綺麗事も今だけは
夕立の匂いがしていた。
アスファルトに落ちた雨がじゅうっと蒸気を上げ、遠くで雷が鳴っている。
雲の切れ間から少しだけ夕日が覗いて、それがベランダの金属手すりを赤く照らしていた。
風鈴が鳴る。
その音すら、今日は気に障った。
「……降るね」
そう言ったのは、どちらだったか。
もうそれすら曖昧になってしまうくらい、二人の会話はゆっくりと、慎重すぎるほど慎重に選ばれた言葉ばかりで埋め尽くされていた。
「うん」
「傘、持ってたっけ」
「……一本しかなかったはず」
そこから先が、どうしても続かない。
言葉の終わりが、次の言葉を呼ばない。
長く付き合ってきたはずなのに、もう相手の考えていることがわからない。
わかろうとして、でも、わかってしまいそうで怖い。
向こうも、同じことを考えている気がして、余計に口が重たくなった。
リビングの時計が18時を指している。
こんな時間に、こんな空気で、こんなふうに二人きりでいるのは、本当はもう最後だと、どちらも気づいている。
でも口にした瞬間に、何かが決定的に終わってしまう気がして、怖かった。
彼が口を開いた。
「……なんかさ、最近さ」
その言い方に、私は身構えた。
彼も、それに気づいたようで、苦笑した。
「別に、責めたいとかじゃないんだけど」
「うん」
「たぶん、俺たち、ちょっと無理してるよね」
「……うん」
風鈴がまた鳴った。
その音が、妙に切なく響いた。
「どうしても嫌とか、そういうのじゃないんだけどさ」
「わかるよ」
「なんか、こう、気を遣いすぎてる感じ、しない?」
「うん。最近ずっと、何を言っても怖くなってた」
「俺も」
「でも、それって、悪いことなのかな」
「わからない。でも、こんなふうに思ってるってことは、やっぱり、どこかおかしいんだと思う」
二人とも、どこか「自分が悪くない」と証明したくて、それでいて「相手を責めていると思われたくない」気持ちばかりが先に立っていた。
それが、より一層、関係の空気を重たくしていく。
「好きだったんだよ、本当に」
「私も。今も好きって、言ってもいいと思ってる」
「じゃあなんで、こんなことになるんだろうね」
「……好きって言葉、万能じゃないから」
「うん」
窓の外の雨は強くなっていた。
近くの団地の屋根を叩く雨音が、部屋の中まで響いてくる。
だけど、不思議と、その音にすら安心するほど、室内の沈黙が耐えがたかった。
「別れる、ってことなのかな」
「そうなる、のかな」
肯定でも否定でもない言葉の応酬が、またひとつ関係を薄くしていく。
まるで、自分から終わらせたくない子ども同士の言い争いみたいだった。
「ごめんね」
「ううん。ごめんね」
二人とも、何ひとつひどいことをしていないのに、こんなに苦しくて、こんなに謝って。
きっと、誰かが泣いて、誰かが怒ってくれたら、もっと楽に終われたのかもしれない。
でもそういう関係じゃなかったからこそ、こんなに長く続いたんだとも思う。
「最後に、なんか……楽しい話しようか」
「うん。……夏の花火大会、覚えてる?」
「もちろん。浴衣着て行って、金魚すくいして」
「私、あのときめちゃくちゃはしゃいでたよね」
「うん、可愛かった」
「ふふ」
過去の記憶に、最後の余白を埋めるように笑い合う。
まるで、それが今の涙の前払いのようだった。
「ちゃんと幸せになってね」
「君も。ちゃんと、自分を好きでいてね」
「……うん」
玄関のドアが開いて、閉まる音がした。
残された部屋には、雨の音と、風鈴の音だけが響いていた。
誰も悪くない。
だけど、どうしようもなく、二人とも少しずつ壊れていた。
それを、ちゃんと受け入れられた分だけ、大人になってしまったのかもしれない。
そして、そういうふうに終わる恋も、確かにあるのだと思う。
夏の空気が、少し涼しくなっていた。




