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ヒトにはなれない異世界転生  作者: vastum


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第22話『血痕』

血の匂いは、薄くなっていた。


それでも分かった。


黒岩の通路。


青白い結晶の光。


湿った空気。


鉱毒の苦い匂い。


黒岩喰いの削った岩粉。


骨喰い虫の古い体液。


それらの奥に、かすかに残っている。


人間の血。


グレイラーヴァは天井に張りついたまま、動かなかった。


追ってはいけない。


そう思った。


人間の血は危険だ。


数滴舐めただけで、言葉が深まった。


感情が流れ込んだ。


帰りたいという、自分のものではない痛みが残った。


その匂いを追えば、また何かを拾う。


きっと、もっと知りたくなる。


知りたいと思えば、喰いたいと近づく。


その境目は薄い。


だから追ってはいけない。


そう分かっているのに、匂いは消えなかった。


人間たちは気をつけていた。


血を隠す薬草を使った。


足跡を減らした。


通路を変えた。


光石の匂いも、革の匂いも、金属の匂いも、意図的に散らしていた。


ラグド。


低い声の男。


あの男は、グレイラーヴァが匂いを読むことを理解している。


だから痕跡を残さないようにしている。


だが、完全ではない。


ニルの肩の傷。


そこから滲んだごく微量の血。


薬草で覆われ、布に吸われ、時間が経ち、乾きかけた血。


それでも、グレイラーヴァの嗅覚は拾ってしまう。


人間。


血。


情報。


記憶。


グレイラーヴァの腹の奥が、静かに反応した。


空腹とは少し違う。


飢えではある。


だが、肉を求めるだけではない。


知りたい。


その感情に近い。


ニルの血をまた舐めれば、何が見えるのか。


あの若い男の名前はもう知っている。


ニル。


仲間に呼ばれていた。


では、彼自身の中には何がある。


地上。


家族。


帰る場所。


恐怖。


自分への嫌悪。


自分に血を舐められたかもしれないという恐怖。


そういうものが、血に残っているかもしれない。


グレイラーヴァは、天井の黒岩に爪を立てた。


違う。


それを知るために血を追うのは危険だ。


知りたいという言葉で、食欲を隠しているだけかもしれない。


人間の血は、餌だ。


そう身体が言う。


人間の血は、情報だ。


そう頭が言う。


その二つが、あまりにも近い。


グレイラーヴァは、しばらくその場でじっとしていた。


餌場へ戻るという選択肢もあった。


黒岩喰いを狩る。


小型魔物を誘う。


毒水を少し飲む。


そうすれば、力を得られる。


人間の匂いから離れられる。


だが、離れても匂いの線は頭に残る。


どこへ行っても、その方向を覚えてしまう。


なら、追うのではなく確認する。


危険を知るため。


人間の位置を把握するため。


そう理由をつける。


グレイラーヴァは、ゆっくりと動いた。


天井を這う。


音を殺す。


人間が残した通路を、地面からではなく上から辿る。


足跡を踏まない。


薬草の匂いが強い場所には近づきすぎない。


金属の擦れた跡を避ける。


人間たちが罠を置いている可能性がある。


音の鳴る金具。


匂い粉。


網。


杭。


グレイラーヴァはそれらを見たことがある。


完全には理解していない。


だが、人間が道を制限することは覚えた。


通路を塞ぐ。


音を鳴らす。


匂いを壊す。


それは、狩りではなく支配に近い。


道を作り、道を消す。


人間は洞窟そのものを少しだけ変える。


グレイラーヴァも巣を作り、餌場を使った。


やっていることは違うが、どこか似ている。


人間の痕跡を追いながら、グレイラーヴァはそれを思った。


しばらく進むと、血の匂いが少し濃くなった。


通路の曲がり角。


黒い岩の低い位置に、乾いた赤黒い跡があった。


かなり小さい。


人間なら見落とすかもしれない。


だがグレイラーヴァには分かった。


ニルの血。


肩の傷から落ちたものではない。


おそらく、包帯を替えた時に布から滴った。


薬草が混ざっている。


乾き始めている。


量はほんのわずか。


それでも、人間の血。


