呼ばれれば隠れられる
それでも、知らない間に眠っていた。いや、よくわからないけれど、たぶん眠っていたのだろう。さっぱり実感はないが、このとおりもう朝だった。ついさっきまで真っ暗だったというのに。何度も何度も気が遠くなるくらいに繰り返す、この目覚めってやつ。こっちの事情や情緒なんかにはお構いなしだ。かつて輝かしい目覚めなんてものがあっただろうか。ちょっと記憶にない。記憶にはないが、この記憶ってやつも怪しいところだらけで、最近じゃもういちいち思い出すのも億劫な感じだ。記憶に拒否されるのか、記憶を拒否しているのか、まあ、どっちにしろ、記憶なんて大したものじゃない。過去の記憶によって呼び起こされるもの……疼かされたり、震わされたり、動かされたり、呆然とさせられたり、ほんの些細なざわめきのような愛情とも呼べる衝動、それは確かな存在感を持ちつつ、同時にそいつは既にもう存在しないのだ、すべては過ぎ去ってしまったのだ、すべては過ぎ去り消えてゆくのが宿命であるならば、なぜ過去を記憶を後生大事に抱え込んでいようとするのだろう。それはもう過ぎてしまったことなのに、あるいは始めからそんなものは存在しなかったかもしれないのに。
ある目から見た現実はただひとつの現実だ。途方もない現実。しかし、実際にそれは目の前にある。おれはただただそれを見つめていた。目を逸らそうとしたこともあったかもしれない。でも、決して自分自身からは目を逸らすことができないように、現実ってやつも、どこまでだってついてくる。どこまでもどこまでも。これが夢だったら。そう思ったことだって何度もあったが、ある時気づく、これが夢だったとしても、何も変わりはしないってことを。そして、慣れる。慣れた。慣れないわけにはいかなかった。どのようなことにだって慣れてしまえるのがおれの美点であり醜い点でもある。
変わり映えしない現実。それはおれの目の位置が変わっていないからだ。おれの目は空の青を映し、バスに乗り込む人を映し、木々を、小鳥を、排水溝を、吸い殻を、二十四時間営業のコンビニの商品搬入を、おれの足下を、駅までの道のりを。
都会に出ると孤独が沁みる。何も用事がなければ尚更のことだ。金は幾分か持っていたが、使い途を探す気力もなかった。腹は減っていたが、空腹でもない。本当に何もなかった。おれが何かを望めば、ある程度は叶うだろう、これだけ何でもあれば。かろうじて煙草を吸うくらいしかすることがなかった。それだってすぐに燃え尽きてしまう。骨に変わり、灰に変わり、煙に変わる。注意深くしてなければ気づかないくらいの、少々のいがらっぽさだけを残して。
欲動とか情熱とかそういうものが目の前をびゅんびゅん通り過ぎてゆく。凄いうねりだ。一匹の龍のようだ。このまま天に昇っていっちまうのだろう。しかし、この狭い空でこいつを満足に受け止めることができるのだろうか。星ひとつ見えやしない。別に見えなくても構いやしないが。
都会に出るには独りがいい。ふたりでは多すぎる。それより多い数なんて以ての外だ。寂しいくらいが丁度いい。誰もおれのことを知らないし、おれだって誰のことも知らない。このおびただしい人の群れの中の誰ひとりとして。仮に知った顔がこの中にいたとしたって、それに気づくことはないだろう。仮に気づいたとしたって、気づかないふりをするだろう。仮にいまここでおれがパッと消えちまったとしても……。普段のおれは仮の姿だ。いろんなところから借りを作って、がんじがらめにされて、息苦しい思いをしているように装ってはいるが、そんなものは仮の姿だ。真の姿ってやつは、いまここ、ここにいる孤独なこれ。頭がどうにかなりそうな孤独。これこれ、これよ、これなんだよ。誰かと相対している時、人は仮面を被り、劇中の人物となる。ああ、いろんな人がいる。不気味で、せせこましく、自分がイッパシなんだとアピールしてくる。血が冷える。なんだか疲れてくる。おれにはわからないよ。なにもわからない。だけど、親愛の情でもって接してくる人、そういう人にはなにか応えてやりたくなる。あんたはそのままでいてくれ。おれもあんたが喜ぶようなことをしてみたい。祈るような願うようなそんな気持ち。泣きたくなるくらい、おれには他人がわからない。わかってみたいが、わからないんだ。そのかわり、こう思ってしまう。大半のヤツはクソだ。特に声のデカいヤツは。
