眠れぬ夜の呼び声
それはまったく情けなく、救いがたい性質のものだった。かつて陥ってしまった状況……さまざまな場景が頭の中に浮かびあがり、そのたびに恐怖で胸が波打ち、締めつけられ、痛みを感じるほどの衝撃だ。眠れない夜の訪れ、おれはいったい何度寝返りをうったことだろう。目を閉じているのか開いているのか、先ほどまでの眠気はどこに行ってしまったのか、あれからどれほどの時間が進んだのかを確認するのが怖い。暗闇はなにもかもを曖昧にし、なにか正体不明のものに囚われている人間を滞留させる。十年、二十年、四十年……朝から晩まで分別のついた超人として振る舞わなければいけない、染みついた強迫観念、自分に課すとほうもない苦労、そしてすべてを見失ってしまった。なにを見失ってしまったのかもわからないほどにだ。
突然、というか、ついにたまりかねて、おれはベッドを抜け出す。這々の体で逃げ出すように。冷蔵庫を開け、なにか飲み物を、スッキリさせてくれるような冷たいものを、暗がりに囲まれた局所的な明かりの中で、永遠とこうしているのではないかと思うほど、あちこちうろうろと。
こんな発作的な夜がなぜ来てしまうのか、理由はまったくわからなかった。もう二度と健やかに眠れないかもしれない。不眠は不幸だ。不幸の中でもとりわけ酷い不幸だ。とにかく、まずは眠れるかどうか……眠りたい時に深く眠りにつけるかどうか……もし眠れるのであれば、その夜は、その一日は、ひとまずそれで十分だ。他になにを望む? なにもない。あるわけがない。だって殆どのことは忘れられてしまう。覚えている価値のある出来事など、そうはない。
やがておれの過去の周囲には、おとなしく慎ましやかで、同時に腹黒さを隠そうともしない、あるいは自分自身気づいていないのか、そんな人物たちで溢れかえることになる。できるものならば、その集団からは距離を置いておきたいものだが、しかし、そんな願いもむなしく、いつだって乱暴に混ぜ合わされ、いっしょくたにされ、そしてまた、眠れない夜がくることになるだろう。そのたびに、もう二度と穏やかに眠れる心のゆとりが訪れることはないだろう、永遠とも見紛う夜の中に閉じ込められ、秒針の音に恐怖し、追い立てられ、暗闇の中に逃げ出そうとする、そんな一連の流れを何度も繰り返し、偽物の夜明けを、その攻撃的な眩しさを、呪い続けるのだった。
それでも、また。
それでも、また、食べ、酒を飲む。反復と些細な差異のその中で、なにか特別なものを見いだしてやろうと腕まくりをするような連中の仲間入りはとうとうできなかった。むなしいものはむなしい。むなしさのその奥になにがあるかだなんて……考えてみるだけで気が滅入る考えだ。たとえば、おれ自身がおれたらしめるものをひとつひとつ丁寧に剥いていったとして、その先に残るものはなんだろう、とか。最終的には空っぽであるのが有力な線だが、もしかしたら、ボールペンの先端のボールベアリング、そんなような小っちゃいものが、ころんと転がっているかもしれない。それが救いってやつだ。つまりは、空っぽには救いってものがない。最終的には空っぽであるならば、この自律した、あるいは自律していると思い込んでいる、この哀れを誘う機械は、いったいなぜ作られなければならなかったのだろう。もちろん、ものの弾みに理由などを求めたってしょうがないのだが、それでも理由や意味を求めてしまうのを止める術を、この機械は知らないのだった。救われるのを願う機械。なんとも情けない話だ。どこまでも哀れで、むなしく、同情を誘うような、その卑屈な目つき。卑猥な腰つき。穴を見れば、たまらずむしゃぶりついてしまう。凹凸をハメて直して、すっかりいい気持ちだ。だが、その穴が、同じようにくたびれた機械であると真に気づいたとき、もしかしたらそこに救いは隠されているのかも。