グレイラーヴァは、天井から降りなかった。


見下ろす。


血痕は岩のくぼみに入っている。


舐めるには、降りなければならない。


降りるか。


降りないか。


周囲の気配を確認する。


人間はいない。


小型魔物も遠い。


薬草の匂いはあるが、刺激粉ほど強くない。


罠の金属臭もない。


安全。


そう判断してしまう。


安全なら、舐められる。


その考えが来る。


グレイラーヴァは、まだ動かなかった。


舐めれば、また流れ込む。


分かっている。


それでも、知りたい。


地上。


人間。


帰る場所。


名前。


グレイラーヴァは、ゆっくりと壁を降りた。


血痕の前に立つ。


赤黒い跡。


乾きかけている。


匂いは薄い。


だが、確かにニルだ。


グレイラーヴァは口を近づけた。


まだ迷う。


ここで止まれる。


血を残して離れられる。


それも選択だ。


捕食衝動に抵抗できる。


喰わないことも記録される。


分かっている。


だが、この血は死体ではない。


肉でもない。


ほんの痕跡。


舐めても、ニルは死なない。


すでに落ちたものだ。


そういう理屈が浮かぶ。


グレイラーヴァは、それが言い訳だと分かっていた。


分かっていて、舐めた。


血は乾いていて、苦かった。


薬草の味が強い。


だが、その奥に人間の熱が残っていた。


舌に触れた瞬間、頭の奥が開く。


暗い洞窟が揺らいだ。


青白い結晶の光が遠ざかる。


代わりに、眩しいものが差し込んだ。


光。


強い。


痛いほどの光。


だが火ではない。


熱で焼く光ではない。


広がる光。


上から降る光。


空。


その言葉が浮かぶ。


青い。


広い。


天井がない。


グレイラーヴァは、思考の中で硬直した。


天井がない場所。


どこまでも上へ続く場所。


岩ではなく、光が広がっている。


地上。


ニルの記憶の断片。


草の匂い。


風。


土。


水。


木。


人間の声。


誰かが笑っている。


名前を呼ぶ声。


「ニル」


その音は、洞窟で聞いたものと違った。


柔らかい。


警戒でも命令でもない。


呼びかけ。


振り返ってほしいという音。


そこには危険がなかった。


少なくとも、その記憶の中では。


次に、手。


人間の手。


小さな器を渡している。


湯気。


食べ物の匂い。


焼いた肉。


穀物。


塩。


グレイラーヴァには分からない匂いが多い。


けれど、ニルはそれを安心として覚えている。


温かい。


帰ってきた。


そういう感覚。


次の瞬間、記憶は裂けた。


洞窟。


血。


痛み。


暗闇。


肩に食い込む爪。


縦穴の縁。


落ちる恐怖。


誰かが腕を掴む。


ラグドの声。


「掴まれ」


ニルの恐怖が流れ込む。


死にたくない。


帰りたい。


まだ帰りたい。


まだ、名前を呼ばれたい。


グレイラーヴァは、血痕から口を離した。


身体が震えていた。


ほんの小さな血痕。


乾いた血。


それだけで、これほど強い。


以前の数滴よりも断片は薄い。


だが、今回は地上を見た。


空。


天井のない場所。


光。


風。


草。


人間の帰る場所。


グレイラーヴァは、しばらく動けなかった。


自分にはない。


そんな場所はない。


洞窟で目覚めた。


死肉を食べた。


逃げた。


食った。


変わった。


それが自分の始まり。


空の記憶などない。


草の匂いも知らない。


誰かに柔らかく名前を呼ばれたこともない。


グレイラーヴァという音はある。


だが、それは洞窟でつけられた仮称だ。


人間が危険個体を識別するための音。


ニルと呼ばれる音とは違う。


その違いが、血を通して分かった。


分かってしまった。


《人族血痕を摂取しました》


《記憶片への接触を確認》


《言語理解が微量上昇しました》


《感情情報への接触を確認》


《地上環境情報を取得しました》


地上環境情報。


声は淡々としていた。


グレイラーヴァは、その言葉に奇妙な怒りのようなものを覚えた。


情報。


たしかにそうだ。


空も、風も、草も、人間の声も。


すべて情報として取り込まれた。


この身体は、それすら材料にする。


だが、ニルにとってそれはただの情報ではなかった。


帰る場所だった。


