第32話『恐れない』
恐怖は、消えていなかった。
消えたわけではない。
黒岩の奥で大型魔物の振動を拾えば、身体は低く沈む。
人間の金属音を聞けば、脚は逃げ道を探す。
血の匂いが濃ければ、欲求と同時に危険を感じる。
上位種の水場を思い出すと、今でも関節がわずかに硬くなる。
だから、恐怖はある。
確かにある。
けれど、グレイはもう、その恐怖に止められなくなっていた。
巣の入口。
骨と殻と爪を並べた場所。
そこに身を伏せたまま、グレイは外の音を聞いていた。
骨が鳴る。
から。
外の通路を小型魔物が通った音。
軽い。
黒鼠ではない。
虫型魔物。
骨を踏む位置が浅い。
体重も軽い。
巣の中へ入るつもりはない。
通り過ぎるだけ。
グレイは動かなかった。
以前なら、巣の近くに来たというだけで襲ったかもしれない。
縄張り。
餌。
危険。
その三つが重なれば、すぐに飛び出していた。
だが今は違う。
必要がなければ動かない。
今は腹が減っていない。
人間の匂いも遠い。
大型魔物も近くにいない。
なら、殺す必要はない。
殺せるものをすべて殺せば、血の匂いが残る。
血の匂いは魔物を呼ぶ。
魔物が来れば人間も来るかもしれない。
巣が見つかる。
だから、殺さない。
恐怖ではなく、判断。
グレイは、その違いを少しずつ覚え始めていた。
恐ろしいものから逃げるだけではない。
食えるものへ飛びかかるだけでもない。
今、必要か。
後で危険になるか。
使えるか。
見逃すべきか。
それを考える。
その考え方自体が、もう以前の幼生とは違っていた。
巣の奥には、食べ残した黒鼠の骨がある。
それは保存食ではなくなっていた。
もう肉はほとんどない。
だが骨は使える。
鳴子になる。
入口に置けば音が出る。
奥に置けば侵入を知らせる。
硬いものを噛む練習にもなる。
死んだものは、食べるだけではない。
使える。
それを覚えた。
グレイは、巣の入口に置いた骨を少し動かした。
からり。
音が鳴る。
この音も覚えた。
軽い骨。
硬い殻。
岩裂き獣の爪。
それぞれ音が違う。
人間の足なら、もっと重く鳴る。
小型魔物なら軽い。
黒殻狩りなら硬く擦れる。
骨の音で分かる。
巣の外へ感覚を伸ばしているようだった。
それが少し安心を生む。
以前の巣は、人間に暴かれた。
腐肉と骨の小部屋。
初めて作った場所。
そこを失った痛みは、まだ薄く残っている。
だが、今の巣は違う。
入口。
鳴る骨。
逃げ道。
近くの水場。
餌場。
人間が入りづらい通路。
黒岩の隙間。
全てを意識して作っている。
前より少し賢い。
前より少し怖くない。
いや、怖くないのではない。
怖いから、備えている。
グレイは巣から出た。
身体を低くし、黒岩の影へ溶ける。
脱皮後の外皮は固まりきっていた。
黒く、薄く、硬い。
光をあまり返さない。
壁へ登ると、爪が深く岩を掴む。
動きは静かだ。
自分の身体が、下層に合ってきている。
それは強さだった。
同時に、ここ以外へ行けばどうなるのかという不安でもあった。
地上。
ニルとレオンの記憶にある場所。
空。
光。
草。
人間。
そこへこの身体で出たら、どう見えるのか。
グレイは一瞬だけ想像した。
光の下で、黒い外皮が晒される。
人間たちが叫ぶ。
武器を向ける。
火。
魔法。
矢。
檻。
その想像で、身体が低くなる。
恐怖はある。
しかし同時に、どこを噛めばいいかも浮かぶ。
光を使う者は目を狙う。
弓は距離を潰す。
魔法は発動前の匂いと音を読む。
盾持ちは足元を崩す。
火は避けるか、煙の流れを読む。
檻は噛むか、抜け道を探す。
そんな考えが、恐怖と一緒に出てくる。
グレイは、通路の途中で止まった。
自分は変わった。
以前なら、人間を想像しただけで隠れた。
今は、戦い方を考えている。
恐ろしい相手に対し、勝てるかどうかを考えている。
それは自信なのか。
狂いなのか。
分からない。
ただ、もう恐怖だけでは動けなくならない。
恐怖はある。
だが、恐怖は情報になった。
怖いものほど、見る。
見るほど、噛む場所が分かる。
そうなっている。
グレイは水場へ向かった。
途中、黒殻狩りの匂いを拾った。
二匹。
近い。
以前なら、すぐに避けた。
黒殻狩りは硬く、速い。
一匹なら倒せるかもしれないが、二匹は面倒だ。
巣の近くで戦えば危険。
避けるのが正しい。
そう判断した。
だが、匂いの中に別の情報がある。
一匹が怪我をしている。
脚。
古い傷。
動きが少し鈍い。
もう一匹は腹が減っている。
苛立っている。
つまり、連携は乱れるかもしれない。
戦う必要はない。
