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幸運な立花柾 3

 玄関の扉を開けると、醤油が焦げる香ばしい匂いがした。トントンと何かを刻む音に自然と笑顔が浮かぶ。


「ただいまー」


 仕事から帰った立花絵美はそう声を掛けながら家の中に入った。洗面所へ足早に向かうと、リビングからひょっこりと顔が覗く。


「母さんおかえり!」


 出迎えてくれたのはエプロン姿の長男の柾だった。


「ただいま。今日も晩御飯作ってくれたのね。ありがとう」

「いいよ。今オレ暇だし。あっ、今日の晩飯は生姜焼きだから!」

「良い匂いね。楽しみ」


 絵美の言葉ににっこり笑った柾はリビングへ引っ込んだ。絵美はその背を見送って、元気な長男の姿に幸せを噛み締める。この当たり前が如何に大切か、思い知らされた半年だった。


 柾は半年前、何ひとつ痕跡を残さずに忽然と姿を消した。誰かに攫われたのか、それとも自ら失踪したのか。

 なんの手掛かりもない上に、夫と次男は長男の存在をさっぱり忘れ去っていて、ただでさえ動転していた絵美の混乱はさらに深まった。


 柾の部屋は出掛けた時のまま残っているし、住民票に名前もあるのに二人は不思議そうに首を傾げるばかりでまったく柾を思い出さない。

 その現象は二人だけではなく、親戚に近所の住民、柾の友人まですべてに及び、はっきり覚えているのは絵美ひとりしかいなくなっていた。


 一時は自分の正気を疑うこともあった。物理的な痕跡が残っていなかったらきっと精神病院に行っていたことだろう。

 不安に苛まれながらもひとり捜し続けていた絵美の下へ、ある日突然柾は何ひとつ損なうことなく帰って来た。

 神祇庁神隠し課異世界転移係を名乗る怪しい人物に伴われて。


 サポート担当の兎洞(うどう)という名の若い女性の説明によると、柾は異世界転移なるものに遭遇したらしい。捜査員の犬飼に発見されるまでの半年間、異世界で生活していたそうだ。


 正直なところ、そんな突飛な話は信じられない。

 しかし、本人はその通りだと認めた。柾は半年間、炭鉱の町に住む夫婦の世話になっていたそうだ。

 二人はマチスとターニャという名前で、とんでもなく大盛りの美味しい定食屋を営んでいるらしい。


 兎洞は他にも今後のことなど色々話していたはずだが、あまり覚えていない。家族全員理解の外にある話に呆然としていて、冷静なのは柾だけだった。

 兎洞の話もすべて柾が聞いて、彼女は帰っていった。


 そうして柾は何事もなかったかのように日常に戻った。勿論、以前とまったく同じではなく、なんと料理が作れるようになっていたのだ。


 マチスに教わったという料理は見た目も味も素晴らしく、台所に立ったことすらない柾が作ったとは俄かには信じられない出来だった。

 異世界転移については未だに半信半疑だが、確かに柾は半年間、絵美の知らない場所で暮らしていたと実感した。


 絵美が休学届を出していたため大学に行く必要はなく、行方不明の間にアルバイトもクビになっていた柾は、現在家事のほとんどをやってくれている。

 復学するまでの期間限定だが、フルタイムで働いている絵美は大助かりだ。


 先日は菓子まで作って弁当と一緒に持たせてくれた。随分大きく、ザクザクした食感のどこか懐かしい味わいのクッキーだ。一枚で小腹が満たされるクッキーの作り方を教えてくれたのはターニャだそうだ。