名前を呼ぶ声だった。


温かい器だった。


グレイラーヴァは、それを理解した。


理解したからこそ、苦しかった。


自分が舐めた血は、ただの餌ではない。


誰かの帰りたいだった。


それを知るために舐めた。


つまり、自分は誰かの帰りたいを味わった。


その事実が、腹の奥に重く沈んだ。


だが、同時に。


もっと知りたい。


そう思ってしまった。


地上。


空。


光。


風。


草。


人間の食事。


名前を呼ぶ声。


それらをもっと見たい。


もっと血を舐めれば。


もっと肉を喰えば。


もっと記憶が流れ込めば。


人間をもっと理解できる。


地上を知れる。


グレイラーヴァは、牙を強く噛み合わせた。


危険だ。


知りたいと喰いたいが繋がっている。


まただ。


血痕から離れろ。


そう思う。


だが、岩にはまだわずかに血が残っていた。


薬草で苦くなっている。


乾いている。


それでも人間の血だ。


グレイラーヴァは、それを見つめた。


もう一度舐めれば、また何か見えるかもしれない。


ニルの記憶。


あるいは、別の感情。


人間の地上。


呼ぶ声。


グレイラーヴァは口を近づけた。


そこで、背後の通路から小さな音がした。


かち。


金属。


グレイラーヴァの身体が硬直する。


罠。


人間の道具。


血痕から少し離れた場所に、細い金具が置かれていた。


黒岩の陰に隠れて、匂いも薬草で誤魔化されていた。


グレイラーヴァは、血に気を取られていた。


気づくのが遅れた。


今、後ろ脚が細い糸に触れたのだ。


かち、という音。


直後、通路の横から小さな鈴のような音が鳴った。


りん。


小さい。


だが洞窟では響く。


人間の鳴子。


グレイラーヴァは即座に跳んだ。


天井へ。


その瞬間、横穴から網が落ちた。


遅れていたら絡め取られていた。


網は黒岩の床に広がる。


細い繊維。


薬草と金属の匂い。


絡めば厄介だ。


グレイラーヴァは天井に張りつき、網を見下ろした。


血痕。


薬草。


金具。


糸。


網。


罠だった。


いや、完全な罠ではない。


血痕を利用した警戒装置。


グレイラーヴァが血を舐めに来ると考えて、置かれていた。


ラグドか。


セヴィルか。


どちらだ。


低い男なら、殺すためではなく反応を見るために置くかもしれない。


薬品の男なら、捕獲するために置くかもしれない。


グレイラーヴァの外皮が冷える。


読まれている。


人間の血に引かれることを。


その血を舐める可能性を。


人間はそれを利用した。


グレイラーヴァは、天井の奥へ移動した。


音を聞く。


人間の足音は近くにない。


罠だけ。


遠隔で音を鳴らし、後で確認する仕組みか。


それとも近くで待っているか。


匂いを探る。


人間の新しい匂いは薄い。


かなり前に仕掛けたものだ。


今すぐ来るわけではない。


だが、鈴の音は響いた。


他の魔物も気づくかもしれない。


ここを離れるべきだ。


グレイラーヴァは動こうとした。


その時、血痕の残りが視界に入った。


まだ少しある。


罠を見抜いた後なら、安全に舐められるかもしれない。


そう思った自分に、グレイラーヴァはぞっとした。


今、罠にかかりかけた。


それなのに、まだ血を見ている。


人間の血が、思考を歪めている。


危険。


離れろ。


グレイラーヴァは、天井から跳んだ。


血痕とは逆方向へ。


通路の奥へ走る。


音を完全には殺せない。


だが今は距離を取る。


罠のある場所から離れる。


途中で水の流れを使い、足跡を切る。


壁へ登り、天井を移動する。


薬草の匂いが残る場所は避ける。


人間の匂いを追わない。


追うな。


追うな。


追うな。


そう繰り返す。


しばらく進んでから、グレイラーヴァは狭い裂け目へ潜り込んだ。


身体を押し込める。


奥は小さい。


だが一時的に隠れられる。


そこでようやく止まった。


心臓のようなものが速く脈打っている。


恐怖。


罠に対する恐怖。


そして、自分が血に引かれて罠を見落としたことへの恐怖。


人間は怖い。


魔物のように牙で来るだけではない。


血を置く。


匂いを隠す。


音を鳴らす。


網を落とす。


そして、自分の欲を読む。


