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託されたもの

平成二十三年、九月。


朝。


イズミマチ本社。


取締役会議室。


北沢、福井、習志野が席についていた。


机の上には、村野證券から届いた公開買付けの結果が置かれている。


福井が資料を開いた。


一瞬、目を落とす。


「……出ました」


北沢が顔を上げる。


「どうだった」


福井は静かに答えた。


「クラウザーが、議決権の過半数を取得しました」


誰も言葉を返さなかった。


福井が資料を閉じる。


北沢は椅子に深く背を預けた。


しばらく黙っていた。


やがて。


「そうか」


それだけだった。


福井が北沢を見る。


「社長……」


北沢は窓の外へ目を向けた。


「株主が変わった」


「はい」


「これからは、新しい体制になる」


習志野が黙って頷く。


北沢は静かに立ち上がった。


「俺も、そのつもりだ」


福井が何か言おうとした。


だが、北沢は手を上げた。


「会社までなくなるわけじゃない」


そう言って、北沢は会議室を出た。


社長の椅子を、一度離れた。




同じ頃。


イズミマチ相談役室。


信成は一人、窓の外を見ていた。


机の上には、村野證券からの結果資料。


クラウザー。


筆頭株主。


そして、議決権の過半数。


信成はしばらく、その文字を見つめていた。


やがて受話器を取る。


「クラウザーホールディングスを」


秘書が電話をつなぐ。


「会長の窪さんに、アポイントを取りたい」


しばらくして返事が来た。


「……今日でいい」


信成は電話を切った。


窪幸一郎と、直接話す。


それが最後になるかもしれない。




ダブルタワービル。


クラウザーホールディングス。


会長室。


窪幸一郎は窓際に立っていた。


「伊東さんが?」


秘書が頷く。


「はい」


窪は少しだけ考えた。


「分かった。会う」


そして。


「康則も呼んでくれ」


午後。


扉が開いた。


伊東信成が入ってくる。


その後ろから康則も入った。


窪は立ち上がった。


「信成さん」


「窪君」


二人は向かい合った。


康則は少し離れた場所に座る。


窪が言った。


「今日は、何の話で?」


信成はすぐには答えなかった。


部屋を見回した。


壁に飾られたクラウザーの歴史。


その中に、創業者。


窪慎太郎の写真があった。


信成は、その写真を見た。


「……懐かしいな」


窪が見る。


「祖父を知っている?」


「知っているどころじゃない」


信成は小さく笑った。


「私の父、隆がな」


一度、言葉を切る。


「窪慎太郎さんを、神様のように崇拝していた」


康則が顔を上げた。


信成は写真を見たまま続ける。


「イズミマチの前身は、泉町精工だ」


窪は黙って聞いている。


「泉町精工は、クラウザーミシンのミシン針を作る仕事を、クラウザーからもらったところから始まった」


「……」


「父は、その仕事を本当に大切にしていた」


信成は笑った。


「クラウザーから仕事をもらえる。それだけで、父には大変な誇りだった」


窪は何も言わない。


「父は、いつも言っていた」


信成はゆっくりと写真を見上げた。


「窪慎太郎さんは、凄い人だ」


「日本一の会社を作った人だ」


「いつか、あの人のところまで行きたい」


窪の表情が、わずかに変わった。


信成は続ける。


「伊東家はな」


少し笑った。


「窪家には頭が上がらないんだ」


康則が黙って叔父を見る。


「子供の頃から、ずっとそう思っていた」


「窪家に足を向けて眠れない」


信成はそう言って、少しだけ笑った。


「大げさじゃない。本当にそう思っていた」


窪は静かに椅子へ座った。


信成も座る。


「私が会社を大きくしたかったのも」


「上場したかったのも」


一拍。


「結局は、クラウザーに近づきたかったからなのかもしれない」


部屋が静まり返る。


「売上も」


「社員数も」


「会社の規模も」


信成は窪を見る。


「クラウザーの背中を、ずっと追いかけていた」


窪は黙っている。


信成は苦笑した。


「だから皮肉なものだな」


「今、そのクラウザーに会社を取られる」


窪が静かに口を開いた。


「取るつもりで買ったわけじゃない」


信成は窪を見る。


「分かっている」


そして。


「だから、今日ここへ来た」


康則が叔父を見る。


信成は康則に視線を向けた。


「康則」


「はい」


「お前の父親はな」


「最後まで、イズミマチのことを気にしていた」


