第85話『食事』
皿の上に、肉が置かれていた。
それは料理ではなかった。
火は通っていない。
香草もない。
塩もない。
湯気もない。
ただ、硬い筋を噛み砕いたもの。
白い虫を潰したもの。
乾いた山羊の肉片。
それらが、割れた皿の上に乗っている。
人間の食卓なら、捨てられるようなものだった。
だが、灰の巣にとっては餌だった。
生きるためのものだった。
グレイは、壊れた机の前にいた。
机は古い。
片側の脚が沈み、天板は傾いている。
それでも、皿を置くには使えた。
グレイは、前脚で肉片を押した。
皿の中央へ。
肉は滑る。
血はもう乾いている。
だが、匂いは残っていた。
新生幼生たちが、その匂いへ反応する。
きゅ。
きゅ。
空腹。
前へ出ようとする。
二体目が低く鳴いた。
「グ」
待て。
その声で、幼生たちの動きが少し止まる。
完全ではない。
まだ弱い個体ほど、匂いに引かれて動こうとする。
だが、以前よりは待てる。
皿の前で待つ。
順番に食べる。
それが、少しずつ群れの中へ広がっていた。
グレイは、それを見ていた。
不思議だった。
皿に置くだけで、餌が少し違って見える。
床に置けば、すぐ奪い合う。
血の匂いに押され、幼生たちは我先に噛みつく。
だが、皿の上に置くと、二体目が制止しやすい。
一体目も見張りやすい。
どの個体が食べるか、決めやすい。
食べ物が、ただの肉ではなく、群れの中心へ置かれたものになる。
人間が皿を使う理由は、それなのか。
グレイは考えた。
人間は、餌を皿へ置く。
それを囲む。
すぐには奪わない。
順番に食べる。
会話する。
食事。
レオンの記憶の中では、そうだった。
もちろん、人間同士でも奪い合うことはある。
喧嘩もする。
飢えれば醜くなる。
だが、普通の食卓には秩序があった。
皿。
机。
椅子。
向かい合う位置。
それらが、人間を獣から少し遠ざけていたのかもしれない。
グレイは、そこまで言葉では考えられない。
ただ、感覚として理解し始めていた。
形が、行動を変える。
餌の置き方が、群れの動きを変える。
これは使える。
そう思ってしまった。
人間の真似。
だが、群れを保つためにも役立つ。
グレイは、皿の前に弱い新生幼生を押した。
煙で弱っていた血筋のように、今回の八体の中にも弱い個体がいる。
脚が少し遅い。
白い虫に噛まれた傷もある。
その個体が最初に食べる。
肉片を噛む。
うまく噛めない。
二体目がそばで支える。
硬すぎる部分を噛み砕き、柔らかくしてやる。
それを新生幼生が食べる。
満足が小さく広がる。
次の個体が前へ出ようとする。
骨個体が山羊の骨で軽く床を鳴らした。
から。
制止の音。
もう一つの合図。
新生幼生たちが止まる。
グレイは、それを見た。
骨個体も学んでいる。
食事の順番を、音で整えようとしている。
二体目だけではない。
グレイだけでもない。
群れの中で、秩序を作ろうとする動きが生まれている。
それは喜ばしいはずだった。
しかし同時に、嫌な予感もある。
秩序が生まれれば、群れはもっと大きくなれる。
もっと増えても保てる。
餌を分け、幼生を育て、役割を持ち、移動し、学ぶ。
そうなれば、灰の巣はさらに止まらなくなる。
グレイは、その矛盾を抱えたまま、次の個体を皿へ近づけた。
一体目は入口にいる。
食卓へは加わらない。
まだ警戒を解かない。
だが、ときどき振り返る。
皿。
幼生。
順番。
その全てを見ている。
一体目も理解し始めている。
戦うことだけでは、群れは保てない。
食べる順番。
休む場所。
傷ついた個体をどこへ置くか。
そういうものが必要になる。
二体目は、それをずっとやってきた。