スペースインベーダーにおける凸がチンポそのものであることは、インベーダーであるのはどっち側なのだろう? という疑問を我々に投げかけた。この世界はチンポの隠喩や直喩で溢れ、無数のチンポが順繰りに反り立ち、その陰でうなだれる無数のチンポ、チンポであるがゆえの苦悩、優越、無関心、そこから射出し、脱出しようともがく。ここにまた、一匹のチンポとして作り出されたチンポが街をさまよっている。悲劇とも喜劇ともつかない、微妙な仕上がりの劇が繰り返し開演されるが、拍手のひとつも貰えやしない、こんなことはもう止めにしたいわけだが、満ち、偏っていく血流を、硬化する頑なな態度を、自分ではもうどうしようも出来ないのだ。
それはまったく情けなく、救いがたく、あまりにもあからさまなチンポの有り様だった。そう、まったく認めがたいことだが、サイズの大小である程度はすべてが決まってしまうという残酷な現実を突きつけられ、あらゆることにつきまとうそのコンプレックスが、チンポたちを半永久的に狂わせる。もはや正常なチンポなど存在しえない夢物語であることが暴露されてしまった、その代償をいったい誰が支払うというのか。我こそが正常だと声高らかにうたう、異常極まるキチガイチンポたちの反乱を(薬に頼らず、血を流さず)抑えつける役目をいったい誰が負うというのか。どうか優しく触れてくれ、時に激しく濡らしてくれ、目を逸らさずに集中してくれ、今ここに在る一本のチンポだけ、ただひたすらそのことだけを考えてくれ、熱、臭い、波打つ血管、顔を赤らめ、てからせる、愛してくれ、愛してくれ、サイズの件、その核心にだけは触れないでくれ。おれのってちっちゃいよね? ううん、そんなことないよ、フツーだよフツー。
ああ、わかっているさ。なにもかもわかっているさ。きみは優しい嘘つきさ。チンポを傷つかせまいと、健気に取り繕ってくれる。眼差しだけが悲しげだった。それもまた恋心とみなしてしまうのだろう。きみはそんなふうに振る舞うべきじゃなかった! 徹底的に叩き潰すべきだったのだ! その吹き出してしまうくらいの小ささを、卑小さを、理解させてやらなければならなかった……底の方の比較的浅い方では、ちゃんと理解しているということを、改めて理解させてやらなければならなかった。だがすべては遅きに失した。生活と人生の敗残、嘆きや苦しみ、ひどい病気にかかり、ひたすらに不幸を煽る……。あきらかな荒廃、退廃、どん詰まり。萎えた脚を引きずり、哀れを誘う姿で、必要以上に明るく努める。その痛々しい笑いは、ほとんど悲鳴と言ってもよいくらいに、聞く者の頭を狂わせてしまうほどの狂気をたたえていた。
それでも、また。
それでも、また、日は暮れ、静かな夜がきた。耳がイカれてしまうくらいの静寂の夜だ。今夜もまた、あの夜の家族たちは、おれのことで頭を悩ませ、苦しんでいるのだろう。あれからどれだけの時間が経ったのだろうか。なぜ、誰かが告げてやらなかったのだろうか。あんたたちは、まったく悩まなくてもいいことで悩み、苦しまなくてもいいことで苦しんでいる。いちいちいちいち、うっとうしいことだ。まったくもって、くだらないことだ。いっそ、解散したらどうだね? あんたたちが寄り集まる必要がどこにあると言うのだね? それが嫌だと言うのなら(きっと言うのだろうが)、悩みの種をひと思いに叩き潰してしまえばいい。ヤツ自身もそれを望んでいる。そんな雰囲気がある。
遠く、列車の走る音が聞こえる。その呼び声は風に乗り、遙か遠く、こんな場所にまで届き、つまりはおれを呼んでいるのだった。そろそろ、旅立ちの時かもしれない。満足に眠れやしないのならば、こんなところにいてもしょうがない。おれは眠りたい。眠りたいんだ。マジで。