康則は黙って聞いていた。


信成は続ける。


「兄貴……隆則が引退した時、自分の持っていた株を二つに分けた」


「半分を私に」


「残りを、お前に」


康則は目を伏せた。


「当時のお前は、イズミマチなんか見ていなかった」


「クラウザー観光で働いていた」


「それでも兄貴は、お前に株を渡した」


信成の声が少し低くなる。


「そして最後に、お前に言った」


康則は顔を上げた。


「……イズミマチを、守ってくれ」


その言葉が、部屋に落ちた。


康則の胸の奥で、病室の記憶が蘇る。


痩せた手。


かすれた声。


握られた温もり。


――イズミマチを……守ってくれ。


あの言葉を、康則は何度も思い返してきた。


守る。


何を、どう守るのか。


最初は分からなかった。


伊東家のものとして残すのか。


それとも、会社そのものを残すのか。


信成は、伊東家のものとして守ろうとした。


最後まで抵抗した。


その執念は本物だった。


だが、康則は違う道を選んだ。


クラウザーの力を借りて、イズミマチを変える道を。


正しいのかどうか、今でも完全には分からない。


ただ、一つだけ確かだった。


このままでは、イズミマチは徐々に力を失っていく。


それでは、守れない。


父が願った「守る」とは、そういうことではなかったはずだ。


信成は目を閉じた。


「私は私で、兄貴から託されたものを守ろうとした」


「だから最後まで戦った」


「タキヤにも頼んだ」


「新株発行も考えた」


「CBまで考えた」


そして。


「それでも、負けた」


信成は窪を見る。


「だがな」


声に、力が戻った。


「お前がイズミマチを変えようとしていることを、私はもう止めない」


康則が信成を見る。


「守るというのは、会社をそのまま残すことだけじゃない」


信成は静かに言った。


「兄貴が、お前に託した意味を……今になって少し分かった気がする」


窪はしばらく黙っていた。


株式を過半数取った。


それでイズミマチを手に入れたとは、窪は思っていなかった。


株は買える。


会社も買える。


だが、人の心までは買えない。


今日までクラウザーを敵として見ていた社員もいる。


明日から、そのクラウザーが親会社になる。


その重さを、窪は分かっていた。


窪は信成を見る。


「信成さん」


「何だ」


「イズミマチは残す」


「……ああ」


「人も、技術も、顧客も」


一拍。


「そして、もう一度伸ばす」


信成は窪を見つめた。


その目に、かつて父が見上げていた窪慎太郎の姿が重なった。


「……窪君」


「はい」


「やっぱり、窪家には頭が上がらんな」


窪が初めて、少し笑った。


「そんなこと言わないでください」


「いや」


信成も笑った。


「これは伊東家の昔からの習わしだ」


康則も、わずかに笑った。


信成は立ち上がった。


「頼む」


窪も立つ。


「はい」


「イズミマチを」


窪は静かに頷いた。


「任せてください」


信成は深く頭を下げた。


そして部屋を出ていった。


扉が閉まる。


しばらく、誰も話さなかった。


康則が窓の外を見た。


「親父はどう思うだろう」


窪が見る。


「どうした」


「これで、いいのかな」


窪はすぐには答えなかった。


やがて。


「……分からない」


康則が顔を上げた。


「会長が?」


「俺だって、全部分かっているわけじゃない」


窪は窓の外へ目を向けた。


那古野の街が広がっている。


「ただ、一つだけ分かってる」


「何?」


窪は静かに言った。


「俺たちは、イズミマチを買ったんじゃない」


一拍。


「預かったんだ」


康則は黙った。


その言葉の重さを、噛みしめるように。


窪は続けた。


「だから、これからだ」


「これから……」


「ああ」


「会社を立て直す」


「人を育てる」


「技術を残す」


そして。


「もう一度、客に選ばれる会社にする」


康則は窪を見た。


窪の目に、勝った男の高揚はなかった。


あるのは、これから背負うものを見据える目だった。


康則は静かに頷いた。


胸の奥で、父の声が響く。


――イズミマチを、守ってくれ。


守る方法は、変わった。


だが。


その想いだけは、受け継いでいた。


その日。


イズミマチは、創業以来初めて、伊東家の手を離れた。


だが。


会社は、まだ生きていた。


そして翌日。


イズミマチは、新しい時代を迎える。


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