一体目は今、それを見ている。
腐肉個体は、部屋の隅にいた。
布人形を抱えたまま。
食卓へは近づかない。
人間の血を知った個体。
兵士の記憶を抱えた個体。
その口元から、時々人間の声が漏れる。
「ごはん……」
小さな音。
前回、皿に肉を置いた時に覚えた言葉。
食べるもの。
食べる時間。
人間の記憶の中の温かい響き。
だが、腐肉個体の口から出ると、それはひどく歪んで聞こえた。
二体目が腐肉個体を見る。
警戒。
でも、強く拒絶はしない。
腐肉個体も群れの一部だからだ。
グレイは、皿の上へ次の肉を置いた。
「ご……はん」
自分でも、音を真似た。
新生幼生たちが反応する。
「ご……」
「グ……」
「は……」
意味は分からない。
ただ、食事の時の音として覚える。
それでいいのか。
グレイには分からない。
でも、群れは少し静かになる。
食べる前に音を聞く。
皿を見る。
順番を待つ。
それは、空腹を完全には消さない。
だが、空腹が群れを壊す速度を遅くする。
人間の食事とは、そういうものなのかもしれない。
腹を満たすだけではなく、群れを壊さないための形。
グレイは、割れた皿を見つめた。
人間の道具。
今は、灰の群れの中で使われている。
しかし、使われ方は歪んでいる。
皿に乗っているのは料理ではない。
虫と生肉。
机を囲むのは人間ではない。
灰色の幼生たち。
椅子には誰も座っていない。
壊れている。
それでも、そこには“食事”に似た何かがあった。
その頃、排水路の外側では、人間たちが近づいていた。
ラグドは、古い生活区画へ続く通路の前で足を止めた。
匂いが違った。
灰の巣の匂い。
それに混ざって、古い木と布と、人間の残骸。
そして、微かに肉の匂い。
「近い」
ロウが低く言った。
ラグドは頷く。
「分かってる」
アレンは剣に手をかけている。
だが抜いていない。
エリシアは、唇を結んでいた。
ここから先に何があるのか。
見たくない。
でも、見なければならない。
セヴィルは記録板を持っている。
今回は、彼の目にも興奮より緊張が強かった。
灰の巣は、古い人間の居住区へ入った。
そして、しばらくそこに留まっている。
何をしているのか。
それを知る必要があった。
防衛局の兵たちは後方にいる。
命令が出るまでは動かない。
火は使わない。
毒もまだ使わない。
ラグドが強く命じていた。
「音を立てるな。奥を刺激するな。見て、戻る」
防衛局の兵が不満そうにする。
「また観測ですか」
ラグドは睨む。
「また生きて帰るためだ」
兵は口を閉じる。
アレンが静かに言った。
「俺が先に行きます」
「駄目だ」
ラグドは即座に答える。
「俺が行く」
「でも」
「俺が一番あいつの匂いを覚えてる。距離感もな」
アレンは反論しかけて、やめた。
ラグドの顔が、いつもより硬かったからだ。
迷っている。
それでも進む顔だった。
ラグドはゆっくり歩き出した。
通路の先。
木の扉が壊れている。
そこから、薄い音が聞こえた。
から。
骨の音。
そして、小さな鳴き声。
きゅ。
きゅ。
さらに。
歪んだ人間の声。
「ご……はん」
ラグドの足が止まった。
アレンも止まる。
エリシアの顔が青ざめる。
セヴィルの目が見開かれる。
ごはん。
人間の言葉。
助けてでも、来ないででもない。
食事の言葉。
生活の言葉。
それが、灰の巣の奥から聞こえた。
ラグドは、ゆっくり扉の隙間から中を覗いた。
そして、息を止めた。
部屋の中。
壊れた机。
割れた皿。
皿の上には、肉片と白い虫。
その周囲に、灰色の幼生たちがいる。
新生幼生が一体ずつ皿へ近づき、肉を食べる。
