2
その日ゴンドラは雨に濡れていた。ぱらぱらと屋根を叩く音に目を覚ます。青空に覆い被さるようにして広がった雲は、不思議と泣いているかに思えた。体を起こすと節々が痛み、伸びをするにも一苦労だった。座席に敷く毛布か何かを用意しなきゃな。そんなことを思いながら向かい合う座席を見ると寝ているはずの夏菜がいない。途端に底知れない不安と恐怖が込み上げる。ここは廃墟で更には山奥。そんなところに私一人だけというのはあまりにも心細い。助けを求めるように窓の外を見回すと、ボロボロになったメリーゴーランドの屋根の上に夏菜はいた。
素敵。
いや、違う。夏菜を見ると自分のことなんていっぺんに飛んでしまうからいけない。それでもこの不安感はしぶとく残っていて、だから私はメリーゴーランドに駆け寄った。
夏菜は例の風になびく風鈴のような切ない声色で空に向かって歌っていた。
「素晴らしい世界、素晴らしい地球、素晴らしい私達は夢の中で遊ぶ」
「それなんて歌?」
「素晴らしい世界」
返事はするものの顔はこちらに向けず、夏菜は続きを歌おうとする。寂しさに飲まれていた私は思わずそれを邪魔してしまう。
「素敵な歌だね」
「そう。そう思うんだ。私とは違うんだね」
「夏菜はどう思うの?」
「世界はこんなにも素晴らしいのに、地球はあんなにも青く素晴らしいのに、どうして私達が遊ぶのは夢の中だけなの? ねぇ、疑問に思うことはない? どうして私達は今ここにいるの?」
「それは……」
「私はこの歌しか知らないから、こんな歌しか歌えないけど。他の歌を知ってたら、こんな歌なんて歌わない」
夏菜の強い言葉に気圧されて、何も言えなくなる。そんな風に思ってしまうなんて、夏菜はいったいどんな環境で育ってきたのだろうか。
聞けば彼女は拾われてきた捨て子らしい。道端に猫かなにかのように捨てられていた彼女は通報を受けた警察に保護され、施設に引き取られて育ったようだ。産まれて間もない頃のことらしい。だから彼女は両親を知らないし、名前も施設の人に付けられたものだ。夏に咲く黄色い花のように元気に育ってほしいという願いが込もった名前だそうだが、夏菜自身はその名前を気に入っていないという。花に喩えられるだけでも期待が大きい、そんな風に話す夏菜はどこか寂しげだった。
「私なんかに何を期待してるんだろうね。夢の中の世界に縋り付くように飛び出してきた私に。まるで拾われた恩を返すつもりもない私なんかに」
「そんなことないよ。だって、夏菜、綺麗だから」
「そう思うの? 本当に?」
「妬けちゃうくらい」
私の言葉を理解しているのかどうも読み取れない夏菜は、それでも小さく微笑んで見せた。
「こんなところにいたら風邪ひいちゃうよ。戻ろう」
夏菜を連れてゴンドラに戻る際、制御室に隠した食料の中から菓子パンをいくつか持ってきた。それを二人で食べ、あとは一日雨を見ながらたわいもないことを話して過ごした。
「このままずっと二人でいようね」
「そうね。いられたらいいのにね」
夏菜の声は雨音に霞んで聞き取れなかった。続く風鈴の歌が、妙に印象に残っている。
「素晴らしい世界、素晴らしい地球、素晴らしい私達は夢の中で遊ぶーー」
***
それからどれほどの時間が経過したものかはわからないが、観覧車は一日たりとも同じ色に染まることはなかった。夕暮れの観覧車に曇り空の観覧車。ただ、残念なことに私達は昨日と同じ明日を繰り返していた。毎日毎日変わらずに。変わらず夏菜はカンバスの上で輝いていて、変わらず私は何者でもなかった。もどかしい日々。もどかしいだけで何も変えることができない日々。
同じような毎日を過ごしているので気にもとめなかったが、そういえばもう何日も風呂に入っていない。歯も磨いてないし着替えを持ってきているわけでもない。それよりなにより重要なのは、食料がもう余り残っていないという事実だった。こればかりはどうしようもない。また、強盗の真似事をしようだなんて私の口からは言えそうになかった。私には、そんな度胸がなかった。思えばその時の私は考えを行動に移せる夏菜を羨んでいた節がある。羨んでいた、ただそれだけだけれど。
「ね、きい子、もうそろそろ終わりにしない?」
夏菜の言っている意味が理解できなかったわけではない。理解できたからこそ、自分でも気付いていたからこそ、私は拗ねた子供のように駄々をこねるしかなかった。
「なんでそんなこと言うの。嫌だよ」
「きい子は私と違って帰る場所があるし、両親だっているじゃない。きっと心配してると思う」
「そんなの、そんなの夏菜だって一緒じゃない。帰る場所はあるし待ってる人たちだって……」
