第一話 腰が死んだ
「……またか」
目が覚めた瞬間、声に出すと、腰の奥がじんと響いた。
薄いカーテンの向こうで、鳥が短く鳴いている。
窓の外からは、潮の匂いがした。
東京の朝には混じらない匂いだった。
湿った風と、遠くで砕ける波の音。
ここは宮古島だ。
観光PR用の短い映像を撮るため、俺は一人で島に入った。
ディレクターも、合流は明日。
俺だけが先に下見を任された。
理由は簡単だ。
俺がいちばん暇に見えたからだよな。
実際には、暇じゃない。
会社に戻れば仕事は山積みで、スマホの未読も見なかったことにしたい数だった。
なのに俺は、昨日の夕方から、そのどれにもまともに返事をしていなかった。
ただ、海を見ていた。
宮古島ブルー。
パンフレットにも、観光サイトにも、企画書にも、何度も出てきた言葉だ。
正直、使い古された売り文句だと思っていた。
けれど、橋の上から見えた海は、そんな言葉よりずっと静かで。
青と呼ぶには、光を抱きすぎていた。
緑と呼ぶには、澄みすぎていた。
どこまでも明るいのに、底が見えない。
見ているだけで、自分の中のよけいな音が吸われていくようだった。
ただ、海を、見ていた。
――という感動的な出だしとは裏腹に。
俺の宮古島ウィークは、朝から打ち砕かれていた。
腰痛に。
「くそっ……」
四十二歳。
長年の座り仕事で、俺の腰はすっかり職業病になっていた。
起き上がろうとすると、腰の奥で誰かが小さな鐘を鳴らす。
ごーん。
本日は終了です。
いや、始まってもいない。
俺はベッドの上でしばらく固まり、なんとか体を横に向けた。
洗面台まで数歩歩くだけで、額に汗がにじむ。
鏡の中の自分は、思ったよりくたびれていた。
無精髭。
寝癖。目の下の影。
宮古島ブルーに似合わない男だな。
冷蔵庫を開けると、昨日コンビニで買った牛乳が一本入っていた。
なぜ買ったのか、自分でもよくわからない。
普段は、牛乳なんてほとんど飲まないし。
コーヒーに少し入れるくらいだ。
ただ昨夜、パッケージに描かれた牛の絵を見たとき、ふいに懐かしくなった。
子どものころ、俺は牛乳が苦手だった。
学校給食で出る牛乳を、いつも最後まで残していた。
ぬるくなると、ますます飲めなかった。
で、担任にはよく言われたな。
「骨が弱くなるぞ」
先生。
四十二歳の俺は今、骨より腰が弱いです。
そんな俺に、祖母はよく牛乳寒天を作ってくれた。
白くて、ぷるんとしていて、やさしい甘さの。
牛乳の匂いも、少しだけやわらいだ気がしていた。
祖母は海が好きな人だった。
テレビに南の島が映るたびに、
「いつか宮古島に行ってみたいねえ」
と言っていた。
そのたびに俺は、
「行けばいいじゃん」
と雑に返した。
祖母は笑って、いつも同じことを言った。
「腰が痛くてねえ。島までは、なかなか」
今なら、少しわかるな。
行きたいと思うことと、実際に体を動かせることの間には、見えない距離がある。
それは飛行機の距離より、ずっと遠いんだ。
「ばあちゃん」
口に出してみると、なんだか腰が軽くなるような――。
ならなかった。
痛いものは痛い。
俺は牛乳のキャップを開け、グラスに注いだ。
白い液体が、とぽとぽと音を立てる。
海の青を撮りに来た朝に、真っ白な牛乳を飲む。
妙な組み合わせだと思った。
一口飲む。
冷たさが喉を通り、胃に落ちた。
思ったより甘い。
思ったより濃い。
そして、思ったよりむせた。
「げほっ」
宮古島初日の朝。
俺は絶景より先に、腰痛と牛乳に負けていた。




