第34話 幸せって……
「夜会ぶりだな」
「は、はい……」
派手な山吹色の短髪男は、いつもなら不機嫌そうに眉根を寄せて睨んでくるはず。だが今は、下卑た笑みを浮かべて話しかけてきた。
そして鉛色の瞳は、どこか楽しそうに鈍く輝いている。
「そんな所に突っ立ってないで、もっとこっちにこい」
「……はい」
入り口で立ち止まってしまった私は、扉を締めて重い足を引き摺るように、一歩、また一歩とゆっくりズリエルに近付く。
だがここは、使用人が控えるための部屋。彼との距離はあっという間になくなってしまった。
「夜会ではよくも恥をかかせてくれたなっ」
バシッと頬を叩かれた。
痛みと驚きで、私の頭は混乱してしまう。
大柄で筋肉質で脳まで筋肉な馬鹿男であるズリエルは、私に冷たい態度をとっても暴力だけは振るわなかった。夜会で掴まれた腕は痛かったが、あれは彼にとって暴力ではない。
そう考えると、今の平手打ちはズリエルから受けた初めての暴力。
継母から受ける鞭とは違う痛みだが、体が痛みを感じてしまった以上、私の体は痛みに支配されて恐怖心が増幅し、もはや何がなんだか分からなくなっていた。
すると、ズリエルはおもむろに私の胸ぐらを掴み、グイッと力を入れてそのまま私を押し倒す。
躊躇なく倒された私は咄嗟の受け身がとれるはずもなく、したたかに後頭部を床に叩き付けられた。
その衝撃はかなりのもので、クラクラしつつも意識が残っているのが不思議なくらいだ。
直後、腰骨辺りにずしりとした重みを感じる。
きっと、ズリエルが私に伸し掛かってきたのだろう。
辛うじて繋がっている意識は、自分でも驚くほど冷静だった。
「地味でなんの取り柄もない女だが、お前、胸だけは上物だからなっ」
三下のチンピラが言いそうな台詞ね、などと思ってしまう。
なぜそんなことを思ったのかと不思議に思うと、どうやら前々世の記憶が思い出されたようだ。
「…………」
前々世の私は、権力、金、腕力に物を言わせ、こんな感じで女性を蹂躙していたのね。やはり碌でもない人間だわ。
でも当然よね。鞭で女性を叩いて、恐怖に慄く姿を見ることに愉悦を感じるような人間ですものね。
今まさに、ドレスの胸元を引きちぎられた私だが、何だかすべてがどうでもよくなっていた。
「…………」
なんだろうこの感覚…………ああ、前世で孤児だった頃に、こんな感じのことがあったのね。
そうか、私……今から犯されるのだわ。
今度は前世の記憶だ。
次々と思い出される禄でもない記憶。
そして今、記憶の中の自分のように犯されそうになっているというのに、どこか他人事のように思え、抵抗する気などさらさら起きない。
だがおかしい。
記憶の中の私はひどく乱暴に扱われ、苦悶の表情で叫び声を上げているというのに、今の私には痛みが一切襲ってこない。
もはや痛覚まで麻痺してしまったのだろうか? と、やはり他人事のように思ってしまう。
「…………」
ああ、私はこれからこの男に虐げられ、物のように扱われるのね。
それとも、もう殺されてしまうのかしら?
まだ結婚していないのだから、殺されるのはその後ね。
徐々に思考が今世のものになってくる。
だが視界はぼやけており、耳も音を拾っていない。
ただただ自分の中だけで、私の時間は動いている。
「…………」
こんなことなら、レオポルド様に愛を教えてくれと、言葉にして素直に頼んでみればよかったわ。
結局、今世の私も愛を知らないまま一生を終えるのね。少しだけ、悲しいわ。
あーあ、公爵家の皆となら、幸せな生活を送れたかもしれないのに。
でも幸せって……、いったい何なのかしらね?
「…………ヌ!……ン……ヌ! …………」
あら? 何だか雑音が……。
「……お……リ……ンヌ!」
声?
