第1話 夫より先に、鬼姑を攻略します
「この結婚は、家同士の約束だ。俺に、夫らしい優しさを期待しないでくれ」
結婚した日の夜、冷酷公爵はそう言った。
私はうなずいた。
「では、お義母様には期待してもよろしいでしょうか」
夫が、黙った。
灰色の目が、初めてちゃんと私へ向く。
「……母に?」
「はい。明日の朝、お茶に誘いたいのですが」
「それは、やめた方がいい」
私は、笑顔のまま訊いた。
「お好きなお菓子は、ご存じですか」
*
私の名前は、ニナ・エルストン。
二十二歳。
今日、セドリック・ローゼン公爵、二十九歳と結婚した。
私の実家は地方の小さな伯爵家で、この結婚には、公爵家と土地の取引をまとめる役目がある。
本人同士が、何度も会って決めた婚姻ではなかった。
私は、その取引についての説明を聞いた頃、前世を思い出した。
白い手袋と、きつい靴。
婚礼衣装を試着した時の、その組合せがきっかけだった。
前世の私は、百貨店の靴売り場で働いていた。
三十一歳で亡くなり、この世界に生まれ直した。
そして、この名前と公爵家に、覚えがあった。
読んだ小説の、序盤の政略妻。
夫に愛されず、鬼姑に叱られ続け、半年で離縁する女性。
その後、夫には、別の恋が訪れる。
私が覚えているのは、そこまでだ。
新しい恋の主人公にとって、最初の妻と姑は、邪魔な人たちだった。
でも、私は、邪魔な人として半年を過ごしたくなかった。
夫の恋を取り上げたいわけでもない。
まず、この家で、息ができる場所が欲しかった。
お義母様、アデラ・ローゼン。
五十三歳。
社交界では、泣く子も黙る鬼姑だという。
式の間、私の背中を一度叩いて、もっと顔を上げなさいと言った人。
その人が、控室で、一瞬だけ片足を浮かせたのを、私は見た。
古い靴を履いていた。
立派な飾りに比べて、足に合っていないように見えた。
怖い人と、足が痛い人は、見た目だけでは区別しにくい。
売り場で、私はそれを何度も見てきた。
「母に近づけば、俺が喜ぶと考えたのか」
夫の言葉で、部屋へ戻った。
「いいえ。私が、お話ししてみたいのです」
「厳しい人だ」
「今日、背中を叩かれました」
彼の顔が、わずかに変わる。
「すまない」
「でも、お顔を上げれば、刺繍がきれいに見えると。私の服を、ちゃんと見ていらしたんです」
夫は黙った。
私は、昼間の控室を思い返した。
お義母様は、私の襟の裏まで整えてくれた。
小説には、そんなことは書いていなかった。
「半年は、互いを知る時間にしたい」
セドリック様が、机の上に紙を置いた。
暮らしの取り決め。
私の持参金は私が管理する。
手紙と外出を、夫の許可にかからせない。
寝室は別。
半年後、望むなら離縁の手続きへ進める。
「俺との暮らしが無理なら、離れていい。君の実家との取引を、理由に止めることはしない」
その約束に、私は安心した。
でも、少し傷ついた。
離れていいと、出会ってすぐ言われるのは、歓迎とは違う。
「分かりました。私も、まず、お互いを知ります」
自分の名前で、署名する。
半年で離縁する未来が、机の上にあった。
夫が立った。
扉の前で、一度だけ振り返る。
「母が好きなのは、胡桃の菓子だ」
私は、顔を上げた。
「ありがとうございます」
彼は、うなずいた。
最初の夫婦の共同作業は、姑のお菓子を選ぶことになった。




