表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
23/45

第23話『名前』

グレイ。


その音は、洞窟の中では小さすぎた。


黒岩の通路を進みながら、グレイラーヴァは何度もその音を内側で転がしていた。


グレイ。


グレイラーヴァ。


人間がつけた仮称。


危険個体を記録するための音。


灰色の幼生。


もう灰色でも、ただの幼生でもないのに、その音だけが残っている。


不思議だった。


白い身体は失われた。


灰色の外皮も、下層に馴染むように黒く変わりつつある。


脚も変わった。


牙も変わった。


顎も変わった。


匂いも、音の拾い方も、恐怖の扱い方も変わった。


けれど、名前のようなものだけは、最初に人間が呼んだ時のまま残っている。


グレイラーヴァ。


その音は、自分を指していた。


少なくとも、人間たちはそう使っている。


だが、それはニルという音とは違う。


ニル。


血から覗いた記憶の中で、誰かがその名を呼んでいた。


柔らかく。


当たり前のように。


返事を求めるように。


そこには、警戒も恐怖も討伐も捕獲もなかった。


ただ、その人間がそこにいることを確かめる音だった。


名前とは、そういうものなのかもしれない。


グレイラーヴァは、通路の途中で脚を止めた。


黒岩の壁に、青白い結晶が細く生えている。


その光が外皮に当たり、黒灰色の体をわずかに照らした。


グレイ。


自分の中で短く呼ぶ。


すると、胸の奥に小さな感覚が生まれる。


痛みではない。


空腹でもない。


恐怖でもない。


何かが、そこに留まる感覚。


自分の輪郭を、わずかに結ぶような感覚。


グレイラーヴァは、かすかに口を開いた。


喉を震わせる。


「……グ、レ」


音は歪んでいた。


人間の言葉のようにはならない。


湿った、擦れた、獣にも虫にも似た音。


喉からではなく、口の奥のどこかが鳴っているだけのような声。


それでも、近かった。


グレイ。


自分を指す音。


もう一度。


「グ……レイ」


少しだけ、形になった。


その瞬間、通路の奥で小さな魔物が動いた。


グレイラーヴァはすぐに身を伏せた。


自分の声に反応したのか。


いや、違う。


ただ通路を通っただけだ。


黒岩喰いの幼体。


こちらに気づいていない。


グレイラーヴァは壁に張りついたまま、しばらくそれを見ていた。


狩れる。


腹は減っている。


さっきから水しか飲んでいない。


人間の血痕を舐め、罠を避け、長く移動した。


身体は栄養を求めている。


黒岩喰いを食えば、黒岩適応も進む。


食う理由はある。


だが、グレイラーヴァはすぐには動かなかった。


自分の声を出した直後だったからかもしれない。


グレイ。


そう呼んだばかりの自分が、次の瞬間には何の迷いもなく飛びかかって殺す。


それは今までなら普通だった。


今も普通なのかもしれない。


けれど、なぜか一瞬だけ止まった。


名前を持つことと、喰うこと。


その二つが、同じ身体の中にある。


ニルにも名前があった。


ラグドにも。


セヴィルにも。


ガランにも。


では、この黒岩喰いにも名前はあるのか。


ない。


たぶん。


少なくとも自分は知らない。


名前がないものは餌で、名前があるものは餌ではないのか。


違う。


そんなはずはない。


ニルを餌として見た。


人間の血を欲した。


名前があっても、身体は食べ物として認識する。


では、名前とは何だ。


食べることを止めるものではない。


命の価値を示すものでもない。


ただ、誰かが誰かを識別する音。


それだけなのか。


黒岩喰いの幼体が、岩粉を舐めている。


無防備ではないが、警戒は浅い。


グレイラーヴァはゆっくり壁を移動した。


天井へ。


獲物の上へ。


考えながらでも、身体は狩りの位置を取っていた。


それに気づいて、少しだけ冷える。


思考と捕食が同時に進む。


名前について考えながら、獲物の首元を見ている。


