綿丘さんと寿限無さん
僕たちは山道を登り始めた。
綿丘さんが先頭に立って、よく踏みしめられた土の道を登っていく。その後を僕が追う。
傾斜の大きい坂を登ると、からだに負荷がかかる。ところどころで木の根が露出していたりする。足を引っかけて転ばないように気をつけて歩く。最初の15分ほどは慣れない登山で息が切れた。
綿丘さんは僕に気を遣いながら、ゆっくりと登ってくれた。ときどき振り返って、「大丈夫?」と声をかけてくれる。そのやさしさがうれしい。僕は「大丈夫だよ」と返事する。
しだいにからだが登りに慣れて、適度な負荷を楽しめるようになってきた。
登山口付近は雑木林に覆われていたが、しばらく登ると周囲は深い杉林になった。杉林の中で、いろんな鳥が鳴いている。鳴き声は聴こえるのだが、目を凝らして林を見渡しても鳥の姿を見つけることはできない。葉や枝の間に巧妙に隠れているのだろう。あるいは僕が鳥を探すのに慣れていないからかもしれない。
綿丘さんが深い呼吸をする音が聴こえる。僕も空気を大きく吐き、大きく吸うようにしてみた。新鮮な空気をたっぷり肺に吸い込むと、からだが山に馴染んでいくようだった。気持ちがいい。
やがて山道がふたつに分岐する地点に至った。
「一方の道は男坂、もうひとつは女坂と呼ばれているの。どちらも頂上につながっているわ。男坂は岩場を攀じ登る急坂で、女坂はゆるやかに登れる道よ」
「どちらを行くの?」
「男坂はなかなか面白いんだけど、ちょっと危険なの。今回は女坂にしましょう。もし小鹿くんが登山を好きになったら、いつか男坂を登ってみようよ」
「わかった」
僕たちは女坂を進んだ。険しいところがなくて、歩きやすい道だった。歩きながら僕はふと、男女平等について考えた。男坂、女坂というネーミングは古い時代の価値観を反映しているような気がした。
「僕は運動が割と好きなんだ。たぶん登山も好きになれると思う」
「それはいいね。山登りは気持ちのいいスポーツよ。自然の風景の移り変わりを見ながら歩くのは、すごく楽しい」
「そうだね。綿丘さんと話もできるし」
「うん。のんびり行こうよ。小鹿くんといろんなことを話しながら歩きたい」
30分ほど登ると小さな平地に着いた。そこには鳥居が立ち、こじんまりとした古い神社が建っていた。
視界が開けていて、雄大な風景を眺めることができた。綿丘さんは平らな岩の上に腰を下ろした。僕は隣に座った。
「すごいね。景色が綺麗だ。広々としてる」
「関東平野だよ。あそこの鉛筆みたいな塔は東京スカイツリー、あの辺のビル群は新宿だね。西の山脈の向こうにそびえているのは富士山。今日は晴れて空気が澄んでいるから、遠くまでよく見える」
「綿丘さんのふだんの行いがいいからだね」
「小鹿くんの行いがいいからだよ」
僕たちは笑い合った。心が解放されるようだった。
半分凍らせてきた冷たいスポーツドリンクをごくごくと飲んだ。爽快だ。
綿丘さんがチョコレートをくれた。山中で食べる甘いお菓子は、家で食べるよりずっと美味しく感じた。
小休止を済ませて、僕と彼女はおしゃべりをしながら、さらに山道を登っていった。
なんでも話せるような気がした。
「昨日もアニメを見たんだ。『俺は巨乳を愛してる』ってやつ」
「うん」
「主人公がヒロインに言ったんだ。『俺はきみが好きだ。でもきみのことをまだよく知らない。きみの顔が綺麗で、胸が大きいという以外、ほとんど何も知らないんだ。きみのことを知りたい』っていうような台詞を」
「そう」
「それを聞いたときに感じた。僕も同じことを思っているって。僕は綿丘さんのことをもっと知りたい」
綿丘さんは僕の前を歩きつづけていた。立ち止まり、振り返り、僕と目を合わせた。彼女のブラウンの瞳は透明感があって、トパーズのように美しい。
「わたしとミチルの話をしてあげようか」
「綿丘さんと寿限無さんのこと? 聞きたい」
「つまらないかもしれないよ」
「話してみてよ。綿丘さんのことなら、なんでもいいから知りたい」
「わたしとミチルは腐れ縁なの。つきあいは長い」
彼女がそう言ったとき、最初の山の頂上に到達した。