二体目らしき個体が、順番を整えるように動いている。
骨を持った個体が、時々床を鳴らす。
から。
制止の合図。
一体目は入口側を見ている。
グレイは、机のそばにいる。
まるで、食事を見守る親のように。
いや。
親という言葉を使うのが嫌だった。
でも、そう見えた。
灰の怪物が、幼生たちに肉を分けている。
皿の上で。
人間の食卓の真似をして。
ラグドは、背筋が冷えるのを感じた。
戦闘より怖かった。
血まみれの巣よりも。
骨の鳴子よりも。
助けてという声よりも。
ずっと怖かった。
なぜなら、それは人間の生活に似ていたからだ。
似ているのに、決定的に違うからだ。
エリシアも、隙間から中を見た。
そして口元を押さえた。
泣きそうな顔になった。
「……食べさせてる」
小さな声。
アレンも見た。
剣へかけた手が止まる。
彼は、村の食卓を思い出した。
家族が食べる場面。
子供に先に食べさせる親。
それと、目の前の光景が重なってしまう。
重なってはいけない。
相手は魔物だ。
人間を襲った。
兵を食べた。
村を脅かした。
でも、目の前にあるのは、明らかに“分け与える”行為だった。
アレンは、歯を食いしばった。
セヴィルは震える手で記録板へ書こうとして、止まった。
書けない。
言葉が追いつかない。
食事。
模倣。
秩序形成。
幼体優先分配。
人間生活様式の転用。
いくらでも書ける。
だが、どの言葉も足りない。
これは、知性なのか。
本能なのか。
模倣なのか。
家族のようなものなのか。
災害の拡大過程なのか。
全部に見える。
だから、恐ろしい。
部屋の中で、腐肉個体が顔を上げた。
人間の匂いに気づいた。
その瞬間、グレイも反応した。
ゆっくり、入口側を見る。
ラグドたちは動かない。
動けない。
グレイと目が合った。
暗い目。
灰の巣主。
人間の食卓を真似る怪物。
グレイは低く鳴いた。
「グ……」
威嚇ではない。
警告でもない。
ただ、気づいたという音。
一体目がすぐに構える。
二体目が幼生を奥へ寄せる。
食事の秩序は、一瞬で防衛の秩序へ変わる。
皿の上にはまだ肉が残っている。
新生幼生の一体が、それを食べようとして止まった。
人間がいる。
怖い。
空腹。
その三つが混ざる。
エリシアが一歩だけ前へ出そうになる。
ラグドが腕で止めた。
「動くな」
「でも」
「動くな」
低い声。
彼はグレイを見ていた。
もしここで一歩入れば、食卓は戦場になる。
幼生たちが暴れる。
グレイが動く。
アレンが剣を抜く。
誰かが死ぬ。
そう分かった。
グレイも分かっていた。
人間が来た。
食事を見た。
今、動けば戦いになる。
でも、幼生はまだ食べ終えていない。
空腹がある。
グレイは、人間たちを見たまま、皿へ前脚を伸ばした。
肉片を取る。
それを、弱い新生幼生の前へ置く。
食べろ。
そういう感覚。
幼生は戸惑う。
人間がいる。
怖い。
でも、空腹。
二体目がそっと押す。
幼生は肉を食べた。
人間たちの前で。
グレイは、食事を続けさせた。
逃げずに。
襲わずに。
ただ、群れに食べさせた。
ラグドは、その意味を理解してしまった。
これは威嚇ではない。
いや、ある意味では威嚇かもしれない。
でもそれ以上に、宣言だった。
ここは今、灰の巣の食卓だ。
近づくな。
壊すな。
子を食べさせている。
そう言っているように見えた。
人間の言葉ではない。
だが、意味は伝わった。
アレンは、剣を抜けなかった。
エリシアは涙をこらえていた。
セヴィルは記録板を握りしめる。
ロウは弓に手をかけたまま、撃たない。
防衛局の兵が後ろから小声で言う。
「今なら」
ラグドは振り返らずに答えた。