自分はそういうものになった。


グレイラーヴァは落ちた。


短く、静かに。


前脚で黒岩喰いの背を押さえ、顎の付け根へ牙を入れる。


硬い。


だが、もう知っている。


関節の隙間。


膜の薄い場所。


そこを噛む。


黒岩喰いが暴れる。


グレイラーヴァは体を低くし、脚を一本切った。


体勢が崩れる。


次に首。


深く噛む。


体液が口に入る。


鉱物の味。


苦い。


黒岩の粉のようなざらつき。


やがて獲物は動かなくなる。


静かだった。


本当に、ただの作業のようだった。


グレイラーヴァは死体を岩陰へ引きずり込み、食べた。


《黒岩喰い幼体を捕食しました》


《黒岩適応が微量上昇しました》


《顎力が微量上昇しました》


《捕食経験値を獲得しました》


声が響く。


グレイラーヴァは咀嚼しながら、それを聞いた。


この黒岩喰いにも、名前はなかった。


けれど、死んだ。


食べた。


力になった。


もし名前があったら、違ったのか。


分からない。


グレイラーヴァは食べ終えた後、残った硬い殻を小さな亀裂へ押し込んだ。


後で使えるかもしれない。


匂いを隠すため。


あるいは硬いものを噛む練習のため。


そう考えている自分に、もう驚きは少なかった。


食べるだけではない。


残骸も使う。


巣がなくても、狩場がなくても、使えるものは使う。


そういう生き方になっている。


通路を進むと、小さな水の流れがあった。


鉱毒は薄い。


飲める。


グレイラーヴァは周囲を確認してから、水へ口をつけた。


冷たい。


苦い。


水面には、自分の姿が映る。


黒灰色の外皮。


鋭い牙。


長い脚。


低い姿勢。


以前よりも、さらに魔物らしい。


それでも、グレイラーヴァはその水面に向かって、もう一度音を出した。


「グレイ」


さっきより少しだけ、はっきりした。


水面の魔物が口を動かす。


その姿は醜い。


だが、音は自分を指している。


人間がつけた仮称を、自分で削った音。


グレイラーヴァでは長い。


喉がうまく作れない。


だから、グレイ。


短く。


呼びやすい。


自分の中で収まりやすい。


グレイは水面を見つめた。


本当にそれでいいのか。


人間に付けられた名を、自分で受け入れるのか。


危険個体として呼ばれた音を。


討伐候補として記録された音を。


捕獲対象として研究者が書き込んだ音を。


それを、自分の名のように使うのか。


嫌ではないのか。


嫌だ。


少し。


だが、それしかない。


自分には、最初から名前がなかった。


少なくとも、思い出せない。


人間だったなら名前があったはずだ。


だが、血を見ても、声を聞いても、人間への懐かしさはなかった。


前世があったとしても、人間ではなかったのかもしれない。


そもそも名前を持つような存在ではなかったのかもしれない。


自分は何なのか。


分からない。


だから、今ある音を使う。


グレイ。


それでいい。


今は。


水面の中の魔物も、同じようにこちらを見ている。


グレイは、水を飲み終えると顔を上げた。


その瞬間、遠くから声が聞こえた。


人間。


グレイはすぐに壁へ移動した。


身を伏せ、天井の影へ入る。


声は遠い。


だが、以前より言葉がはっきり聞こえる。


「……この辺りの血痕は消えている」


ラグドの声。


低く、慎重。


「鈴は鳴ったんですよね?」


ニル。


声に緊張がある。


「鳴った。だが網にはかかっていない」


セヴィルの声。


不満と興奮が混じる。


「血痕には接触した可能性が高いでしょう。残量が減っていました」


グレイは、天井に張りついたまま動かない。


彼らは罠を確認している。


血痕の場所に戻ってきたのだ。


距離はある。


直接見えない。


だが声は通路を伝って届く。


匂いも薄いが分かる。


ラグド。


ニル。


セヴィル。


ガラン。


四人いる。


「やはり血に反応する」


セヴィルが言った。


「人族血液に明確な誘引性。罠への接触後も血痕摂取を優先した可能性があります」


