朝露に濡れた薔薇
我が子に夢中になって、一向に離れようとしない母親をルシウスは適当にあしらっていた。いつもなら従者に何か理由をつけさせ、自分から引き剥がすのだがその従者の姿が見当たらない。リリルの死体の処理に手間取っているのか、と訝しんでいたら「奥様、ルシウス様」とか細い声が聞こえてきた。
「何なの、この子」
汚いものでも見たかのように、顔を顰める公爵夫人。その目の先では、ルシウスが救貧院から連れてきたあの少女が立ち尽くしていた。放心していた少女が顔を見せたことに、少なからず驚いたらしいルシウスが「何だお前、まだいたのか」と零す。だが、少女はそんな二人に臆することなく淡々と口を開いた。
「お茶の用意ができました。薔薇の生垣の、すぐ傍にお席を用意してあります。冷めないうちにお越しください」
相変わらず小柄で、どこかくすんだ印象のある少女。しかし背筋を伸ばし、足で根を張るように立つその姿は最初のおどおどした様子が嘘のようだ。俯いてはいるものの、どこか堂々としているようにも見える少女にルシウスは訝し気な目を向ける。しかし、お茶と聞いて母は一転して明るい表情になった。
早く行きましょう、と急かす公爵夫人の前で一礼して少女は足早に姿を消す。
……救貧院から拾ってきたあの少女に、紅茶の用意などできるのだろうか。
あるいは従者が用意をして、少女はルシウスたちを呼びに来ただけか。どちらにせよ、この浮かれ切った母が満足するまでリリルの元には戻れそうにない。仕方ない、と溜め息を堪えながらルシウスは微笑む。
「そうですね。少し早いですが、お茶の時間にしましょう。母が植え替えさせたという真っ白な薔薇を、僕も見たいです」
そうよね、そうよね! と浮かれ切った調子で夫人が返す。
「本当に、全ての薔薇を本当に真っ白に植え替えさせたのよ。花壇だけじゃない、生垣に植えられていたものやアーチに使っていた薔薇だって全部……綺麗な真っ白にした。おかげで天国みたいに、綺麗な庭になったんだから……」
浮足立つ母はルシウスの手を握り、今にも庭園へと駆け出していきそうだ。その動きをさりげなく、エスコートするような素振りで止めるとルシウスは母を連れて歩き出す。
――その足音が遠ざかっていったのを確認して、少女は次の行動に移った。
◇
庭に辿り着いた瞬間、上機嫌だったフネラル公爵夫人の目がかっと見開かれる。
「何なの、これは!」
金切り声を上げる夫人の前に広がっていたのは――大量の赤い薔薇だった。
花壇、生垣、アーチ、茶会のテーブルに飾られた花瓶の花まで……ルシウスの母が「白」に植え替えさせたというはずのそれが全て、血塗られたような赤色に染められている。その花弁は瑞々しく、さながらリリムの異名である「朝露に濡れた薔薇」のようだった。
異常な状況に、感情的になる母と違ってルシウスは冷静だった。庭園に一歩、踏み出し周りの様子を窺う。すると、従者二人がどこかぎこちない様子でこちらに歩み寄ってきた。
「ル……ルシウス様……」
よろよろとこちらに近づいてくる、二人の従者。しかし、ルシウスはその歩き方に違和感を持った。まるで胴体を適当な長さの丸太に乗せているような、不格好な動き……だがルシウスの母はそんなこと知らないとばかりに、自分より大柄な従者へ掴みかかる。
「あなた、あなたたちがやったのね? せっかくの白い薔薇を忌々しい、赤い薔薇に戻すなんて! どうしてこんなことしたのよ! ねぇ、どうして!」
完全に取り乱し、感情的になっている公爵夫人。しかし従者たちは特に抵抗する様子も見せず……代わりにルシウスたちが足を踏み入れた、庭園の入り口に目を向けた。その視線につられ、ルシウスたち親子もそちらを向けば――あの貧しい少女が、銀の皿の乗せられ茶会用のカートを押しながら現れた。
「薔薇の、花をお持ちしました。朝露に濡れた、綺麗な薔薇の花です……」
少女がわずかに震えた声で、そう告げるとルシウスの母がまた顔を歪める。その憤怒の表情のまま、少女の方へ近づくとその色褪せた髪を乱暴に掴んだ。
