第10話 いったい誰?!
「さ、さすがは公爵邸ね、凄く立派だわ」
ブラックウェル公爵邸に向かった私は、聳え立つ豪邸から放たれる威圧感に圧倒され、思わず足が竦んでしまう。
それでも足を踏み出し、持たされたカードを守衛に見せ、自分はマリアンヌ・シモンズ男爵令嬢だと伝える。しばらく待たされた後、私は敷地内に案内された。
人間の背丈の倍はあろうかという重厚な扉が開かれると、如何にも執事といった感じの初老男性が佇んでいる。彼は私を視界に捉えたのだろう、即座に見事な執事の礼をしてきた。
「ようこそおいでくださいました、シモンズ男爵御令嬢」
「…………あっ、よ、よろしくお願いいたします」
最近は貴族扱いされないどころか、すっかり召使いのようになっていた私は、執事があまりにも慇懃に迎えてくれたため、思わず挙動不審になってしまい、額が膝に付くほど腰を折って返答してしまった。――淑女としてありえぬ行動に、私は恥ずかしくなってしまう。
初老執事は、そんな私が頭を上げたのを待ってくれたのだろう、絶妙なタイミングで「こちらへどうぞ」と声をかけてくれた。
通されたのは、なんとも立派な応接室だ。
私は継母に命令され、学院時代にご令嬢のお友達を作ってお茶会にお呼ばれし、他貴族の邸に行ったことが何度もある。シモンズ家に比べれば、どこの邸の応接室も素晴らしかった。
だがそれでも、この応接室に勝る邸などないと断言できる。
さすがは公爵家、正に別格だ。
「こちらにおかけになって、少々お待ちくださいませ」
「あ、はい……」
キョロキョロ部屋を見回す私に苦言を呈するでもなく、やはり慇懃にソファーを勧めてきた初老執事。彼は恐ろしいまでの手際の良さで紅茶を淹れ、茶菓子まで用意し、音もなく部屋を出ていってしまった。
私はというと、すっかり淑女らしさを失ってしまった自分自身に恥ずかしくなり、浅くかけたソファーでしょぼんと俯いてしまう。
暫く俯いていた私だが、いつまでも落ち込んでいても仕方ないと思い至る。
本来、今日は正式に会うためのアポを取りに来たはずだった。だがそれが、なぜかこのまま面会することになってしまっのだ。
ならば、悠長に気落ちしている余裕などない。
私はゆっくり瞳を閉じ、軽くふぅーっと息を吐き、顔を上げて目を見開いた。
と同時に――
――ガチャリ
気を取り直した私の耳に、豪著な扉が開く音が届いた。瞬間、ピクリと私の体が反応する。そして咄嗟に立ち上がり、音のした方へと体を向けた。
だが顔は敢えて俯かせている。公爵家とは王家に連なるお家柄。ならば、私のような男爵令嬢風情が直視して良いはずがない。
だから私は、そのままソファーを離れてなるべく優雅に見えるよう、スカートを軽く摘んで膝を折り、淑女らしく精一杯のカーテシーをした。
”呪われた公爵家”の当主である老公爵の足音が、徐々に近付いてくる。
私を”買った”人物だ。
その人物がどのような容姿、性格をしているのか詳しく知らない。だが普通に考えて、まともなわけがないことは理解している。
そう思ってしまったからだろう、私の体は無意識に震えてしまった。
「君がシモンズ男爵家のマリアンヌ嬢かい?」
「…………あ、はい。マリアンヌ・シモンズでございます。よ、よろしくお願いいたします」
足音が目の前でピタリと止まると、誰何する声をかけられてしまう。
だがその声は、予想していた年老いたものとは程遠く、とても若々しかったため、私はすぐに反応ができなかった。
しかもそのくせ、体の方は勝手に反応し、腰をキッチリ折る平民のようなお辞儀をしてしまったのだ。
「――――?」
ど、どういうこと?
そして私の頭の中は、今世で最大級の混乱を起こしていた。
今回の面会は急遽とはいえ、私を後妻に迎えるためのものだ。であれば、夫となるべき老公爵が現れるはず。だが聞いた限り、とても老人とは思えぬ張りのある声だった。そして、先程の初老執事の声とも違う。
声の主はいったい誰?!