だが、もし向こうから来るなら、逃げるだけではなく倒せる可能性もある。
グレイは天井へ上がった。
回避しつつ、観察する位置。
黒殻狩りたちは、通路の下を通った。
一匹は本当に足を引きずっている。
もう一匹は周囲を嗅いでいるが、空腹で動きが荒い。
グレイは動かない。
見逃す。
必要ない。
そう決めた。
しかし、空腹の個体が巣の方向へ向かった。
入口ではない。
だが近い通路。
放置すれば、巣の匂いに気づくかもしれない。
グレイの中で、判断が変わった。
今、排除する。
ただし、二匹まとめては危険。
分断する。
グレイは天井から小石を落とした。
怪我をしている個体の後方。
かつん。
足を引きずる個体が反応する。
空腹の個体は前へ進む。
距離が開く。
もう一つ、小石。
今度は空腹の個体の横。
そいつが顔を上げる。
警戒。
だが、遅い。
グレイは天井から落ちた。
狙うのは空腹の個体。
背中は硬い。
首の横。
顎の根元。
そこへ牙を入れる。
黒殻狩りが暴れる。
速い。
だが、グレイはもうこの種類の動きを知っている。
体を低くし、尾のように振られる腹部を避け、脚の関節を切る。
一撃。
二撃。
黒殻狩りが体勢を崩す。
もう一匹が戻ってくる。
足を引きずっている分、遅い。
グレイは先に空腹の個体の首を裂いた。
血が出る。
黒い体液。
匂いが広がる。
すぐに死体を盾のように押し出す。
戻ってきた個体は、仲間の死体に一瞬反応した。
その隙に、グレイは壁へ移る。
落ちる。
怪我をしている脚を噛む。
黒殻狩りが悲鳴のような音を出す。
グレイは深追いしない。
脚を傷つけ、距離を取る。
相手が動きを鈍らせる。
次に腹。
硬い殻の隙間。
噛む。
引く。
噛む。
引く。
やがて、二匹目も動かなくなる。
戦闘は短かった。
以前なら、恐怖で逃げたかもしれない相手。
二匹なら、近づくことすら避けたはずの相手。
それを、今は判断して倒した。
グレイは死体の上でしばらく動かなかった。
勝った。
だが、高揚より先に、静けさが来た。
怖くなかったわけではない。
最初の一撃を入れる直前、確かに怖かった。
黒殻狩りの顎。
二匹目の接近。
失敗すれば挟まれる。
外皮を破られる。
それを知っていた。
だから、怖かった。
でも、その怖さは手順になっていた。
先に分ける。
弱い方ではなく、巣へ近づく方を狙う。
死体を遮蔽物にする。
怪我した脚を狙う。
深追いしない。
恐怖が、動きを作っていた。
《黒殻狩りを捕食しました》
グレイは一匹目の関節から食べ始めた。
硬い。
だが、顎は耐えられる。
《外皮硬化が微量上昇しました》
《顎力が微量上昇しました》
《対甲殻戦闘の経験値を獲得しました》
二匹目も食べる。
全部は食べきれない。
必要な部位だけ。
腹の柔らかい部分。
脚の筋。
顎の根元。
食べながら、グレイはまた自分の変化を感じた。
前より、食べ方が選択的になっている。
ただ貪るのではない。
今必要な部位を選ぶ。
残す。
隠す。
使う。
捕食は、衝動だけではなくなりつつある。
それもまた怖い。
衝動に飲まれるのも怖い。
だが、冷静に喰えるようになるのも怖い。
グレイは、残った死体を巣から離れた裂け目へ押し込んだ。
匂いが巣へ流れないように。
その時、遠くで人間の足音がした。
複数。
グレイは即座に天井へ戻った。
血の匂いを落とす暇はない。
黒殻狩りの死体が近くにある。
人間が見れば、戦闘痕を読む。
ラグドなら、また読む。
グレイは黒岩の影に沈んだ。
人間たちが近づく。
三人。
ラグドではない。
先ほど巣を見て去った三人とも違う。
いや、そのうち一人は似ている。
重い足音の男。
巣の前で「やめとけ」と言った人間だ。
他に二人。
若い男と女。
彼らは黒殻狩りの死体を見つけた。
「新しい」
女が言う。
「まだ血が濡れてる」
若い男が剣を抜く音。
「近くにいるのか」
重い男が低く言った。
「騒ぐな」
彼はしゃがみ、死体を見た。
「二匹。短時間でやられてる」
女が息を呑む。
「黒殻狩り二匹を?」
「片方は脚の古傷を狙われてる。もう片方は首。迷いがない」
迷いがない。
その言葉が、グレイの中に刺さった。
迷いがないように見えるのか。
人間からは。
本当は怖かった。
考えた。
選んだ。
でも、痕跡だけを見れば、迷いなく殺したように見える。
重い男は続けた。
「逃げる魔物じゃないな」
若い男が声を潜める。
「グレイラーヴァか?」
「たぶんな」
女の匂いに恐怖が混ざる。
「でも、前は人間から逃げるって話じゃ」
「変わったんだろ」
重い男が言った。
「それか、最初から逃げてただけじゃない。観察してた」
