第84話『座る』
椅子は、座るためにある。
そのことを、グレイは知っていた。
知識としてではない。
レオンの記憶の中に、そういう感覚が残っている。
疲れた身体を預ける。
食卓の前に置く。
酒場で向かい合う。
腰を下ろす。
背を少し丸める。
手を伸ばして、皿を取る。
誰かの話を聞く。
笑う。
怒る。
黙る。
人間は、椅子に座る。
ただそれだけのことが、グレイには妙に重かった。
灰の巣に、椅子は必要ない。
黒岩の上で身体を丸めれば眠れる。
壁へ張りつけば休める。
骨の間に身を沈めれば隠れられる。
多脚の身体に、椅子という形は合わない。
それなのに、人間は椅子を作る。
木を切り、削り、組み、誰かの身体を支える形にする。
グレイは、倒れた椅子を見下ろしていた。
古い木。
一部は腐っている。
脚の一本は折れている。
背もたれには爪で引っかいたような傷があるが、それは魔物のものではない。
古い人間の生活の傷だ。
何年も前に、誰かが座り、立ち上がり、動かし、倒し、また直した。
そういう時間が染みついている。
グレイは前脚で椅子を起こした。
ぎし、と音が鳴る。
新生幼生たちが一斉に反応した。
二体目が小さく鳴く。
「グ」
落ち着け。
その声で、幼生たちは少し静まる。
一体目は入口で警戒している。
外から人間の匂いが来ないか、ずっと見ている。
ここは人間の古い家だ。
しかし、今の群れには巣でもある。
その境界が、まだ定まっていない。
グレイは椅子に身体を近づけた。
どう座るのか。
レオンなら分かる。
二本の足で近づき、腰を下ろす。
背中を預ける。
膝を曲げる。
手を膝や机の上に置く。
だが、グレイには腰がない。
いや、近い部位はある。
でも、人間のように曲がらない。
脚が多い。
身体の重さも違う。
椅子は、グレイを支えるために作られていない。
それでも、グレイは試した。
前脚を机の側へ置く。
後ろの脚を折りたたむ。
身体の一部を椅子へ預ける。
ぎし。
木が鳴る。
一体目が振り返る。
危険か。
そういう感覚。
グレイは動かない。
ぎし。
さらに音が鳴る。
椅子が揺れる。
腐った脚が軋む。
グレイは、ゆっくり身体の重さを抜いた。
それでも、椅子は耐えなかった。
ばき。
脚が折れた。
グレイの身体が傾く。
床へ落ちる。
がたん。
大きな音。
新生幼生たちが驚いて鳴く。
きゅ。
きゅ。
一体目が飛び出しかける。
二体目が幼生たちを抱え込む。
前の四体も散る。
部屋全体が一瞬で混乱した。
グレイは床に伏せたまま、しばらく動かなかった。
痛くはない。
だが、何かが失敗した。
そう感じた。
椅子は座るためにある。
でも、グレイは座れない。
人間のようには。
腐肉個体が、布人形を抱えたまま近づいてきた。
その目に当たる感覚器が、倒れた椅子を見ている。
そして、小さく呟いた。
「……いたい?」
人間の声。
兵の記憶の断片か。
あるいは、自分で状況を見て言ったのか。
グレイには分からない。
だが、その言葉は不思議と間違っていなかった。
痛いわけではない。
けれど、何かが痛かった。
人間の形を真似ようとして、身体が合わない。
そのことが。
グレイはゆっくり起き上がった。
椅子は壊れている。
もう座れない。
いや、最初からグレイには座れなかったのかもしれない。
骨個体が、その椅子へ近づいた。
山羊の骨を扱うのが得意な個体。
壊れた脚を押す。
からん、と木片が鳴る。
骨ではない。
だが、音は鳴る。
骨個体は興味を示した。
木片を動かす。
机の足へ当てる。
こん。
また音。
使える。
鳴子にできる。
グレイは、それを見た。
人間が座るために作ったものを、眷属は音を鳴らす道具として見ている。
正しい。
群れにとっては。
でも、人間にとっては違う。
椅子は座るため。
食卓は食べるため。
布人形は子供を安心させるため。
皿は食事を置くため。
しかし群れは、それらを別の用途へ変えていく。
守るため。
隠れるため。
鳴らすため。
匂いを隠すため。
巣を作るため。
グレイは、そのズレを感じた。
人間のものを使っている。
けれど、人間の使い方ではない。
その時、新生幼生の一体が椅子の上へよじ登ろうとした。