 懐かしそうに世話になった夫婦について語る柾は以前よりずっと大人びている。きっと夫婦の元で得難い経験をたくさんさせて貰ったのだろう。


 半年間、絵美は窶れるほど心配した。柾を思って何度泣いたかわからない。

 絵美がただ泣いている間に、柾は一回りも二回りも大きく成長して帰って来た。思いがけないことである。


 柾の変化は家族にも影響を与えていて、次男は兄を真似て料理を手伝うようになり、夫も口数が増えた。

 絵美も柾が家事をやってくれるから体が楽だ。それだけではなく、久しくなかった自分の時間というものが持てるようになった。

 最近の家族の団欒の時間は賑やかで、とても楽しい。


 きっと、柾に良い影響を与えたマチスとターニャのおかげだろう。傷ひとつつけずに守ってくれただけでもありがたいのに、たくさんのことを柾に教えてくれた。


 炭鉱の町で定食屋を営む夫婦。マチスは寡黙でターニャは威勢がいいそうだ。きっとあの歯応えがあるけれど優しい味のクッキーみたいな夫婦なのだろう。

 絵美も是非訪ねて直接礼が言いたかったが、二人は異世界の住人である。せめて心の中だけでもと、絵美は毎日感謝を捧げていた。




「マサキのやつ、本当に帰っちまったんだなぁ」


 常連のひとりがしみじみと呟いた言葉に、ターニャはこみ上げてきたものをグッと堪えた。


「いやぁ〜、おれはなんかの冗談じゃねぇかと思ってたぜ」

「俺も。なんか、役人が帰れねぇって言ってたらしいが……」

「頭のいい連中もあてになんねぇなぁ!」


 一日の仕事を終えた男たちは酒を片手にここにはいない上流階級の者たちを腐す。彼ら以外の客たちも酒が入ってわいわいがやがやと騒がしかった。

 今のターニャにはその騒がしさが有難い。


 マチスとターニャは柾が帰ったその日も当たり前のように昼も夜も店を営業していた。

 腹を空かせた男たちが困るというのもあるが、一番は働いていないと寂しくてまた泣いてしまいそうだったからだ。

 柾がいなくなった分夫婦の仕事は増えて、悲しみを紛らわせるには打ってつけだった。


「女将さん、忙しそうだなぁ。手伝おうか?」

「いいよ。客は座ってな」

「マサキの代わり、早く見つけないとな」

「あっ、今度は可愛い女の子にしてくれよな、女将!」

「アンタたちみたいなおっかない連中が出入りする店で働きたがる若い娘なんていないよ!」


 常連たちといつものやり取りを交わすと、少しばかり気分が上向いた。

 ウジウジと落ちこんではいられない。ここの炭鉱夫たちときたら際限なく酒を飲むから夜の営業が一番忙しいのだ。

 クルクルと走り回り酒を運んでいると、直して貰ったばかりの扉がいきなり大きな音を立て、乱暴に開かれた。


「ここにこの人相書きの男がいるだろう!」


 どかどかと武装した男たちが店に押し入ってくる。先頭の男が紙を掲げて詰問した。

 気分良くなっていた炭鉱夫たちは場違いな闖入者に不機嫌になり、営業中はあまりキッチンから出て来ないマチスが現れターニャを庇うように立った。


「なんの御用で?」

「貴様が店主か! ここでこの男を雇っているだろう! すぐに連れて来い!」


 代表らしい紙を持った男がマチスに詰め寄りターニャはハラハラした。

 闖入者たちは全員腰に剣をぶら下げている。下手なことを言ったら夫が斬りつけられるかもしれないと、恐ろしかった。


「……マサキ?」


 紙を見た夫がそう呟いたので、驚いたターニャは覗き込んだ。

 人相書きにはびっくりするほどマサキそのものの似顔絵が描かれていた。


「本当だ、マサキだね」

「すげぇそっくりじゃねぇか!」


 ターニャと同じように人相書きを見た客たちが驚いている。こういった似顔絵は目撃者の証言を基に描くので大まかに似ている程度なのだが、マサキの似顔絵はまるで本人を目の前にしたかのように似ていた。