グレイは天井で動かない。
この男も危険だ。
ラグドほど細かくはない。
だが、感覚が鋭い。
「戻る」
重い男が言った。
若い男が驚く。
「見つけるんじゃないのか?」
「見つけたら困る」
「でも、報告には」
「報告するために生きて戻るんだ」
ラグドに似た考え。
生きることを優先する。
危険を見て、踏み込まない。
グレイは、その判断を覚えた。
人間の中にも、深追いしない者がいる。
自分が最近覚えたことと同じだ。
若い男は不満そうだったが、女はすぐに頷いた。
三人は下がり始める。
その瞬間、黒殻狩りの死体から匂いに誘われた小型魔物が現れた。
骨喰い虫。
数匹。
人間たちの足元近く。
若い男が反射的に剣を振る。
一匹を斬る。
血が出る。
骨喰い虫が散る。
音が大きい。
重い男が低く怒鳴った。
「余計な音を出すな」
若い男が固まる。
その音に、もっと遠くの気配が動いた。
中型魔物。
人間たちも気づいた。
重い男が言う。
「走るな。ゆっくり下がれ」
三人は後退する。
グレイは見ていた。
人間も恐れている。
だが、恐怖で崩れない者がいる。
恐怖を使っている。
自分と同じように。
そう思った。
重い男は人間だ。
グレイとは違う。
だが、恐怖の扱い方が少し似ている。
だから危険だ。
人間たちが去った後、グレイはまだ動かなかった。
中型魔物が来る可能性がある。
血の匂いが増えている。
長居は危険。
グレイは、黒殻狩りの死体を諦めた。
まだ食える部分はある。
だが、残す。
欲張らない。
巣へ戻る道を選ぶ。
しかし、その前に、骨喰い虫を斬った若い男の血の匂いがほんの少し残っていることに気づいた。
人間の血。
手か腕を掠ったのかもしれない。
ほんのわずか。
黒岩の上に赤い筋がある。
グレイは動きを止めた。
人間の血。
レオンの記憶が揺れる。
ニルの空が揺れる。
舐めれば何か見えるかもしれない。
だが、今は駄目だ。
レオンを食べた後、まだ完全に安定していない。
人間の血は危険。
グレイは血痕から目を逸らした。
逸らす。
だが、匂いは残る。
追える。
追えば、あの三人の後を辿れる。
重い男の判断をもっと見られる。
若い男の記憶を知れる。
女の恐怖を知れる。
知りたい。
喰いたい。
その二つがまた近づく。
グレイは、前脚で黒岩を掻いた。
血痕の横の岩粉を崩し、血を覆う。
見えなくする。
匂いは完全には消えない。
だが薄まる。
自分が舐めないために。
他の魔物が来るのを遅らせるために。
なぜそんなことをしたのかは分からない。
ただ、そうした。
《人族血液への摂取衝動を確認》
《摂取を回避しました》
《捕食衝動への抵抗を確認》
《恐怖耐性が安定化しています》
恐怖耐性。
グレイは、その言葉を聞いて少し考えた。
血を舐めるのが怖い。
人間を食べるのが怖い。
人間の記憶に飲まれるのが怖い。
その恐怖もまた、自分を止める情報になっている。
だから舐めなかった。
恐怖は、逃げるためだけではない。
喰わないためにも使える。
それは新しい理解だった。
グレイは巣へ戻った。
入口の骨が、軽く鳴る。
自分の足で鳴らした音。
巣の音。
中へ入ると、外より少し匂いが安定している。
グレイは奥で身体を丸めた。
黒殻狩りとの戦いで得た熱が、まだ身体に残っている。
外皮が少し硬くなった気がする。
顎も重い。
だが、それ以上に頭の中が静かだった。
以前なら、戦いの後は興奮した。
次の獲物を探した。
狩りの楽しさを感じた。
今も、そういうものはある。
だが、その上に別のものがある。
判断。
恐怖。
選択。
食べる。
食べない。
戦う。
逃げる。
追う。
追わない。
全部を、その時ごとに決める。
グレイは、巣の奥で自分の名前を小さく呼んだ。
「グレイ」
声は以前より安定している。
レオンの声は重ならない。
人間の発音に近づいたことは怖い。
だが、それでも自分の音として使える。
グレイは目を閉じた。
恐怖はある。
だが、もう恐怖に支配されるだけではない。
恐怖を使う。
狩るために。
逃げるために。
喰わないために。
自分でいるために。
外で、遠く中型魔物が黒殻狩りの死体にたどり着いた音がした。
肉を裂く音。
骨を砕く音。
グレイは動かなかった。
奪われてもいい。
自分はもう必要な分を得た。
欲張らなかったから、巣に戻れた。
それでいい。
暗い巣の中で、グレイは静かに息を潜めた。
逃げるだけの幼生は、もういない。
だが、何でも噛み殺すだけの獣にも、まだなっていない。
恐れながら、選ぶ。
恐れながら、進む。
それが今のグレイだった。