「マリアンヌ! おい、マリアンヌ!」
レオポルド様?!
「……――ん……」
「マリアンヌ! 気付いたのか?」
「……レオ……ポル、ド……さま……」
「良かった、マリアンヌ」
まだ視界は覚束ないが先程よりはマシになっており、金色の輝きが目に入った。
ぼやけているが、大地を彩る新緑を思わせる深碧も二つ見える。
はっきり見えていなくとも、この二色が感じられたのだ、レオポルドで間違いないだろう。
「旦那様、ブランケットをお持ちました」
「よこせノーラ!」
レオポルド様らしくない言葉遣いだわ、などと呑気に思っていると、ほんのり体が暖かくなった気がした。
更に、ガッと強い力で全身が覆われ、少しだけ苦しさを感じてしまう。
「……くる、しい……です……」
「ハッ! すまんマリアンヌ」
だがその苦しさが逆に良かったのだろう、かなり意識が戻ってきた。
「ここは、実家、ですよ、ね?」
「ああそうだよ」
「どうして、レオポルド、様が、ここに?」
「それは――」
「ぬあぁー、なんなんだお前は!」
少し離れた場所から、ズリエルと思しき声が聞こえた。が、その声が近付いてくることはない。
声の聞こえた方へ顔を向けると、数人の人影が見えた気がする。
「あの男は護衛達に取り押さえさせた。だから安心して」
「はい、ありがとう、ございます」
「マリアンヌ、体を動かしても大丈夫そうかい?」
「たぶん、大丈夫、です」
そうか、というレオポルドの声が聞える否や、私の体が一瞬だけふわっとしたかと思うと、力強くも温かい何かに包まれた。
どうやら、レオポルドが私を抱きかかえて立ち上がったらしい。
「帰ろう、マリアンヌ」
「はい……」
「ちょっ、ちょっとお待ちくださいませ!」
レオポルドが動き出すと嫌な声が聞こえ、私の体が瞬時に硬直してしまう。
「大丈夫だよマリアンヌ」
「…………」
「シモンズ男爵未亡人、突然大声を出さないでいただきたい」
「申し訳ございません公爵。ですが、どうしてもお話を聞いていただきたいのです」
継母の出す猫なで声が私に話しかけるときと全然違い、違和感があってとても気持ち悪い。
「実はこちらの不手際がありまして」
「この惨状のことかい?」
ようやく視界の戻った私の目に、見上げる形でレオポルドの顔がよく見える。
彼は珍しく険しい表情で、剣呑な雰囲気を纏っていた。
「そうではございません。本当の公爵の婚約者は、このドミニカです。マリアンヌはそのことを伝えに行ったただの使いの者。しかしマリアンヌから連絡がなく、こちらは訂正もできず困っていたのですわ。――ほらドミニカ、婚約者にご挨拶を」
「……は、はじめまして公爵。ドミニカ・シモンズと、も、申します」
どうやらドミニカもいたらしく、継母の戯言の後に挨拶などしている。
レオポルドにお姫様抱っこをされている私は、彼の右手で頭を抱えられており、継母とドミニカの方を向けない。
きっとドミニカは、緊張した顔をしているのだろう。私にだけは強気だが、本来のドミニカは内気なのだから。
「そういうのは要らない」
要らないのは挨拶なのか、それともドミニカなのか分からない。
とにかくレオポルドは、継母の戯言に耳を貸す気などなさそうだ。
「後日改めて話し合いの場を設ける。今日のところはこれで帰らせてもらうよ」
それだけ言うと、レオポルドは歩き出した。
継母はまだ何か言っているが、レオポルドは私の耳を塞ぐように頭を抱え直し、不要な雑音が聞こえないようにしてくれた。
レオポルドに抱きかかえられた私は、馬車に乗っても抱えられたままだ。
しかし男爵邸を出た安堵感からか、私は何か言うより先に意識を失ってしまったのだった。




