第2節 平熱の中の異常事態。
ただ歩く。
誰も何も言わない。
アスファルトの道を、3人の靴底が一定のリズムで叩いていく。
止まり、覗き、悲鳴を聞き、避けて進む。
そういうルーティンを繰り返す。
長い坂が平坦になってきたあたりで、美咲が立ち止まった。
街灯が途切れ、闇が少しだけ深くなる場所。
「……ここで、少し休憩」
そう言うと、細い脇道に入り、周囲が見え、死角になる民家の塀沿いに腰を下ろした。
彩葉も、すぐ隣にしゃがみ込む。俺は美咲を挟んだ向かい側に腰を落ち着ける。
肩で息をする。重苦しい沈黙が続く。
虫の声さえ聞こえない。
湿気が混じった風が庭の木を揺らしザワリと音を立てている。
少しして、彩葉が口を開いた。
「……ねぇ、先輩」
声は小さい。
「先輩さ……あの人……見捨てたっすよね」
「……見捨てたな」
視線を黒い空に向けつつ、答える。白い街灯の上、空はただ黒いだけ。
何故そんなことを聞くのだろうと微かに思う。
彩葉が頷く気配を聞く。
視線を向ければ、目を伏せたまま、彩葉がぽつりと言った。
「……なんか、慣れてきちゃったっすね」
苦笑する。答える前に、美咲が身じろぎした。
だが何も言わず、少し間を置いてから、
「悟司、甘いものが飲みたい。ジュース取って。リュックから」
とだけ言って、背中のリュックを突き出す。
近くの自販機はまだ明るい。電気が生きている。無論、ガシャンと鳴るから自殺したいとき以外は使えない。
俺は身体を捩じり、美咲の背中のリュックを漁る。
《グレープソーダ》
ブドウ味の炭酸ジュースのキャップを回して渡すと、美咲が一口飲んだ。
喉が鳴る音が静かに響く。
「ぷはっ……砂糖って、こんな味だったのね」
そう言って、かすかに笑った。
自然に差し出されたそれを受け取り、口に含む。
甘く、人工的な酸味が身体に染みわたる。
口が渇いていたからか、はたまた歩き続けて低血糖だからか、まさに生き返るような甘露。
ほぅと一息つく。
すると、彩葉が美咲の向こうから手を伸ばしてきた。
「……先輩。あたしも……ちょっともらっていいっすか?」
「……間接キスがどうたらって、さっき騒いでたのはお前だろ」
「もう……何でもいいっすよ。どうせこの世界、濃厚にキスするゾンビだらけじゃないっすか」
少し躊躇してから、俺はペットボトルを差し出す。
彩葉はキャップの縁を指でなぞり、何か考えているようだったが、結局口をつけてゴクリとジュースを飲んだ。
「うはっ……あまっ!」
そう言って、笑った。
その笑顔は、無理な明るさじゃなく、久しぶりに見る素の彩葉だった。
昨日までなら、こういう瞬間にドキッとしただろう。
後輩と間接キスなんて、俺の世界に無かったイベントだ。
だが、今は、何も感じない。
彩葉が、手に残ったボトルをワイングラスのように弄びながら零す。
「……あー、もう、なんか……」
間を置いて、軽い調子で。
「もう、先輩に抱かれても、なんとも思わないっすね」
美咲が顔を上げた。
「……は?」
「いやいや、マジの意味じゃないっすよ」
彩葉は笑いながら肩をすくめた。
「ただ、もう、常識とか、どっか行っちゃった気がして。生きるか死ぬかしかないじゃないっすか。だから、先輩に抱かれても、だからなんだ? って」
その軽口に、美咲が溜息を吐いた。
「……あんた、ほんと……どうかしてるわ」
美咲も分かっている。
これは冗談であって、冗談ではない。苦笑はできるが、笑い飛ばせる話ではない、と。
少し黙して、美咲が静かに呟いた。
「悟司は……アタシの彼氏よ」
美咲の言葉に、彩葉が同時に目を丸くする。
たぶん、今の俺たちは同じ顔をしていた。
「……? あれ、馬鹿言ってんじゃないの、を待ってたんっすけど?」
「別に。ただ……今の彩葉に、《馬鹿言わないで》って言いたかったのに……なんか言いにくかったのよ」
はぁと諦めたように笑った美咲が手のひらで額を押さえる。
「……判断の尺度がおかしくなりそうだわ。何が正しいのか、どこまで許していいのか、もう分からない」
彩葉がにやっと笑う。
「じゃあ、三角関係ってことでいいっすか?」
「……いいわけないでしょ……」
彩葉は声を出して笑った。
「ははっ、そりゃそうっすよね」
そんな彩葉につられて俺も笑った。
ほんの一瞬だけ、だ。
ほんの一瞬、この世界から《死の匂い》が消えた気がした。
深夜の夜風が吹き抜け、電線が揺れ、遠くの街灯がちらついた。
彩葉が空を見上げて言う。
「ねぇ、美咲先輩、悟司先輩。この世界、まだ星、出るんすかね」
「……雲が流れれば、見えるわよ」
「じゃあ、見えるうちは……もうちょっと歩きましょっか」
気楽に言って、彩葉がよっこらせっと立ち上がる。
美咲が頷き、俺も立ち上がる。
頭のネジをいくつも外して、俺たちは夜の東京を再び歩き出した。




