拷問は見聞きするだけで死にたくなるが、簡単に死ねないから辛いのだ。
誰にも会わないまま、一方通行の裏道を進んだ。
マンションの敷地を素通りし、突き当たった先は大通り。
不忍通りだ。
正面には黒々とした護国寺の影。
脇にある交番は無人で、入口の扉は開いたまま揺れていた。
まだ信号が動いているが、車は一台も動いていない。
乗り捨てられた車で道路が埋まっている。
あまりにも静かで、空気がひりつく。
その静寂を破るように、悲鳴が響いた。
左手からだ。
視線を向けると、女性が走っているのが見えた。
振り返りながら必死に足を動かしている。
歩道を追いかけてくるのはただ一人の男。
荒い息を吐きながら、人間のような、獣のような。
喰われるのか、襲われるのか。
美咲が素早く手を下げる。
しゃがめの合図。
俺は盾を地面に付け、マンションの脇道にしゃがみ込む。
息を殺し、耳だけを研ぎ澄ます。
後方左右の確認。
周囲に人影はない。
だが、いつ現れてもおかしくない。
警戒時は後方と左右。
それが俺の役目だ。
女が掴まれた。
肩を引き倒され、アスファルトに背を打ちつける鈍い音。
「いやっ、やめてっ! 助けっ──」
張り裂けそうな悲鳴が夜に響いた。
──追っているのは人間じゃなかったか。
悲痛な悲鳴に思わず表情が硬くなり、目を逸らしたくなる。
助けるはずもない。だが、だとしても。
美咲を見る。
「少し待ちましょう。距離はある。脅威じゃない。この声で他に集まってくるゾンビがいるかを確かめたい」
冷たい小声。
それでも耳に悲鳴が突き刺さる。
視線の先、詰まった大通りにポツポツ立ち上がる人影が駆け出してきた。
女向かって走っていく。
「痛いっ、いやだっ、やめっ……!」
群がる人影は覆いかぶさっていく。
遠いのだ。
肉を裂く音など聞こえない。
だが、女性の必死の叫びはすぐに潰れ、意味をなさない悲鳴に変わった。
最初は言葉だった。
助けて、痛い、やだ。
それが引き裂かれ、砕かれ、ただの叫音になっていく。
「ぎゃあっ──! あぁぁ──!」
喉を削るだけの音。
助けを乞うための言葉は消え、残ったのは苦痛の吐き出し。
もはや、そこに人間の意思はなかった。
女の両腕が、必死に地面を掻きむしっているのが見える。
5体目が加わり、群れは完全に彼女を覆った。
声は濁り、もはや人間のものではなかった。
「視界の外から誘引されている。聴覚は残っている。見て分かったけど、中々、死ねないのね。齧られても致命傷にはならない。失血死は望めない。……ゾンビに殺されるのは拷問ね。自殺するための刃物……持ってこればよかったわ」
恐怖から思考が走る。
人の口は、犬とは違う。咬むための機能を退化させている。咬み傷は浅く肉を抉るのみ。
失血死はないとすれば、顔や手先など露出部位を噛み千切られても死ぬことはない。
ゾンビが狙わない限り、太い血管を噛み千切るほど深く抉れるとは考えにくい。
じゃあ、どうやって死ぬんだ?
死因が分からない。
それは、死ぬまで長く苦しむと言うことを意味している。
「……群がられれば重さで窒息死できるかしら?気絶できれば楽だけど、痛みで意識は鮮明になりそう。もう、考えても仕方ないわね。行きましょう。大通りのゾンビが彼女に集まっている内に、寺に入るわよ」
美咲の声が冷たく背中を押す。
背後ではまだ女の絶叫が続いていた。
「ががあぁああああ──!」
もはや人間の声ではない断末魔。
耳を塞ぎたい衝動を押し殺し、前だけを向く。
駆け足で大通りを渡り、塀に手を掛け、体を引き上げた。
冷たい石肌に指が痛む。
俺たちは息を合わせ、塀を乗り越えた。
夜の護国寺境内へ。
闇と月光の間に身を沈める。
闇に溶けて進んでいく。
それでも、背中には意味をなさぬ悲鳴が未だに響いていた。