違う。


グレイは、心の中でそう思った。


罠に気づいた後は舐めなかった。


離れた。


だが、セヴィルには分からない。


血痕の減りだけを見るなら、そう判断するかもしれない。


ラグドの声が続く。


「決めつけるな。網にはかかっていない。接触後すぐに離れた可能性もある」


グレイの身体がわずかに反応した。


ラグドは、また近い。


正確ではない。


だが、考え方が近い。


危険だ。


「どちらにせよ、血に誘われたのは確かです」


セヴィル。


「つまり次も使える」


ニルの声が硬くなる。


「俺の血を、ですか」


少しの沈黙。


セヴィルは答えなかった。


ラグドが低く言う。


「使わない」


「しかし」


「使わないと言った」


その声には、はっきりとした拒絶があった。


グレイは天井の影で、それを聞いていた。


ラグドはニルの血を餌にしない。


なぜ。


仲間だから。


ニルだから。


人間だから。


理由は分かる。


だが、感覚としてはまだ遠い。


血は強力な誘引物だ。


自分なら、獲物の一部を餌場に置く。


内臓を置き、小型魔物を誘った。


それと似ている。


人間の血を置けば、自分を誘える。


効果はある。


それでもラグドは使わない。


ニルを餌にしない。


人間の仲間意識。


名前を持つ者同士の関係。


それが、判断を変えている。


グレイは、ニルの記憶を思い出した。


名前を呼ぶ声。


温かい食べ物。


帰りたい。


ラグドに掴まれた腕。


人間は、他の個体を守る。


自分にはまだ、分かりきらない。


だが、少しだけ形が見える。


「では、どうするのです」


セヴィルが言う。


「観察を続ける。刺激は最低限。血は使わない」


「それでは接触できません」


「接触しなくていい」


「それでは研究が進みません」


「生きて帰ることが先だ」


ガランがそこで短く言った。


「俺はラグドに賛成だ。あれは釣る相手じゃない」


ニルも小さく言った。


「俺も……賛成です」


セヴィルは深く息を吐いた。


「現場判断として記録します」


不満の匂い。


だが、従う。


今は。


グレイは、人間たちの会話を聞きながら、名前について考えていた。


ラグド。


ニル。


セヴィル。


ガラン。


四つの名前。


同じ人間でも、違う匂い、違う声、違う判断。


ラグドは慎重。


ニルは恐怖。


セヴィルは興味。


ガランは守り。


名前は、それぞれの違いを分ける音なのかもしれない。


なら、グレイという音は何を分ける。


黒岩喰いとは違う。


追跡獣とも違う。


上位種とも違う。


人間とも違う。


同族だった白い幼生とも違う。


グレイ。


喰って変わるもの。


喰わないことも記録するもの。


人間を知りたがるもの。


名づけられた危険個体。


それが今の自分。


少なくとも、そう呼ぶしかない。


人間たちの足音が遠ざかっていく。


ラグドは血を使わないと言った。


だが、セヴィルは諦めていない。


その匂いで分かる。


彼はまた何かを仕掛ける。


血ではなくても。


匂い粉。


薬液。


餌。


光。


音。


彼は自分を調べたい。


捕まえたい。


ラグドよりも危険かもしれない。


ラグドは殺す危険。


セヴィルは変えようとする危険。


ニルは血の危険。


ガランは力の危険。


人間はそれぞれ違う危険を持っている。


グレイは、それを覚えた。


人間たちが完全に去ってから、グレイは水場へ戻った。


もう一度水面を見る。


「グレイ」


今度は声に出さず、内側で呼んだ。


不思議と、外に出すよりも強く感じた。


人間のように発音する必要はない。


誰かに呼ばれるわけでもない。


自分が自分を指せれば、それでいいのかもしれない。


だが、それだけでは足りない気もする。


名前は、本来、誰かに呼ばれるものだから。


グレイは、その考えに少しだけ戸惑った。


誰かに呼ばれたいのか。


ラグドに?


ニルに?


人間に?