変人。たぶん、そうカテゴライズされているのだろうし、おそらくは本人たちもそんなふうに自覚しているのだろうが、ううん、どうなんでしょうね。やっぱりおれが思ってしまうのは、なかなか変人ってのはいませんね、ってことだ。連中は、視界が異常に狭く、ただドタバタしているだけであって、まあそんな姿は滑稽ではあるけれども、それは別に変ってわけじゃない。普通だ、普通。普通ってなんだ。それはですね、もっとも忌むべきことです。
有権者の支持を得るには……まずは市長選で顔を売って……この社会に風穴を……とかなんとか言ってるけどね、その前におまえら、自分で出したゴミはちゃんと片せよ。堂々とおれの目の前でポイ捨てるんじゃねえよ。せめて隠せよ。政治をしている連中ってのはこんなんばっかか。足下なんて見ようともしない。そんな場所の存在そのものに気づかない。だが、まずは足下と向き合うことからなんじゃないか。本気で政治で変えようとするならばだ。面倒なこと、まだるっこしいことはしたくないってんなら、向いてないなんてもんじゃないが、まあ、こいつらがやりたいのは政治ではなく自己実現だ。なるべくお手軽にイッパシになりたいだけだ。
雑魚過ぎて吐き気がした。なんだか悪い夢をみているみたいだ。飲み込まれかけた。殴ろうかどうしようか考えあぐねていた。そんなおれを一発で冷静にさせてくれたのだから、哲学的な視座ってやつは大したもんだ。その通りだった。おれはいつの間にか連中の劇の良い観客になっていた。そしてこれは秘密なのだが、それを飛び越えて連中の劇の一部になるところだった。危なかった。本当に危ないところだった。アホみたいな物語に組み込まれるなんて、想像しただけで怖気がする。まったく。人生ってのはこういう罠だらけだ。考えなしに前のめりになると、途端にバクッといかれちまう。巻き込まれて、巻き込んで、唾棄すべきものの一部にされちまう。好もうと好むまいとに関わらずだ。
おれは、いけ好かないヤツを目の前にしたその時、まず一番先に、「殴る」ってコマンドにカーソルが合ってしまうこのモードを解除しなければならない。それは急務だ。おれがこの先、他人とコミュニケーションをとり続けようとするのならばだ。このモードでいる限り、おれは早晩ブタ箱行きだ。そんなことは誰も望んじゃいないし、おれだってそうだ。それに、殴られるのを心待ちにしているクソ野郎っていうのはどこにでもいる。それこそ罠を張っているんだ。安易に殴りかかれば、連中の思うツボだ。そういうことを芯から理解しなければならない。よし。インストール完了。理解した。もう大丈夫。たぶん。
ソクラテス? あれ、アリストテレスだっけ? まあいい、そこから始めてみよう。おまえ如き小童が最初にスピノザやキルケゴールに手を出すなんぞ、ちゃんちゃらおかしいわ。そんなふうに笑われてしまった。いや、別に笑われたわけではない。真摯な態度できちんとアドバイスしてもらった。本当にありがたかったし、ちょっと感動した。何にせよだ。読みたいもの、理解してみたいものがある、というのは幸せなことだ。そのために生きている、ような気分にさせてくれる。所詮、気分でしか生きてはいけない。すべては気分だ。人間の気分がその土地の景色を塗り替えてゆく。気分に乗っかり、気分に塗れ、気分で笑い、気分で殺す。しょうもない。が、しょうがない。




