第1話 事故物件と呼ばれた公爵
イーゼルト国の冬は、冷たい。
石畳は灰色に沈み、街路樹は葉を落とし、人々は黒や紺の外套に身を包む。
伝統と格式を重んじるこの国では、色彩さえ慎ましくあるべきとされていた。
「息が詰まりそうね」
馬車の窓から外を見ながら、アンジェ・マルスは率直に言った。
「アンジェ」
母イヴリンがたしなめるように眉を下げる。
「イーゼルトでは、そういう言い方は歓迎されません」
「だって本当だもの」
アンジェは肩をすくめた。
ミゼルカ国なら、街には音楽が流れ、商人が怒鳴り、花売り娘が笑い、夜でも灯りが絶えない。
だがイーゼルトは違う。
静かで、重々しくて、皆が“正しいふるまい”をしている。
まるで巨大な博物館だ。
「でも綺麗。絵本みたい」
そう言うと、イヴリンは少しだけ微笑んだ。
「ええ。……私の故郷ですもの」
イヴリン・マルス。
今ではミゼルカ国最大級の商会――マルス商会の女主人。
しかし元はイーゼルト国伯爵家の令嬢だった。
若き日に商人アダム・マルスと恋に落ち、家を飛び出し、駆け落ち同然で結婚。
以来ずっと“貴族社会から消えた女”として扱われていた。
その一家が今さら帰国した理由はひとつ。
ヒュー・マルス。
まだ八歳の弟に、アーチャー子爵位が転がり込んできたからだ。
数年前、アーチャー家で後継者問題が起きた。
嫡男が不祥事で廃嫡。
親族も相次いで失脚し、血筋をたどった結果、遠縁だったイヴリンの息子ヒューが正式な継承権を得たのである。
「うちの坊やはぐっすりだな」
父アダムが笑った。
向かいの席では、ヒューが口を開けて眠っている。
「大物だなあ」
「ただの子どもよ」
イヴリンは呆れた。
アンジェはくすっと笑った。
彼女自身、この状況をどこか他人事のように思っていた。
弟が子爵になる。
母方の親族と和解する。
大変そうだな、とは思う。
でも自分は関係ない。
自分はあくまでただの商人の娘だ。
父はイーゼルト市場への本格進出を狙っている。
少しくらいは手助けできるだろうか。
今回の移住は、アンジェにとっては、“異国文化体験”くらいの感覚だった。
――少なくとも、一週間前までは。
「……は?」
アンジェは固まった。
王都邸の応接室。
対面に座る老紳士――王家顧問弁護士ヘンリー・ロイヤーは、極めて真面目な顔で言った。
「エドワード公爵閣下との縁談です」
「……誰?」
「エドワード・イーゼルト公爵閣下」
アンジェは数秒黙った。
そしてゆっくり言った。
「事故物件じゃない」
部屋が静まり返った。
イヴリンが頭を抱えた。
「アンジェ!!」
「だって事故物件でしょう!?」
アンジェは思わず叫んだ。
知らないわけではない。
イーゼルトに来てから何度も耳にした。
“元王太子”。
“婚約破棄事件”。
“国家規模の醜聞”。
十年前、当時王太子だったエドワード・イーゼルトは、公衆の面前で婚約者フリージア公爵令嬢に婚約破棄を突きつけた。
理由は男爵令嬢との恋。
しかしその令嬢が複数貴族子弟と関係を持ち、不正や汚職が次々発覚。
粛清。
廃嫡。
降格。
取り潰し。
国中を巻き込む大騒動となった。
結果。
フリージアは弟ルーカスと結婚。
ルーカスが新王太子となり、エドワードは継承権を失った。
現在は“一代限りの公爵”。
そして社交界では陰でこう呼ばれている。
――高貴な事故物件。
顔はいい。
血筋もいい。
能力も高い。
だが関わると人生が吹き飛ぶ。
「いやいやいやいや」
アンジェは首を振った。
「なんで私!?」
ヘンリーは静かに咳払いした。
「閣下は現在、大変落ち着いた方です」
「“現在”ってつく時点で怖いのよ」
「女性問題もありません」
「過去にあったってことじゃない!」
「アンジェ」
父アダムが苦笑する。
「お前、もう少し言葉を選びなさい」
「だって!」
ヘンリーは続けた。
「公爵閣下は近年、表舞台から距離を置かれています」
それはアンジェも知っていた。
社交界にもほぼ出ない。
政争にも加わらない。
地方公爵領の運営と慈善事業に専念しているらしい。
まるで別人のように穏やかになった、と。
「ですが」
ヘンリーは淡々と言った。
「過去は消えません」
部屋が静かになる。
「未だに閣下を警戒する貴族は多い。縁談はすべて流れました」
「そりゃそうでしょうね……」
「そこで“しがらみの少ない相手”として、あなたに白羽の矢が立ったのです」
外国商人の娘。
イーゼルト貴族社会の利害から遠い。
同時に、アーチャー家との縁で最低限の血統問題もない。
なるほど、理屈はわかる。
わかるけれど。
「絶対、訳ありじゃない」
アンジェは断言した。
ヘンリーは否定しなかった。
その沈黙が怖い。
「……ちなみに」
アンジェは恐る恐る聞いた。
「本人は?」
「了承済みです」
「えっ」
「『相手に断る権利があるなら問題ない』と」
「……」
なんか。
思ったより普通だ。
もっとこう、傲慢な元王子様を想像していた。
「会うだけでも」
ヘンリーは穏やかに言った。
「お願いできませんか」
アンジェは大きくため息をついた。
窓の外では、雪が降っている。
イーゼルトの空は、どこまでも静かで冷たかった。
まるで。
何もかも終わった人のように。




