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4.「始動」



―――時は遡る。



パチン、と何かが弾けるような音がして、一花の日常は書き換えられた。

両親の離婚が成立した日。


あの日を境に、一花は母親の澪と2人きりの生活を始めた。


新しい苗字は「柊(ひいらぎ)」。


最初はどこか他人のもののようだったその響きも、小学校、中学校という時間の波に洗われるうちに、すっかり一花の肌に馴染んでいった。

母の澪は、一花に対して精一杯の、溢れんばかりの愛情を注いでくれた。

しかし、父親である「蒼士」のことだけは、まるで最初から存在しなかったかのように一切口にしなかった。

一花もそれに不満を抱くことはなかった。

澪の注いでくれる温もりだけで十分に満たされていたから、母親に対して歪んだ感情を持つこともなかったのだ。


けれど、消し去れないものがあった。

一花の脳裏には、あの日、静かに家を出ていった父親の背中が、今でも鮮明に焼きついている。


自室の学習机の上には、一羽の美しい蝶の標本が飾られていた。

父から最後にもらった、鮮烈な青い羽を持つ「ユリシス」。


そしてクローゼットの奥には、父が昆虫学者として賞を取ったときの新聞記事や、かつての家族のアルバムが、そっと仕舞い込まれていた。


母のいない時間、一花は時折その標本を愛おしそうに引き寄せ、そっと胸に抱き締めながらベッドに横になる。


ガラス越しに伝わる微かな冷たさを感じながら眠りにつくのが、彼女の日課だった。


眠りに落ちると、決まってあの夢がやってくる。


深い霧の向こうに佇む、見知らぬ少年。


そして、どこからか響く父の低く穏やかな声。


『――朔也』


その名を呼ぶ父の声が、一花の耳の奥で、心臓の裏側で、何度もリフレインされる。


一花にとって「朔也」という言葉…それは解くことのできない、冷たくて重い、呪いのように深く、彼女の心の底を棘のある茎がじわりと長く伸び、身体ごと縛り続けていくのだった。








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