違う。


そう思う。


あの声で呼ばれるのは危険だ。


「グレイラーヴァ」と呼ばれる時、人間は警戒している。


討伐や捕獲を考えている。


それは名前ではなく、危険を示す音だ。


でも、ニルの記憶の中の名前は違った。


誰かに呼ばれ、振り返る。


そこに帰る場所がある。


自分にはない。


グレイは、水面から目を逸らした。


考えても仕方がない。


今必要なのは、餌と水と隠れ場所。


名前では腹は満たされない。


そう思った。


しかし、その直後、別の思考が浮かぶ。


名前がなければ、自分を保てないのではないか。


喰えば変わる。


環境で変わる。


恐怖で変わる。


毒で変わる。


血で変わる。


人間の言葉でさえ変わる。


なら、変わり続ける自分を繋ぐものが必要なのではないか。


グレイ。


それは杭だ。


自分が自分を見失わないための、小さな杭。


人間が打ったものでも、今は自分で握れる。


そう考えると、少しだけ落ち着いた。


その時、通路の奥から黒鼠の匂いがした。


怪我はしていない。


単独。


水を飲みに来る。


グレイの腹が反応する。


名前について考えていても、身体は獲物を逃さない。


それでいい。


生きるためだ。


グレイは天井へ移動した。


水場の上。


影。


黒鼠が近づく。


鼻を動かす。


警戒している。


水へ口をつける。


一口。


二口。


三口。


グレイは待った。


最も静かに殺せる瞬間まで。


そして落ちた。


首元へ牙。


前脚で押さえる。


暴れる前に血管を裂く。


黒鼠は短く痙攣し、動かなくなった。


グレイは死体を岩陰へ引きずった。


食べる。


温かい血。


柔らかい肉。


骨髄。


《黒鼠魔物を捕食しました》


《脚力が微量上昇しました》


《嗅覚が微量上昇しました》


《捕食経験値を獲得しました》


いつもの声。


いつもの熱。


グレイは食べながら、ふと思った。


この黒鼠に名前はない。


少なくとも自分は知らない。


だから食べたのか。


違う。


名前があっても、必要なら食べるかもしれない。


そう思ってしまう。


ニルでも。


ラグドでも。


セヴィルでも。


ガランでも。


もし、目の前で死んでいたら。


もし、自分が飢えていたら。


もし、生きるために必要なら。


食べないと言い切れるか。


グレイは、食べる動きを止めた。


言い切れなかった。


その事実が重い。


名前を知っても、食欲は完全には止まらない。


だが、名前を知れば迷う。


迷える。


それだけでも違うのかもしれない。


迷いは弱さだ。


この洞窟では、迷えば死ぬ。


でも、迷いがなくなれば、自分は何でも食う。


それが怖い。


グレイは黒鼠の残骸を見た。


この魔物には迷わなかった。


人間には迷う。


同族には、少し迷った。


黒い幼生は食べなかった。


その違いは何か。


似ているからか。


恐怖を感じたからか。


名前を知っているからか。


まだ答えは出ない。


グレイは食事を終え、残骸を隠した。


そして、天井へ戻る。


人間たちの去った方向とは逆へ進む。


だが、完全には離れない。


観察を続けるために。


距離を保つ。


匂いを覚える。


足音を覚える。


声を覚える。


ラグド。


ニル。


セヴィル。


ガラン。


そして、自分。


グレイ。


この五つの音が、今の暗闇の中で妙に強く残っていた。


通路の先で、遠く水音がする。


さらに奥には、追跡獣の薄い匂い。


別方向には黒岩喰い。


人間は上へ離れつつある。


グレイは、黒岩喰いの匂いを選んだ。


今は魔物を食う。


人間ではなく。


そう決める。


だが、進みながら、内側で何度も自分を呼んだ。


グレイ。


グレイ。


グレイ。


それは祈りではない。


慰めでもない。


命令でもない。


ただ、自分がまだ自分でいるための音だった。


黒岩の暗闇に、捕食幼種の影が溶けていく。


人間に名づけられた何かは、初めてその名を自分のものとして抱えた。


たとえそれが、仮の名でしかなくても。


たとえいつか、もっと別のものへ変わるとしても。


今この暗闇を進むものは、グレイだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