まだ小さい。
木の脚に爪を立て、登る。
登り切れない。
落ちる。
きゅ、と鳴く。
別の幼生が真似する。
さらに別の一体も。
三体が壊れた椅子に群がる。
二体目が慌てて止める。
危ない。
落ちる。
壊れる。
それを匂いと身体で伝える。
だが、幼生たちは興味を持っている。
グレイがやったからだ。
中心が試したものを、群れは真似る。
グレイは理解した。
自分の行動は、もう自分だけのものではない。
椅子へ座ろうとした。
失敗した。
それでも幼生たちは真似る。
人間の声と同じ。
骨と同じ。
狩りと同じ。
真似は広がる。
それが、この群れの強さであり、危険だった。
二体目が幼生たちを椅子から離す。
その代わり、柔らかい布を床へ集め始めた。
古い寝台から剥がれた布。
腐った毛布。
服の切れ端。
それらを部屋の隅へ寄せる。
新生幼生たちがそこへ集まる。
柔らかい。
石より安心する。
座るのではなく、沈む。
人間の寝床が、巣の奥になる。
グレイは、それを見ていた。
これなら合う。
人間の椅子には座れない。
でも、人間の布は使える。
人間の家は、そのままでは群れに合わない。
だが、変えれば使える。
真似して、変える。
それが、灰の巣のやり方だった。
グレイは、壊れた椅子をもう一度見た。
座るためのもの。
でも、自分たちには合わない。
なら、どうする。
人間のようになりたいのか。
人間のように暮らしたいのか。
そういう問いが、言葉になる前に体の奥で濁る。
レオンの記憶がある。
火。
椅子。
食卓。
酒場。
向かいの席に座る仲間。
笑い声。
あれは、温かい。
グレイはそう感じる。
けれど、今の自分がそこに入れる姿は想像できない。
椅子は壊れる。
皿は血で汚れる。
言葉は歪む。
人間は悲鳴を上げる。
グレイは人間を真似ることはできる。
だが、人間の中へ入ることはできない。
まだ、その結論までは届いていない。
しかし、感覚だけはあった。
遠い。
人間の暮らしは、近くにあるのに遠い。
その頃、人間側では、追跡班が排水路入口の手前まで来ていた。
ラグドは、崩れた人工坑道の壁に手を当てた。
「ここを通ったな」
セヴィルが頷く。
「痕跡があります。爪痕。幼体の足跡。布の繊維の乱れ」
アレンは奥を見た。
人間がかつて作った通路。
そこへ、灰の巣が入った。
その事実が気味悪かった。
魔物が洞窟にいるなら、まだ理解できる。
森にいるなら、まだ。
だが、人間の作った場所にいる。
人間の暮らしの残骸の中にいる。
それは、妙な嫌悪を伴っていた。
エリシアが低く言った。
「ここ、人が住んでいたんですか」
セヴィルが図面を見ながら答える。
「簡易居住区画があるはずです。古い作業員用の家屋に近い部屋がいくつか」
ラグドが顔をしかめる。
「そこへ入ったらどうなる」
セヴィルはしばらく黙った。
そして、正直に言った。
「分かりません」
「分からない、か」
「はい。ただ、彼らは人間の痕跡から学ぶ可能性があります」
アレンが振り返る。
「学ぶって、何を」
セヴィルは、言葉を選ぶ。
「生活です」
全員が黙った。
生活。
戦闘でも罠でもない。
火でも毒でもない。
生活。
その言葉が、一番不気味だった。
灰の巣主が、人間の生活を学ぶ。
どういう意味なのか、誰にもすぐには分からない。
だが、嫌な予感だけはあった。
ロウが壁際の足跡を見て言う。
「追うのか」
ラグドはすぐには答えない。
排水路は狭い。
地図は古い。
崩落の危険がある。
そして、向こうは群れで動く。
中へ踏み込めば、前回以上に危ない。
だが、放置すれば、灰の巣はさらに深く人間の空間へ入り込む。
ラグドは低く言った。
「追う。ただし、深追いはしない」
防衛局の兵が不満そうにする。
「またですか」
ラグドは睨んだ。
「前に深追いして壊滅しかけたのを忘れたか」
兵は口を閉じる。
アレンが静かに頷く。
「俺も慎重に進むべきだと思います」
エリシアも同意した。
セヴィルは、少しだけ奥を見つめていた。
興味。
恐怖。
その両方。
彼は思っていた。
もし、灰の巣が食卓を見るなら。
寝台を見るなら。
人形を見るなら。