グレイラーヴァは、裂け目の中で小さく身体を丸めた。


《罠への接触を確認》


《血液誘引への反応を確認》


《捕食衝動が活性化しています》


《危険察知が微量上昇しました》


《人族血液への警戒反応が発現しかけています》


人族血液への警戒反応。


グレイラーヴァは、その声を聞いて少しだけ安堵した。


血への欲求だけではない。


血を危険として見る反応も生まれた。


それは必要だ。


人間の血は餌であり、情報であり、罠にもなる。


近づけば得る。


だが、近づけば捕まる。


その両方を覚えなければならない。


グレイラーヴァは、暗闇の中で目を閉じた。


ニルの記憶がまた浮かぶ。


空。


光。


風。


「ニル」と呼ぶ声。


食卓。


温かい器。


そして、洞窟で落ちかける恐怖。


帰りたい。


その感情。


グレイラーヴァは、その感情を自分の中で何度も触った。


理解できる。


少しだけ。


巣を失った痛みと似ている。


だが、もっと深い。


帰る場所がある者は、それを失う恐怖を持つ。


自分には、まだない。


なら、自分は何を失うのを怖がっているのか。


命。


身体。


変わる前の自分。


喰わない選択。


グレイラーヴァという音。


それくらいだろうか。


地上。


その言葉も、頭に残っていた。


洞窟の外。


空のある場所。


人間の帰る場所。


もし、そこへ行ったら。


グレイラーヴァは、どんな匂いを感じるのだろう。


草。


風。


太陽。


人間。


大量の人間。


大量の血。


大量の記憶。


その想像で、身体の奥が震えた。


恐怖か。


興味か。


空腹か。


分からない。


ただ、地上という場所は、自分にとって危険だと分かった。


人間の血がこんなに強いなら、人間の世界はきっともっと強い。


言葉も匂いも感情も、溢れている。


今の自分が行けば、飲まれるかもしれない。


あるいは、喰い尽くしたくなるかもしれない。


グレイラーヴァは、牙を閉じた。


まだ早い。


地上も。


人間も。


血も。


まだ。


今は下層で生きる。


魔物を食べる。


水を探す。


罠を避ける。


人間を観察する。


それでいい。


だが、心の奥に地上の光が残った。


洞窟にはない色。


天井のない広さ。


自分が知るはずのないもの。


それを知ってしまった。


そして、もう知らなかった頃には戻れない。


グレイラーヴァは、裂け目の奥でしばらく休んだ。


外では、遠くで何かが鈴の音に反応して動いている。


小型魔物か。


人間か。


分からない。


今は出ない。


罠の音が落ち着くまで待つ。


待つ間も、血の記憶は薄れなかった。


むしろ、時間が経つほど輪郭を持っていく。


ニル。


地上。


帰る場所。


グレイラーヴァ。


仮称。


危険個体。


捕食幼種。


自分には帰る場所がない。


だから、血を追ってしまうのかもしれない。


誰かの帰る場所を覗くために。


その考えに、グレイラーヴァは小さく震えた。


それは、喰うことよりももっと歪んでいる気がした。


やがて、外の気配が静まった。


グレイラーヴァは裂け目から這い出る。


血痕のある方向へは戻らない。


別の道を選ぶ。


水場へ。


餌場へ。


人間から離れる道へ。


しかし、進みながらも頭の中では、空の青が何度も浮かんだ。


見たことのない空。


ニルの記憶の空。


自分のものではないのに、消えない。


グレイラーヴァは黒岩の壁を進みながら、小さく口を動かした。


声にはならない。


ただ、形だけ。


「ニル」


人間の名前。


次に、別の音。


「グレイ」


自分を示す短い音。


人間がつけた仮称の一部。


その二つの音は、洞窟の暗闇でまるで違う響きを持っていた。


ニルは、誰かに呼ばれる名。


グレイは、危険を示す名。


それでも、グレイラーヴァはその音を捨てられない。


グレイ。


そう自分の中で呼ぶ。


地上の記憶を知った後でも、自分はここにいる。


黒岩の下層で。


血に引かれ、罠を避け、魔物を喰い、変わっていく。


空を持たない何かとして。


グレイは、暗闇の中へ進んだ。


遠くで水音がした。


その音だけが、今は血の匂いよりも安全に思えた。

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