「そのマサキとやらはどこにいる!?」

「マサキは……いない」

「隠すつもりか!?」

「その子なら故郷に帰ったよ」

「な、なんだと……」


 最低限のことしか言わない夫に焦れて口を挟むと男たちに動揺が走る。


「その男は異世界人だろう? 帰れるはずがない!」

「迎えが来たのさ。ここらでは見ない風体の男だったよ」

「む、迎え!? くそっ、先を越されたか……。異世界人はいつ帰ったんだ」

「今日の昼前だね」

「今日か! ならばまだ遠くへは行ってはいまい。おい、この町の周辺を捜査するぞ!」


 代表の男の号令に、闖入者たちはまたどかどかと騒がしく出て行く。バタンと力いっぱいに扉が閉められて、ターニャはホッと息を吐いた。


「なんだい、あいつらは? なんでマサキを捜してんだ?」

「さぁ。どうせ碌でもねぇ理由に決まってらぁ」

「これから捜査、とか言ってたな。こんな夜更けにうろつくと死人が出るぞ」


 客たちは各々思ったことをさざめいている。闖入者に楽しい一日の終わりに水を差された彼らは興が削がれたのか、それから程なくして帰って行き、誰もいなくなったところで店を閉めた。


 マサキを見つけられなかった男たちがまた来るのではないかと案じていたが、いつも通りの静かな夜で、ターニャは夫と明日の仕込みをしてからその日は休んだ。


 ターニャがことの次第を知ったのは次の日の朝のことだった。客のひとりが持ち込んだ新聞に昨夜見たそっくりの人相書きがでかでかと印刷されていたのだ。

 ターニャを含め、ほとんどが文字が読めないため、読める者が新聞を読み上げた。


 半年前、この国から二つばかり国を挟んだところにある軍備も経済も豊かな帝国の皇帝が、不思議なものを城で見つけたそうだ。厚手で丈夫な生地でできた鞄と、その中に入った見たこともない品物。


 恐らく異世界のものだろうそれに、皇帝はとても興味をそそられたらしい。持ち主に会って話を聞きたいと思ったそうだ。

 鞄の中にあったカードのようなものに描かれた細密な肖像画の人物を持ち主だと推測し、絵師にそれを写させて人相書きを各地に配った。


 それが、今になってこの国にも届いたようだ。

 帝国だけではなく、各国にばら撒かれた人相書きを手がかりに様々な人々がマサキを血眼になって捜している。

 新聞には見つけた場合の懸賞金などの情報も書かれていた。それが相当な金額なのだ。皇帝がどれだけ本気でマサキを捜しているのかがよくわかる。

 新聞の内容を知って、ターニャは胸を撫で下ろしていた。


 マサキが国に帰ると言い出してから、彼女は何度となく引き止めようと思った。

 ターニャとマチスの間には子供がいない。だから、半年も一緒にいた柾を本当の息子のように思い始めていたのだ。


 故郷へ帰る準備をするマサキに「このままあたしの息子になっとくれ。帰らないでおくれ」という言葉を何度投げかけようと思ったことか。

 でも、また家族に会えると喜ぶマサキを目の前にするとそんな都合の良いことはとても言えずに最後の日を迎えた。


 言わなくて良かったと、心の底から思った。

 きっとあのまま残っても、マサキはあの男たちに引っ立てられて帝国に連れて行かれただろう。


 皇帝がどんな人物かターニャは知らなかったが、昨日の一団は信頼できるとは思えなかった。マサキがどんな扱いを受けるかわかったものではない。

 彼らだけではなく、マサキは各国から追われている。ややこしいことになる前に帰って正解だった。


 ターニャは店内を見回した。

 真新しく、ガタついたり穴の空いてないテーブルと椅子。歩くと沈んでそのまま穴が空きそうな場所があった床。そして蝶番が壊れそうになっていた扉。


 忙しさに追われ、気になってはいても見ないふりをしていた諸々の問題はマサキのおかげですっかりなくなった。

 この上、彼はターニャたちに半年も親の気分を味わわせてくれたのだ。そんな優しい青年を無事に家族の元へ帰せて良かった。


 寂しい気持ちは消えないが、暖かい記憶はなくならない。ターニャは心の中でマサキの無事と健康を祈る。

 そして、彼と引き合わせてくれた神とマサキを産み育てた両親にも感謝の祈りを捧げた。

 神祇庁のことや犬飼さんについてはまたこんど詳しく書きたいです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とってもおもしろかったです。
[一言] 面白いです。また読みたいです。
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