるのに、なにを話せばいいかわからない。
もうとっくに話すべきことは話しつくして、あとは残った沈黙に火をつけるか、そっと蓋をするかのどちらかだ。
「夕飯どうする?」
「……なんでもいい」
この「なんでもいい」も、前は優しさだったんだと思う。
でも今は、投げ出すような響きがある。
そうじゃないってわかってる。わかってるけど、そう聞こえてしまう。
だから、「じゃあ、うどんでも茹でる?」なんて返したりする。
うどん。
間違いのない選択肢。お互いが気まずくならず、あたたかくはあるけれど、特別ではない。
もう何度目だろう、うどんなんて。
食器を片付けてるとき、ふと、君が言った。
「俺さ、別に別れたいわけじゃないんだよ」
言葉が宙に浮いた。落ちる場所を探してるみたいに、テーブルの端っこにしがみついていた。
「うん」
私はうなずくしかなかった。
私だってそうだ。
別れたいわけじゃない。
でも、うまくやっていきたいとも思えなくなってきている。
未来の話をするたびに、なんだか嘘をついている気がしてしまう。
春には旅行に行こうとか、来年は引っ越そうかとか。
そういう話が、ただの慰めのようにしか聞こえなくなっていた。
「たぶん俺たち、疲れてるんだと思う」
「うん」
「でも、疲れたって言い出したら、それを癒す相手が……さ、自分たちじゃないってことになっちゃうじゃん」
「……そうだね」
その通りだった。
私は君を癒す自信がなくなっていた。
そして、君もきっとそうだった。
どちらかが立ち上がって、「大丈夫、なんとかしよう」って言ってくれたら、きっと少しは違ったんだと思う。
でも、もうお互い、自分の足元を支えるだけで精一杯になってしまってる。
優しくしようとすると、心が軋む。
笑おうとすると、頬が痛い。
「責めたいわけじゃないの、ほんとに」
「俺もだよ。別に、何かが嫌いになったわけじゃないし」
君はそう言って、テーブルに置いたスマホをいじった。
その仕草に意味はない。
だけど、意味があるように見えてしまう。
私はスマホを持っていない。
だから、視線をどこに置いたらいいかわからなくなる。
この部屋はきっと、君と私の間にできた、最後の避難所だったんだ。
何も言わなくてもいい、沈黙すらお互いの居場所になった時期もあった。
でも今は、沈黙が壁になっている。
そして、それを壊すには、どちらかがきっと、悪者にならなくてはならない。
「じゃあ、どうする?」
君がそう言った。
目は合わない。
でも、声はまっすぐだった。
「……まだ、わからない」
私は正直に答えるしかなかった。
別れたいとも思っていない。
でも、このままでいたいとも思っていない。
君はうなずいた。少しだけ、安心した顔をしていた。
答えを出さなかったことで、なにかが救われたように見えた。
「時間、ちょっと置こうか」
「うん」
それは別れのようで、まだ別れじゃなかった。
保留。
延命。
それでも、それが今の私たちにできる唯一の選択肢だった。
玄関で靴を履く君の背中を、私は見送る。
「気をつけて」と言いたかったけど、声が出なかった。
君がドアを開ける音がした。
外の空気が、少しだけこの部屋に入ってきて、それでわかった。
ああ、やっぱりこの部屋は、もう誰かの避難所じゃないんだって。
ただの、静かな箱になってしまったんだって。
でもきっと、どちらかが悪者になるよりは、マシだった。
そう思いたかった。
ずっと、思い続けたかった。




