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愛屍の臨界──それは「愛してる」が全ての理由になる世界  作者: 灯野ユヅル@GoodNovel契約作家
第3章 ゾンビの溢れた月夜を歩き、彩葉を助ける──そのための《さようなら》
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拷問は見聞きするだけで死にたくなるが、簡単に死ねないから辛いのだ。

誰にも会わないまま、一方通行の裏道を進んだ。


マンションの敷地を素通りし、突き当たった先は大通り。



不忍通りだ。



正面には黒々とした護国寺の影。


脇にある交番は無人で、入口の扉は開いたまま揺れていた。



まだ信号が動いているが、車は一台も動いていない。


乗り捨てられた車で道路が埋まっている。



あまりにも静かで、空気がひりつく。


その静寂を破るように、悲鳴が響いた。



左手からだ。



視線を向けると、女性が走っているのが見えた。


振り返りながら必死に足を動かしている。



歩道を追いかけてくるのはただ一人の男。


荒い息を吐きながら、人間のような、獣のような。


喰われるのか、襲われるのか。



美咲が素早く手を下げる。



しゃがめの合図。



俺は盾を地面に付け、マンションの脇道にしゃがみ込む。


息を殺し、耳だけを研ぎ澄ます。



後方左右の確認。


周囲に人影はない。



だが、いつ現れてもおかしくない。



警戒時は後方と左右。


それが俺の役目だ。



女が掴まれた。


肩を引き倒され、アスファルトに背を打ちつける鈍い音。



「いやっ、やめてっ! 助けっ──」



張り裂けそうな悲鳴が夜に響いた。



──追っているのは人間じゃなかったか。



悲痛な悲鳴に思わず表情が硬くなり、目を逸らしたくなる。


助けるはずもない。だが、だとしても。



美咲を見る。



「少し待ちましょう。距離はある。脅威じゃない。この声で他に集まってくるゾンビがいるかを確かめたい」



冷たい小声。


それでも耳に悲鳴が突き刺さる。



視線の先、詰まった大通りにポツポツ立ち上がる人影が駆け出してきた。


女向かって走っていく。



「痛いっ、いやだっ、やめっ……!」



群がる人影は覆いかぶさっていく。


遠いのだ。


肉を裂く音など聞こえない。



だが、女性の必死の叫びはすぐに潰れ、意味をなさない悲鳴に変わった。



最初は言葉だった。


助けて、痛い、やだ。


それが引き裂かれ、砕かれ、ただの叫音になっていく。



「ぎゃあっ──! あぁぁ──!」



喉を削るだけの音。


助けを乞うための言葉は消え、残ったのは苦痛の吐き出し。


もはや、そこに人間の意思はなかった。



女の両腕が、必死に地面を掻きむしっているのが見える。



5体目が加わり、群れは完全に彼女を覆った。


声は濁り、もはや人間のものではなかった。



「視界の外から誘引されている。聴覚は残っている。見て分かったけど、中々、死ねないのね。齧られても致命傷にはならない。失血死は望めない。……ゾンビに殺されるのは拷問ね。自殺するための刃物……持ってこればよかったわ」



恐怖から思考が走る。



人の口は、犬とは違う。咬むための機能を退化させている。咬み傷は浅く肉を抉るのみ。


失血死はないとすれば、顔や手先など露出部位を噛み千切られても死ぬことはない。


ゾンビが狙わない限り、太い血管を噛み千切るほど深く抉れるとは考えにくい。



じゃあ、どうやって死ぬんだ?


死因が分からない。


それは、死ぬまで長く苦しむと言うことを意味している。



「……群がられれば重さで窒息死できるかしら?気絶できれば楽だけど、痛みで意識は鮮明になりそう。もう、考えても仕方ないわね。行きましょう。大通りのゾンビが彼女に集まっている内に、寺に入るわよ」



美咲の声が冷たく背中を押す。


背後ではまだ女の絶叫が続いていた。



「ががあぁああああ──!」



もはや人間の声ではない断末魔。


耳を塞ぎたい衝動を押し殺し、前だけを向く。



駆け足で大通りを渡り、塀に手を掛け、体を引き上げた。


冷たい石肌に指が痛む。



俺たちは息を合わせ、塀を乗り越えた。


夜の護国寺境内へ。



闇と月光の間に身を沈める。


闇に溶けて進んでいく。



それでも、背中には意味をなさぬ悲鳴が未だに響いていた。

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