「あなた……さてはリリムの知り合いね。そうに決まってるわ、でなければこの私の前で真っ赤な薔薇を並べるなんてありえないんですもの! なんてことなの、今すぐ薔薇を白に戻しなさい! さぁ、早く! さぁ! さぁ!」
髪を乱暴に引っ張られ、よろめいた少女はそのまま地面に倒れ込む。だがルシウスの母は容赦せず、立ち上がろうとした少女の手を足で思い切り踏みつけた。痛みに悲鳴を上げる少女に、ルシウスの母はさらに攻撃を加えようとするが――
「薔薇を赤く染めたのは、そこにいる方々ではありませんよ」
――どこからか聞こえてきた、美しい声に全員の動きが固まる。
「さぁ、最後の命令よ。この蓋を開けなさい」
有無を言わさぬ口調でそう言われ、最初に動いたのはあの少女だった。ルシウスの母が呆気に取られている間に、痛みを堪えて立ち上がり茶会用カートの傍へと戻る。銀の皿の上には、巨大な銀の蓋が乗せられていた。それを素早く、ほとんど引っこ抜くように取ってしまえば黒々とした長い髪が現れる。
その一部は深緑色に染まっていて……その首は間違いなく自死したリリム、あるいはルシウスが少女たちを使って殺させたリリルのものであった。
「っぎゃああああっ!!」
公爵夫人が悲鳴を上げ、その場にへたり込む。
するとこの状況でろくに動くこともできなかった従者たちに、異変が起きた。不安定だった手足が泡のように弾け飛び、大量の血が庭園へばら撒かれる。四肢を失った従者はその場に崩れ落ち、鈍い呻き声を上げるが血飛沫は止まらなかった。まるで意思を持っているかのように地に、薔薇に纏わりつきそれはリリルの首を乗せた銀の皿にまで迫ってくる。
そこに風が吹き、大量の薔薇の花びらが舞うとルシウスたちの視界が深紅に染まり――血と薔薇の海の中から、湧き上がるようにリリルの体が現れた。
「よくやったわ」
蓋を持ったまま、呆然と立ち尽くしていた少女にリリルはそう言って微笑む。
リリムは薔薇の花を纏ったような、袖のない真っ赤なドレスを着ていた。その裾から伸びる手足は影のように黒く、漆黒の長い髪と相まって暗闇に首と風だけが浮き上がっているように見える。その真っ黒な足で、一歩踏み出せばルシウスが「姉上……」と呟く。
「いいえ。私はあなたの姉でも、そこで公爵夫人の真似事をしている女の娘でもない。フネラル公爵家に蔓延る悪魔を排除しに来た、ただの令嬢リリスよ……」
言いながらその令嬢――リリスは、血の海の中で無様に座り込んでいるルシウスの母に目を向けた。
「そのドレス、お母様の……いえ、前公爵夫人のものね。ドレスだけじゃない、この別荘も一部の装飾品も、あなたは自分のものにした。あんなに忌み嫌い、何もかも奪った女のものをよくもまぁ平気な顔で使えるもの……でも、どれもあなたには全く似合っていないわ」
そもそも「公爵夫人」という肩書き自体が、あなたには不釣り合いですもの。
リリスが鼻で笑いながらそう言うと、途端にルシウスの母が血相を変えて立ち上がる。
「黙って聞いていれば、この悪魔め……! 大人しく地獄に落ちていればいいものを!」
思いつく限りの暴言を吐いているらしい夫人は、リリスへと近づいていくと怒りのままに右手を振り上げた。かつてリリムにやっていたように、その手で殴るなり鞭打つなりするつもりだったのだろう。
だが鈍い音がしたかと思うと、その手は弾かれて――次の瞬間、手首から先が地面へと転がり落ちる。
遅れてやってきた痛みと、「手を斬り落とされた」という衝撃にルシウスの母は発狂せんばかりの声を上げた。その様を冷静に見ていたルシウスは、リリスの手に細長い剣が握られていると気がつく。
「義理の娘はさんざん叩き、鞭打ってきたくせに自分はたった一回斬りつけられただけで随分と大騒ぎなさるのね。でも、私も力を入れすぎてしまったわ……すぐ終わらせるわけにはいかないのに」
状況についていけず、傷口から溢れる血と激痛に喚くことしかできない公爵夫人。その体を支え、寄り添うように立つルシウス。二人の親子を前に、リリスはその黒い足を一歩踏み出した。