「フッ――」
混乱する私の耳に、鼻で笑ったような音が届いた。
それにより私の思考が停止する。――が、即座に再起動した。『今の状況は拙い』と私の本能が働いた結果だ。
だがどうすればいいのか皆目見当もつかない。
そんな私を他所に、正面にいるであろう声の主は動き出す。
「とりあえず頭を上げて、そこにかけてくれるかな?」
「…………は、はい。申し訳――」
「ああ、そういうのはいいから、ひとまず座ってくれるかい」
先程は嘲笑するような雰囲気を感じさせた声の主だが、一転して落ち着いた優しい言葉をかけてきた。
恐縮した私は声を追って体の向きを変え、より深く頭を下げてしまう。だが彼は私の声を遮ると、少し呆れたような、それでいて困ったような声で、再度座れと言ってきたのだ。
頭を下げるのが当然になってしまった、この情けない自分の体が恨めしい。そんなことを思いつつ、いつまでも相手の意にそぐわぬ行動をしていてはいけない、と私は気付く。そしてようやく頭を上げる。それでも視線はまだ伏せたままだ。
すると、ローテーブルを挟んだ対面に移動していた人物が、ソファーにすっと腰を下ろす。
私は俯いたまま元の場所に戻り、ゆっくりと腰を下ろした。
「この書状を持ってこの邸を訪れたということは、君は公爵家に嫁ぐ意思がある。そう解釈してかまいのかな?」
正面に座った人物は、貴族特有の長い挨拶をすることもなく、いきなり本題を口にした。
私は自分が対面している――といってもまだ顔を見ていないが、その相手の言葉に虚を衝かれてしまう。だがこれ以上の失態があってはならぬと、私は急いで首を縦に振り、慌てて口を開く。
「そ、そうでございます!」
多少声が上ずってしまったが大丈夫、問題ない。そう自分を宥めるも、正面からボソリと聞こえた「そんなに公爵婦人の座が欲しいのか……」という声に、私は思わず顔を顰めてしまう。
「――――っ!」
やってしまった。
粗相のないよう即座に返事をしたわけだが、捉えようによっては、私ががっついていると思われても仕方のない答え方だった。
私は早くも失敗してしまったと気付く。
ならば挽回を、と思うが時すでに遅し。相手の方が一足早く口を開いてしまう。
「貴族令嬢というのは、よりよい嫁ぎ先に輿入れするものだ。男爵令嬢の君からすれば、公爵家に嫁ぐような話は本来ならまずないだろうからね」
「…………」
そうなのかもしれないが、私にとってはそうではない。私にとっては、継母から逃れられる転機であって、公爵夫人を望んでいるのではないのだ。
「話し相手の顔を見ることすらできないほど、今回の話は承服しかねる出来事なのだろう。でも貴族の婚姻とは、本人の意思などあってないようなものだからね。だからこそ君は、お家の為に強い決意でこの場に臨んだに違いない」
「違う……」
確かに強い決意を持っているのは否定しないが、思われていることとは意味合いが違う。
「それほどまでに、公爵夫人の座は魅力的かい?」
ふと気付く。
最初こそ感情が見え隠れする声を発していた謎の人物だが、着席してから私の耳に届く声は、蔑むといった感じでもなければ、哀れむといった類でもない。
言うなれば”無感情”。
まったく感情の乗っていない、淡々とした音でしかなかったのだ。
聞かされる声に感情が無いと気付いた私は、他者の言葉から常に感じさせられている恐怖ではなく、物悲しい気持ちを感じてしまう。
こんな気持ちは、何気に初めて味わった気がする。
敵意、侮蔑、嘲笑、同情、憐憫。
どんな感情であれ、人は何かしらの感情を向けてくるものだ。特に私に対しては、誹謗中傷の類が多い。
だが今は、何の感情もない言葉を投げかけられた。それによって齎された悲しい気持ちは、とても辛いものと感じる。
それはまるで、鞭で打たれる体の痛みと同じように、私の心をひどく傷付けた。
なぜそのような気持ちになったのか、私自身も理解していないのだから滑稽だ。
私は今、本来なら考えるべきことではないことに心を割いているのだろう。それは分かっている。
だがそれでも、この感情を無視する気にはなれなかった。