第38話 無知
恍惚とでも言うべき歪な笑みを浮かべていたレオポルドだが、さしたる間もおかずにいつもの爽やかな笑顔に戻った。
それにより、私の中で蠢いていた恐怖心は鳴りを潜める。
こうしてレオポルドの態度が変わる度に、私自身の心境もコロコロ変わるのだが、私はそれが嫌で仕方ない。
「それでね――」
レオポルドは何事もなかったのように会話の続きを始めた。
嘆いていても仕方のない私は、気を取り直して彼の話に耳を傾ける。
「不正取引の部分に関しては大量の証拠があるんだ。それは我が領の代官と纏めて法的に裁くつもり。一方で、原材料を一切グロス伯爵家に卸さないなど、経済制裁を加える……というか、既に出荷を停止している」
「グロス伯爵領は、自領で原材料を用意できないのですか?」
「できないね。元々、僕の曽祖父が当時のグロス伯爵に縫製業を教えて、我が領から原材料を仕入れる形が出来上がったから。そして今では、縫製業がグロス領の収入ほぼすべてになるくらい、大きく成長しているんだ」
私の過去の知識に、生産を主とする領と加工を主とする領が手を組み、互いに好結果を得る、というものがある。
高級娼婦であった私は、その橋渡し的なこともしていたようだ。
「そうなると、グロス伯爵領は収入を得られなくなりますね」
「そのとおり。馬鹿な領主のせいで領民が困ってしまうことになるけれど、少しだけ辛抱してもらいたいね」
「レオポルド様は、他領の領民のことまで心配なされているのですか?」
「同じ王国民だからね」
随分とお人好しだな、などと思ってしまう。
「それなら、なぜグロス伯爵を追い詰めるようなことをなさるのですか?」
「ブラックウェル公爵領の改善をしなければならない、というのが一番の目的なのだけれど、グロス伯爵以外にも多くの領主が関わっている問題だからね」
「追い詰めるかどうかは別にして、他領も裁きの対象にせざるを得ないのですね。ですが、グロス家だけを追い詰める理由にはなっていないかと」
「それはね……」
レオポルドの大地を彩る新緑を思わせる深碧の瞳が、何故か私の胸を凝視している。しかも言葉を言いよどむと共に、口角を持ち上げ、ニヤリとした悪い笑みを浮かべて。
「先日のズリエルにかなりイラッとしてしまってね。ついでと言う訳でもないけれど、グロス家にはお灸を据えておこうと思ったんだ」
「…………」
あっ! そういえば先日の出来事で、ズリエルが私の胸をどうこう言っていたわね。ひょっとして、それに対する報復なのかしら?
もしそれが、レオポルド様の私に対する執着心なのだとしたら、やはりこの方は危険なのでは……。
いつもの悪い病気が始まり、私はレオポルドがまた怖くなってしまう。
「それに関連して、シモンズ男爵家とも改めて話し合いをするよ」
「……そうですか」
この機に、もう一度レオポルド様にお願いをして、私が実家に戻ってドミニカを彼の婚約者に……そう考えたところでレオポルドが口をひらいた。
「マリアンヌをシモンズ家に戻して、義妹を僕の婚約者にする、なんてことは絶対ないからね」
私の考えを読んだのではないか、そう思えるくらい絶妙なタイミングで釘を刺されてしまった。
「話し合いは明日だよ」
「…………」
随分と手回しがいいのね。
はぁー、投げやりになりたくはないのだけれど、今は下手なことを考えるより、大人しくレオポルド様に従うしかないようね。
ずしりと重い気分のまま、その後もレオポルドの話を聞いていたのだが、内容が殆ど頭に入らなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「公爵、ドミニカを娶る準備は整いましたの?」
レオポルドと再びシモンズ男爵邸にやってくると、応接室で待ち構えていた継母は、挨拶すらなくいきなり訳の分からないことを言い出した。
「シモンズ男爵未亡人、先日の戯言なら聞かなかったことにしておこうと思う」
いつもの軽い調子ではないレオポルドは、私に対する口調ではなく、公爵然とした雰囲気と言葉遣いをしている。
「戯言ではございません。あたくしは事実を述べただけですわ」
「貴女が事実だと思っていようと、世間はそう思っていない。――先日の王宮での夜会、そこで私はマリアンヌが婚約者だと宣言したのですよ。しかも陛下がそれをお認めになってくださった。それを覆せと言うのですか?」
「そ、それは……」
いくら常識知らずな継母でも、一国の王が認めたことに対し、異を唱えられないことは理解しているようで、大きな体を縮こませてもごもごしてしまった。
「それと、契約書もありますよ」
「け、契約書などあたくしは知りませんわ」
私が公爵家へ向かう前、契約書にはしっかりとサインしろと念を押していたにも拘らず、継母は知らないと言い出した。
「異な事を仰る。――婚約者を募った封書、その中の書状に『当家にて契約のサインをいただく』と書いておいたはずです。しかも、『サインは一家の総意である』と記述してあったはず。そしてマリアンヌがサインをしました。ならばそれは、シモンズ男爵家の総意であるはずですが?」
「し、知りませんわ。それに、マリアンヌが勝手にサインしたのだから、そのような物は無効ですわ」
継母はあくまでとぼけるつもりのようだ。
「マリアンヌが持参した招待カードは、書状と同封していた物です。招待カードだけが届くはずはありません。そして、貴女が書状の文言を見落としていたのかどうか存じませんが、こちらはシモンズ家にお送りした書状を複写した物があります。いくら貴女が要らぬ存ぜぬと言ったところで、マリアンヌがサインした契約書が公的証書である以上、契約は有効なのですよ。――なんでしたら、裁判でも起こしますか?」
「さ、裁判?! ……いえ、そのようなことは、ふ、不要でございます」
裁判と聞いた継母は、やはり縮こまってしまう。
「そうそう、契約内容には資金融資についてもありましたが、一向に返済が無いのは何故ですか?」
「マリアンヌが勝手にサインをした契約書など、あたくしは見ておりませんわ」
「お送りした書状に、契約書に記載される事項が書いてあったはずですよ?」
「…………! あれは資金援助であり、公爵のご厚意で頂いたのですから、返す必要はないはずですわ」
継母はとぼけるのは無理だと感じたのだろう、今度は強気で突っぱねるつもりのようだ。
そして私は、シモンズ家に届いた書状も、実際にブラックウェル公爵家でサインをした契約書も、どちらの文面も目にしていない。だからどちらの言い分が正しいのか不明だ。――継母が難癖を付けているであろうことは想像できるが。
「困りましたね。男爵未亡人の仰るとおり、こちらは厚意でお貸ししたというのに、返す必要がないと言われてしまうとは……。契約書にサインもあるんですけどね」
「ですからそれは、マリアンヌが勝手に書いただけですわ。返済ならマリアンヌにさせてくださいまし」
どうあっても継母は私に押してけたいようだ。
「男爵夫人のお言葉どおりであれば、マリアンヌはシモンズ家の使いの者でしたよね? 契約を結ぶ場、それも婚姻を主題として金銭のやり取りも発生する場に、使いの者を一人で寄越すのはおかしくないですか?」
無知な継母を相手に、レオポルドは公爵らしく貴族の知識で攻めている。
鞭を使うのが得意なだけに、継母は無知でした……などと考えて現実逃避をしたくなるくらい、今のレオポルドは恐ろしい。
このような理的な攻めに、物理的な攻撃が加われば、私は何もできずにされるがままだろう。それこそ、正気を保つことすら無理に違いない……。
私は現状に関係ないことを考え、一人で震えてしまった。