彼らは何を真似るのか。
その答えを知りたい。
だが、知った時には取り返しがつかないかもしれない。
地下の家では、群れが人間の部屋を少しずつ変えていた。
布が一か所へ集められる。
壊れた椅子の脚が入口近くへ並べられる。
皿は床へ置かれる。
なぜ置いたのか、グレイにも分からなかった。
ただ、レオンの記憶がそうさせた。
皿は食卓に置く。
食べ物を乗せる。
だから、置いた。
しかし、皿は割れている。
食べ物はない。
そこへ、新生幼生の一体が白い虫の死骸を置いた。
小さな虫。
潰れたもの。
食べ残し。
皿の上に。
グレイは、それを見つめた。
人間の皿。
群れの餌。
奇妙な組み合わせ。
幼生は、皿の上の虫を食べた。
しゃり。
音がした。
別の幼生も真似する。
皿の上へ、白い虫や乾いた肉片を乗せる。
そして食べる。
二体目が少し戸惑う。
だが、危険ではない。
むしろ、床の汚れた場所より少し安全かもしれない。
皿に乗せれば、黒雨の湿りから離せる。
グレイはそれを理解した。
人間の道具。
群れの用途。
食べ物を乗せる。
そこだけは同じ。
だが、乗せるものが違う。
人間は温かい料理を乗せる。
群れは虫と生肉を乗せる。
真似ている。
でも違う。
グレイは、しばらく皿を見ていた。
それから、残っていた硬い筋を皿の上へ置いた。
新生幼生たちが寄ってくる。
グレイは低く鳴く。
「グ」
待て。
順番。
弱い個体から。
二体目がすぐ理解し、弱い新生幼生を押す。
その個体が皿の上の肉を食べる。
他の幼生たちは待つ。
完全ではない。
空腹が強い個体は前へ出ようとする。
一体目が低く鳴って止める。
食卓。
それに似た何かが、部屋の中に生まれた。
グレイは、レオンの記憶を思い出す。
みんなで食べる。
皿を並べる。
順番に取る。
それに似ている。
似ているだけ。
でも、確かに少し近い。
腐肉個体が、その様子を見ていた。
布人形を抱えたまま。
そして、ぽつりと言った。
「……ごはん」
グレイは振り返る。
その言葉は、腐肉個体が食べた兵士の記憶から出たものだろう。
家。
子供。
食卓。
ごはん。
意味の全ては分からない。
だが、今の状況に合っていた。
皿に肉を置く。
幼生が食べる。
それを、ごはんと言う。
グレイはその音を覚えた。
「ご……はん」
歪んだ音で、グレイが真似る。
群れが静まった。
二体目がグレイを見る。
一体目も。
新生幼生たちは意味も分からず、その音を聞く。
腐肉個体が小さく震える。
人間の言葉を、グレイが使った。
助けてでも、来ないででもない。
怖いでも、痛いでもない。
食事の言葉。
ごはん。
それは人間の生活の言葉だった。
グレイは、皿の上の肉を見た。
血。
筋。
虫の殻。
それを囲む灰の幼生たち。
人間の食卓とは、まったく違う。
けれど、部屋の中には、ほんのわずかに“食卓”の形があった。
それが温かいのか、恐ろしいのか、グレイには分からなかった。
ただ、レオンの記憶が静かに揺れている。
誰かと食べる。
それは、一匹で死肉を漁っていた頃にはなかった感覚だった。
新生幼生が皿の上の肉を食べ終える。
次の個体が食べる。
その次。
順番。
分配。
食卓。
グレイは、壊れた椅子の横で、その光景を見守った。
座れなかった。
椅子は壊れた。
でも、皿は使えた。
人間の生活を、少しだけ真似た。
少しだけ。
その少しが、群れを落ち着かせた。
だからグレイは思った。
人間の暮らしには、群れを静める何かがあるのかもしれない。
食べるだけではない。
並ぶ。
待つ。
分ける。
声を出す。
それが、空腹の獣を少しだけ止める。
もしそうなら。
もし人間の形をもっと真似れば。
群れは、人間を襲わずに済むのか。
その考えは、淡く、危うい希望のように浮かんだ。
だが、同時に。
部屋の入口では、一体目が人間の足音を感じて低く唸っていた。
希望は、長くは続かない。
人間が近づいている。
そして、この部屋を見れば、人間は何を思うだろう。
壊れた椅子。
皿に置かれた血肉。
布に包まれた幼生。
人形を抱える腐肉個体。
食卓を真似る灰の群れ。
人間から見れば、それはきっと。
生活ではなく、悪夢だった。




