第3章 プロローグ──さようなら
第3章スタート!
『ゾンビの溢れた月夜を歩き、彩葉を助ける──そのための《さようなら》』
「あの……?」
その言葉が耳に入った瞬間、美咲は直ぐに振り向いて反応した。
盾を構え、槍の穂先をゆっくりと二人に突き付ける。
静かな呼吸。そこに迷いは一切ない。
女性の声が途切れ、空気が凍った。
*
部屋から出た俺たちは、階下のゴミ置き場に降り、金属製の蓋を一つ拾い上げた。
表面には傷が走り、どこか油の匂いが残っている。
構えてみる。
腕に伝わる重量は、意外にもしっくりと馴染んだ。
重すぎず、軽すぎず。
叩きつけられても逸らせる手応えがある。
アルミかと思いきや、スチール製らしかった。
叩けば、コンコンと硬質な音が響く。
20年以上使っているだろうに、現役なのはこの頑丈さ故なのだろう。
「……いい塩梅だな」
美咲も盾を構えている。
さっきイメージしていたまんまの姿。
俺たちの武装は完成した。
エレベーターホールに出る。
水の段ボールを抱えた男女と鉢合わせた。
互いに立ち止まり、視線が交差する。
緊張が高まる。明らかに警戒されている。
同じ階に住む夫婦だ。挨拶した記憶がある。
まだバイザーを降ろしていない俺を見て、向こうも気づいたらしい、少しほっとしたように声をかけてくる。
「……堂本さん?」
女が声を掛けてきた。
抱えた段ボールが腕の中で揺れる。
「何その格好……」
驚きと戸惑いが混じった声。
俺は短く息を吐き、頭を下げつつ、歩みを進める。
「すみませんが、先を急ぐので」
振り返らない。
「あの……?」
その言葉が耳に入った瞬間、美咲は直ぐに振り向いて反応した。
盾を構え、槍の穂先をゆっくりと二人に突き付ける。
静かな呼吸。そこに迷いは一切ない。
女性の声が途切れ、空気が凍った。
美咲は短く告げる。
「先を急いでいますので、さようなら」
後ろにじりりと下がり、動かない夫婦を見て、振り返り、進みだす。
一礼し、俺も美咲の背を追い、街へと出た。
夫婦はもう何も言わなかった。
美咲は見向きもしなかった。
──彼らとは、もう二度と会わない
ここで籠城したら、いずれ死ぬ。
だが、それを言うつもりは俺にもなかった。
俺たちは、部屋を捨て、今、人の社会を捨てたのだ。
前を行く美咲の背中をカバーする。
19時過ぎ、護国寺には、まばらに人の気配があった。
「ついてきて」
短い声を残し、美咲はエントランスから歩道へ出た。
壁沿いに身体を滑らせるように進む。
俺は後方と左右を警戒しつつ、その背に従った。
マンションの脇の角を曲がり、直ぐに大通りを外れる。
壁際に身を寄せた美咲が先を確認する。
さらに次の角を折れ、一方通行、一車線の裏道を覗いた。
無人。音もない。
心臓だけがドキドキと自己主張を続けていた。
薄暗い街灯の下、黒装束の美咲は闇に溶け、輪郭すら不確かに見えた。
まずは裏道を縫って、護国寺を目指す。
背後を振り返り、人がいないことを確認し、俺も美咲を追って闇に溶けた。