標高300メートルほどのごく低い山だ。斜面を昇って吹いてきた風が、汗ばんだからだを冷ました。
次の山へ向かって坂道を下りながら、綿丘さんは寿限無さんとの思い出を話してくれた。
「中学1年生の春、わたしとミチルは同じ男の子を好きになった。島崎くんといって、可愛らしい童顔の男の子だった。わたしとミチルは男性の好みが似ているの」
「そうなんだ」
わたしたちは一緒に島崎くんに話しかけ、3人はだんだんと仲よくなっていった、と彼女は言った。
「島崎くんは美術部に入っていて、絵が上手だった。彼はわたしやミチルの似顔絵を描いてくれた。わたしたちは島崎くんが大好きだった。三角関係だったと言っていいと思う。島崎くんが誰を好きなのかは、そのときはまったくわからなかった」
「つづきが気になるね」
「中1の秋、とうとうミチルは島崎くんに告白すると言った。抜け駆けはしたくない。一緒に告白して、どちらかを選んでもらおうよとあの子は言った。でもわたしには告白する勇気がなかった」
「そっか……」
「で、ミチルはひとりで告って、晴れて島崎くんと恋人同士になったというわけ」
山道はどこまでもつづき、森は深くなっていった。僕は綿丘さんの話に耳を傾けながら、樹々を眺めていた。山中で初めて鳥の姿を発見した。梢に白いセキレイが止まっていた。
「話はそれで終わりじゃないんだ。わたしの胸は中学に入ったときすでにそれなりに大きかったんだけど、その後さらに膨らんでいった。中2の頃はメロンみたいな大きさになって、男の子たちからちらちらと見られるようになっていた。島崎くんもちょっといやらしい目でわたしを見るようになった。その視線はなんだか嫌だった」
僕と綿丘さんは降り積もった落ち葉を踏んだ。
枯葉が砕ける乾いた音がした。
彼女の表情には幾分か苦いものが含まれていた。
「中2の夏、島崎くんはわたしのことが好きになったと言ってきた。ミチルはどうするつもりなのとわたしは訊いたわ。綿丘さんとつきあえるなら、彼女とは別れるって彼は言うの。そんなことを言う島崎くんを、わたしはもう好きではなくなっていた。彼とはつきあわなかった」
林の切れ間から遠い山脈が見えた。
それは青く儚く霞んでいた。
「ある日、ミチルがわたしに言った。島崎くんを振ってやったわ。あんな人もう好きじゃないって。泣きながら言ってた。ミチルは島崎くんの気持ちが、わたしに向いてしまったのに気づいていたと思う」
「それからどうなったの?」
「島崎くんとの話はそれで終わりよ」
僕たちは気をつけて岩場を通り抜けた。
大きな岩にぐるぐると渦を巻く模様が刻まれていた。
それはアンモナイトの化石なのよ、と綿丘さんが教えてくれた。遠い昔、ここは海の底だったの。
「わたしの胸は中3のときには巨乳とか爆乳とか言われるサイズになって、道ゆく男の人たちからじろじろと見られるようになったわ。ミチルは自分の胸を美乳と言い張って、わたしの胸をライバル視した。あの子、ちょっと変わってるのよ」
「それはわかる気がする。寿限無さんは個性的だよね」
「島崎くんとのことが終わった後も、相変わらずわたしとミチルは童顔の男の子が好きだった。わたしたちが好きになる男の子はたいてい同じ人なの。中3のときは安藤くんという男子をふたりとも好きになって、ミチルはさっさと告白した。ミチルと安藤くんは3か月くらいつきあっていたみたい」
熊の目撃情報を知らせる看板が太い木の幹に結びつけられていた。
その危険な情報は、僕の胸に小さな警戒信号を灯した。
「わたしも恋人が欲しいと思うようになった。次に男の子を好きになったら、ミチルに目をつけられる前に、速攻で告白しようと決意した。そして高校で小鹿くんと出会ったの。最高に好みのタイプなのよ、きみは」
綿丘さんは僕を熱っぽい目で見つめた。
「わたしも小鹿くんのことを知りたい。わたしはきみが可愛い童顔で、アニメが好きで、クロールが上手だってことくらいしか知らない。きみのことをもっと知りたい。たとえば、小鹿くんと草原すみれさんとの仲がわたしはすごく気になってる。教えてほしいな」




