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愛屍の臨界──それは「愛してる」が全ての理由になる世界  作者: 灯野ユヅル@GoodNovel契約作家
第3章 ゾンビの溢れた月夜を歩き、彩葉を助ける──そのための《さようなら》
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俺はまだ正気なのだろうか。この世界は正気で生きるには苦しすぎる。

境内は無人だった。


それだけでなく、妙に暗い。



月明かりはある。だが、背の高い木々や建物の影が濃く、電灯も最低限。


地面を黒い布で覆っているようだった。



先行する美咲が振り返り、小声で告げる。



「暗い、音に注意して」



その声がやけに耳に響いた。


足音を殺し、石畳を進む。



月明かりの中、かすかに虫の声がする。


草木が風に揺れ、枝がこすれ合う音。



その小さな自然音すら、心臓の鼓動を乱す。



境内を抜けると、墓地に入った。


整然と並ぶ石の列が月光に照らされ、無人の空間に静かな圧を落としている。



──もう、女の悲鳴は聞こえない。



たったいままで耳を裂いていた声が、ガボガボという音に変わり、唐突に消えた。


時間にすれば10分以上は叫び続けていただろう。



噛まれ続け、肉を引き裂かれ、意識を失えずに生き続けた。


その果てに訪れた沈黙。



想像した瞬間、胃の底が冷たくなる。



振り返りつつ、墓の列を一つずつ覗きながら進む。


石の影に何かが潜んでいてもおかしくはない。



夏の夜、墓。


肝試しの定番だが、今の俺にはこの空間の方が楽だった。



美咲は決して油断せず、穂先をわずかに揺らしながら歩を進める。



月光に白く光る墓石。


闇に沈む影。


その合間を縫うように、慎重に。



やがて寺と道の境界まで辿り着いた。


木の裏門を前に、美咲が足を止める。



耳を澄ませ、呼吸を整え、一拍置いてから振り返った。



「大通りを避けて、住宅街を歩く」



小声でも鋭く響く。



「この先は密集地帯。池袋駅も近い」



短く言い切ると、槍を握り直した。



「息を整えてから、行きましょう」



裏門の閂を内側から外す。


美咲が押すと錆びた金具が軋みを上げ、重い扉がわずかに開いた。



美咲が体を寄せ、隙間から外を覗き込む。


呼吸を止めて、数秒。



やがて、手首を小さく返し、俺を呼んだ。



音を立てぬよう、するりと門を抜ける。


街灯の明かりが肌に張り付き、夜の明るい街に戻ってくる。



俺も続き、住宅街──夜の明るさの中へ身を滑り込ませた。



美咲の後を追い、住宅街に分け入り、数分歩いた。



──ドスン



鈍い衝撃音が夜気を震わせた。


地面を揺らすほどの重さ。



電柱の陰に寄った美咲の側へ滑り込む。



耳の奥で反響する重たい音。


……何の音だ。



はっとして、後方、左右を警戒。


動いて止まったら警戒しろと美咲には何度も言われていた。



空気は静まり返っている。


だが、確かに聞いた。落下音。



美咲が顎をしゃくる。


前方を指差していた。



視線を追う。



マンションの高層階10階ほどか。


バルコニーに人影があった。



その細い影は、ためらいなく、何かを投げた。



息が詰まった。



小さな影が宙を舞い、闇に吸い込まれる。


次の瞬間、またドスン。


背骨を砕くような音が耳に残った。



美咲が僅かに目を細める。


その声は冷たく、けれど硬く揺れていた。



「……子どもを投げ落とした。流石に堪えるわね」



吐息を押し殺し、視線を切る。


すぐに言葉を続けた。



「この道を行くのは止めて、もう一本横の通りを行きましょう。まだ正気だとしても、きっと感染者よ」



道を戻る美咲の後を追う。


あの部屋を出てから、自分が正気なのか分からなくない。



息を吸っても、喉の奥に鉛の塊が張り付いたように苦しい。


肺が重く沈み、酸素が入ってこない。



暗がりに沈む美咲の背中だけが、唯一の道しるべだった。


月明かりに淡く縁取られ、闇と紙一重で消えそうな影。


その影を見失えば、俺も闇に飲まれてしまう。



……背後を振り返る。



視界にはもう何もない。



──ああああ



──ドスン



見えない。


だが、悲鳴と衝撃音は聞こえた。



それが最後の音になるはずだ。



きっとそうなるまでに多くの葛藤があった。


だが、深くは考えない。



槍を持つ手が震えていた。



脳裏には、飛び降りた影が藻掻きながら空を裂き、地面に叩きつけられる瞬間がありありと再生されていた。


まるで見たかのように、叫びと衝撃は、網膜の裏に鮮明に刻みつけられていた。

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