「帰る場所は『ある』し、待ってる人も『いる』。それだけよ」
今度は理解することができなかった。夏菜の言葉の裏に潜む真意がわからない。この子は私と同じじゃないか。もしも違うと言うならば、その違いは一体どこに存在するというのだろう。
……あぁ、そうか。
私は決して美しくないから。
彼女のようにカンバスを飾れる女優のような輝きがないからだ。
バカな私は僻む心を隠そうともせず、そのまま本当に拗ねた子供になってしまった。その時の夏菜の表情も、鉛色をした観覧車にも構うことなく背を向けて眠ってしまった。
***
それから数日、私たちの間に会話はなかった。お互い碌に食事も摂らず、かと言ってまた盗みに行く気力もなかった。私たちの現実は、この逃避行は、この泥舟はどこへ向かっているのだろうか。
待ち受けるものは一つしかなかった。
「ねぇきい子。あなたが私を美しいって表現するのは本当のこと?」
突然かけられた言葉はそんな内容で、だから私は一所懸命彼女の魅力を伝えた。謝りたい気持ちでいっぱいだったし、本当に彼女に惚れ込んでもいたから。私の語彙ではとても伝えきれないほどの魅力を伝えようとした。
「それってどういう感情なの?」
途端に息が詰まる。感情。美しいと思う、奥底の感情。それは友情だろうか。劣情でないことは確かだ。だが、果たしてこれを愛情と呼べるかどうかはいささか不安だった。私の口からその言葉を発していいのか判断できない。
「ねぇ、答えて」
夏菜は責めるように私を問い詰める。そこで私はたぶん、失敗した。
「恋、なのかもしれない」
「そう」とだけ短く答えると夏菜は背を向けて眠り始めた。どうやら夏菜にとって相応しくない解答を選んでしまったようだ。仕方ないじゃないか。この気持ちの名前なんて私にもわからないんだ。そんなあやふやな状態で断言してしまうのは、なんだか夏菜に対して失礼な気がして私にはできない。
この様子だとまた数日は話すことはできないな、そんな風に思いながら私も眠りについた。
***
翌朝、夏菜が死んだ。首吊りだった。
***
あれほど美しい作品を生涯で一度でも見ることができた私は端から見ても恵まれていると言えるだろう。ただ、それが永遠に失われる瞬間までは、できれば見たくなかった。見たいと思わなかった。考えもしなかった。
どこか次元の狭間を彷徨うような彼女に期待していた私がいる。風鈴が風になびく夏の陽炎のように存在感の希薄な彼女に、期待していた私がいる。人は死ぬ。当たり前のように今日も死ぬ。夏菜も死ぬ。夏菜の死体には何の感情も抱かなかった。後悔がなかったわけではない。悲しくなかったかといえばそうじゃない。ただその死体を、廃遊園地にぶら下がるその死体を美しいとは、もう思えなかった。
錆び落ちた遊具の破片が尖っていて、夏菜の細い首にまとわりつくロープを切るのに重宝した。切る時にそれが黄色い縄跳びであることと値札が付いたままになっていることに気が付いて、涙がこぼれた。今更もう手遅れだった。
夏菜を地面に降ろし、さて。私にはなすべきことがある。不甲斐なくてバカでダメな私だけど、そんな私にしかできないことがある。夏菜が生きていたことを忘れないように。素晴らしい私達が、夢の外でも遊べるように。
***
お世話になった廃遊園地を背に、セイタカアワダチソウの海を進む。観覧車の一番下の透明なゴンドラには、夏菜が眠っている。優しくて柔らかな陽の色をしたゴンドラに別れを告げ、元いた町に一人で戻る。
私は気付いていたのだ。別段何も考えず、あてもなく彷徨うように家を出た私を引き留めていたのは、夏菜ではなかったことに。どこにいても画になる彼女という作品こそが、私を引き留めている元凶だったのだ。しかしそれも命を失ってしまっては、もうどうしようもない。あの朝夏菜の死体を見つけた時、私の心が微塵も動かなかったのがいい証拠だ。作品としての夏菜は、もう終わってしまったのだ。しかし夏菜という人間は、私を引き留めたりはしない。どころか私とどこまでも、遠く遠く夢の外まで行けるはずだ。
気がかりなのは彼女が私の抱く感情に対して興味をもっていたことだ。不覚にも私は彼女の求める解答を用意することができなかった。あの時抱いた感情が何だったのか、私には確かめる義務がある。あやふやな状態ではなく、ちゃんと突き止めたい。しっかりと向き合いたい。あわよくばそれが愛情であるように願いながら、私は普通に生活し、普通の相手と結婚し、普通に子供を産んで生きていこうと思う。
その子には「夏菜」と名付けるつもりだ。