開かない扉
部屋の時計が静かに秒を刻んでいる。
それ以外に音はない。
さっきまで窓の外で鳴いていたセミの声も止んで、静寂だけが部屋の中に染み渡っていた。
リモコンを手に持ったまま、テレビの画面だけが色を放っていた。
だが、内容はほとんど頭に入ってこない。
彼女はソファに背を預けたまま、脚を組み替えた。
目線はテレビに向いているようで、実際にはどこにも焦点を合わせていない。
俺はと言えば、テーブルに置かれたコップの水を持ち上げることもせず、その縁を指でなぞるばかりだった。
「ねえ」
不意に、彼女が口を開いた。
だが、それは何かを言い出すための「ねえ」ではなく、投げかけただけの音だった。
中身のない呼びかけ。
反応を求めているのか、それともただ空気を震わせたかっただけなのか、判断がつかなかった。
「何」
俺も同じように、中身のない返事を返す。
そのあとまた、沈黙が落ちてきた。
何か言いたいのに言わない。
言えば壊れるのかもしれないという予感が、互いに口を重くする。
このままでは終わる。
なのに、どちらかが言葉にしなければ、終わらない。
別れ話というのは、いつだって言った方が悪者になる。
でも言われる側は、もうずっと前からその予兆を感じ取っている。
感じ取って、でも知らないふりをする。
“あえて”じゃなく“仕方なく”知らないふりをする。
「今日、さ」
再び彼女が口を開いた。
今度は少しだけ中身があった。
俺は首を少しだけ動かし、彼女の方を見た。
でも彼女は、窓の外を見ていた。
「うん?」
その続きを促す声も、どこか他人事みたいだった。
「電車、止まってたんだよね」
「へえ」
俺は無関心そうに言ったけど、心の中では気づいていた。
彼女が今言ったことは、まったく関係のない話だってこと。
こんなことを話し出すときは、大抵何かを避けたいときだ。
彼女の視線が、ようやく俺の方に戻った。
その瞳の奥に、少しだけ揺れる何かがあった。
ためらいと、苛立ちと、そして一抹の哀しさ。
「ねえ、私たちって……」
言いかけたその言葉を、彼女自身が噛み殺した。
俺は口を開こうとした。
でも、喉の奥が詰まったようで声が出なかった。
こんなふうに、何度目だろう。
最後の一歩を、どっちも踏み出さない。
片足を宙に浮かせたまま、転ぶことも逃げることもせず立ちすくんでいる。
終わらせたいと思っている。
でも、どこかで「終わらなければまだ続いている」と信じてしまう自分もいる。
「まだ」と「もう」の狭間で、ゆらゆらしている。
彼女は立ち上がった。
足音を立てずに、鞄を取って玄関に向かう。
俺は止めなかった。
止めなかったのは、引き止める理由がもう自分の中になかったからだ。
でも、彼女の背中が見えなくなった瞬間、何かが喉の奥からこみあげてきた。
遅い。
全部、遅い。
それでもドアは開かれたままだった。
彼女は振り返らずに立っていた。
その後ろ姿が、俺を試しているように見えた。
だけどその視線に答える言葉を、俺は見つけられなかった。
沈黙のまま、時間だけが過ぎていった。
ドアが閉まる音が、やけに小さく聞こえた。
そしてそれは、すべての終わりよりも、ずっと痛かった。




