第1節 助けてくれと縋る、殺す価値すらない無価値な存在。
僅かにカーブした、なだらかな下り坂の裏道を進んだ。
遠く響く苦悶の悲鳴。それは一つではない。あちらそちらから聞こえてくる。男の声も女の声も一瞬で消えるのではなく、響き続ける。誰かがゾンビに群がられ、全身を齧り取られているのだ。
俺たちは音源を避けて黙って歩いた。話すことも、話したいこともなく、息を詰めてただ先を急ぐ。
美咲が先頭。彩葉は斜め後ろで視線を左右に流し続け、俺は最後尾で2人の背中を追った。
警戒だけが命綱。次に出会えば命はないと思い、各自が目を光らせる。
脇道、民家の影、駐輪場の奥(同じ過ちを繰り返さないように)。少しでも形の違う暗がりがあれば、そこに視線を滑らせる。
生き残るための歩き方。
ゾンビとの遭遇戦を経て、理論が実戦に裏打ちされ、俺たちの動きを別人のように変えていった。
交差点に出る。小さな交差点だ。
裏道とはいえ太めの道路が、脇道と交差する場所。
美咲がぴたりと足を止めた。
こぶしを握るわずかな仕草。
俺と彩葉は反射的に動きを止める。手慣れた動き。
美咲の視線の先、交差点の角に、人影。
街灯の下には、縁石に座り込む若い男。スーツを着たサラリーマンの姿。
傍らには、砕けた頭部を縁石の上に乗せた女性が横たわっている。
瞬間、男がこちらに気づいた。
ハッと顔を上げ、目を見開く。
「──違うんだ!」
開口一番がそれだった。
「違うんだよ……! 俺、必死で……必死で……!」
「……殺したわけじゃない。襲ってきたんだ。この女が、急に……!」
傍らに倒れている女性を、指差す。
「……夢中で、気づいたら。あのままだったら、俺が……」
震える声。
「警察に通報しているんだ。……でも、誰も出ない。繋がらなくて……!」
男は握り締めていたスマホをかざしてくる。液晶が割れて、画面が白くひび割れている。それでも、免罪符を掲げるように俺たちに見せる。
距離が近い。10メートルもない。細い道だから、声はそのまま届く。
恐怖と焦りで擦れた声。助けを求めるというより、自分でも認めたくない罪を否定するための自己弁護。
それでも、彼が《真っ当ないい人》なのだろうということは痛いほど伝わる。
同行者をストックにする。先ほどの議論の結論を思い出す。
膝の部分が擦り切れ血がにじんでいるのは俺と同じだ。スーツの上着もよれている。体格は並みで理性的・・・。
あぁ、だが、その二の腕には生地が避け、血の染みたシャツが覗く。
歯型がくっきりと浮かんでいる。
──感染者だ
美咲は無言。
槍を握ったまま、男を観察している。
判断のための沈黙。
「美咲、腕」
「分かってる」
槍の構えが変わる。突くための予備動作。
──気配で伝わる。
「……やるんすか?」
長槍を抱えた彩葉が息を詰め、美咲に問う。
それに答える前に、囁き合う俺たちを見て、男がスマホを見せるように一歩、二歩と歩み寄ってきた。
嫌悪感が全身に満ちる。傍に来るなという激情。
それは美咲も同じだった。
「寄るなッ!」
押し殺した声に、足の裏が張り付いたように男が止まる。
「近づけば刺す」
美咲が槍をアピールするように振った。
「(殺すのは不味い。ゾンビになるぞ)」
「(わかってる。刺して叫ばれても困る。……追い払うだけよ)」
囁き声を交わす。頷き合えば、止まった男に槍を向けつつ、美咲が前に進みだす。
彩葉は男に視線も向けずに足早にその背中を追った。
俺も目を合わせぬように、男から少し距離を取り、回り込むように通り過ぎ、先を急ぐ。
だが、背後に足音が響く。
歩き、ペースを上げて、小走りで追いかけてくる音。
「……ちょっと! 待ってくれ……頼む……」
美咲の背中が止まった。
その一瞬の変化を、感じ取る。
振り返れば、縋るように手を伸ばし、近づく男がいた。
カッ──空気に金属音が滲む。
その音に視線を戻せば、槍と盾を構えた美咲。
その姿は、機械のように精緻で、迷いがなかった。
だめだ。
俺は反射的に盾を持つ手を掲げ、「止まれ」と合図する。
そして、美咲の進路を塞ぐように男の前に歩を進める。
美咲だって、殺せるからと言って、胸が痛まないわけじゃない。
だから、俺に任せろ。
足手まといは殺す。もう決まっている。
盾を構えて、男を睨む。
数メートルの距離。
俺たちの間の電柱に灯る街灯の光が白い境界線に見えた。
喉の奥が熱くなる。
胸の内側が焼ける。
それまで逸らしてきた男の目を真っすぐに見た。
視線を合わせ、その存在を受け止めた。
その痛みごと、声に変える。
「──殺すぞ」
低く響く、声。
我ながら・・・自分の声とは思えない。
「……あと一歩でも近づいてみろ……俺が、お前を殺してやる」
槍を強く握りしめ、男の首筋を指し示すように突き出す。
間合いは遠い。槍は届かない。だが、何処を突くかは伝わった。
穂先が息を吐く度に揺れている。
背後の美咲も彩葉も身じろぎ一つしない。
やがて、立ち尽くしていた男が、ふらつくように膝を折った。
路肩の縁石に腰を落とし、頭を抱え込むように蹲る。
彩葉が小さく息を呑む音が夜気に溶けた。
しゃくり上げるような嗚咽が耳に届いた。
振り返れば美咲が《行くぞ》と合図した。
俺は頷き、男に背を向ける。
男を置き去りに歩き出す。
ちらり見れば、夜の闇に、あの人影がゆっくりと沈んでいく。
助ける価値も、連れて行く意味もない。
殺す価値すらない。
ただ、視界から消えればそれでいい。
それだけの存在。
それでも。
「……助けてくれ……」
その声は、届く。
何の価値もないその言葉。
「殺すぞ」と言った瞬間、絶望に染まった男の瞳。
これが罪だと分かっている。
助けられるなら助けたかった。
そう感じることだけが、俺に許された唯一の贖罪だった。