「黙れ」
「しかし」
「黙れと言った」
その声には、怒りがあった。
誰に向けた怒りか、ラグド自身にも分からない。
灰の巣へか。
防衛局へか。
この状況へか。
自分へか。
部屋の中で、腐肉個体が小さく呟いた。
「ごはん……」
その声に、人間たち全員が凍った。
腐肉個体は、布人形を抱えたまま、皿の肉を見ている。
食べたいのか。
怖いのか。
分からない。
ただ、その声は人間の生活の言葉だった。
エリシアが、小さく震えながら言った。
「どうして……」
誰も答えられない。
グレイはその声を聞いて、腐肉個体を見る。
腐肉個体は食卓へ近づきたい。
でも、人間の匂いが怖い。
人間の血の記憶がある。
だから動けない。
グレイは、皿から小さな肉片を取り、腐肉個体の方へ押した。
腐肉個体は震える。
少しずつ近づく。
食べる。
人間の目の前で。
グレイは、全員に食べさせた。
順番に。
少しずつ。
人間たちは、それを見ていた。
戦闘ではない。
捕食でもない。
食事。
歪んだ食事。
人間の真似をした、魔物の食卓。
やがて、皿の上の肉はなくなった。
白い虫の殻だけが残る。
二体目が皿を嗅ぐ。
もうない。
新生幼生たちは少し落ち着く。
空腹は完全には消えない。
でも、騒ぐほどではなくなった。
グレイは、そこで初めて一歩、入口側へ向いた。
低く鳴く。
「グ」
出ていけ。
そういう意味。
ラグドには、そう聞こえた。
彼は、ゆっくり後退した。
「下がる」
アレンが驚く。
「ラグドさん」
「下がる」
短いが、強い声。
ロウも下がる。
エリシアも。
セヴィルは最後まで見ていたが、ラグドに肩を掴まれ、引き戻された。
防衛局の兵は不満そうだった。
だが、命令に従うしかない。
人間たちは、その部屋を後にした。
食卓を壊さずに。
その場で殺し合わずに。
ただ見て、下がった。
それが正しかったのかは、誰にも分からない。
外へ出てしばらくしてから、セヴィルがぽつりと言った。
「これは……知性ではない」
アレンが振り返る。
セヴィルは顔色を悪くしたまま続けた。
「知性という言葉では足りない。生活の模倣です。人間の形を取り込み、自分たちの群れの秩序へ変換している」
ラグドは低く言った。
「つまり?」
セヴィルは、答えに詰まった。
そして、ようやく言った。
「人間を真似ています」
「見りゃ分かる」
「ですが、真似れば真似るほど、人間ではなくなっている」
その言葉に、誰も何も言えなかった。
地下の部屋では、グレイが割れた皿を見ていた。
人間は去った。
攻撃しなかった。
それは、食事を続けたからか。
幼生を食べさせていたからか。
分からない。
だが、人間は壊さなかった。
少なくとも今は。
グレイは、皿に残った白い殻を前脚で払った。
からん。
小さな音。
食事は終わった。
群れは少し静かになった。
人間も去った。
一瞬だけ、何かが成立したように感じた。
戦わずに同じ空間にいた。
ただ見ていた。
食べさせた。
それだけ。
それが、理解に近いものなのかもしれない。
グレイは、そう思いかけた。
だが、入口の奥では一体目がまだ唸っている。
腐肉個体は、人間の匂いに怯えたまま布人形を抱えている。
二体目は幼生を守る位置から動かない。
新生幼生たちは、またすぐ腹を空かせる。
食事は終わっても、問題は何も終わっていない。
グレイは低く、自分の名を呼んだ。
「グレイ」
群れが返す。
「グレ」
「グ……」
「グレ……」
その声が、人間の食卓だった場所に響く。
壊れた机。
割れた皿。
血の匂い。
灰の群れ。
それは、家族の食事に似ていた。
そして、どこまでも違っていた。




