令嬢リリス
銀の蓋を開けた少女は、いつの間にか逃げ出したようだ。
手足を失い、呻くばかりの従者は取るに足りない虫も同然だった。ルシウスは「母上、落ち着いて」と宥めすかそうとするが母が冷静さを取り戻すことはない。血に染まったドレスを見て、取り乱せば取り乱すほど傷口から血が溢れ出て……ドレスを汚すのが自分の血か他者の血なのかもわからなくなる中、夫人は叫ぶ。
「私はフネラル公爵夫人よ! そして息子は次期フネラル公爵、ルシウス・フネラル! その私たちに、こんな真似を……許さない! 絶対、許さないんだから!」
「貴族としての役目も責務も果たさず、ただ『公爵家』の華やかさに群がってきただけの俗物がよくフネラル公爵家を騙れるものね……あなたのどこに、『公爵夫人』を名乗る資格があるのかしら」
「っ私は私の力で公爵様の寵愛を得た、私自身の力で公爵夫人の座まで上り詰めた! それは誰にも否定できない事実よ、だから私は公爵夫人にふさわしい! 私はお飾りでも嘘偽りでもない、正真正銘の『公爵夫人』! お前やお前の母とは、わけが違う!!」
目を見開き、声を荒げるルシウスの母をリリスが笑い飛ばす。
「おかしなことをおっしゃるのね。あなたが何か一つでも、公爵夫人らしいことをしたと言えるかしら。公爵家の名に恥じない、素晴らしいことを行ってきたかしら。しているはずがないわね、あなたは所詮フネラル公爵家という光に集ってきただけの害虫ですもの。愚かで醜悪、矮小で何一つ良いものなど生み出せない……いるだけで不快感を撒き散らす、邪悪な存在だわ」
相手を揶揄し、小馬鹿にするようなリリスの笑み。冷ややかな笑顔を前に夫人はより一層、顔を歪めて激しい怒りを剥き出しにする。だがリリスの態度は変わらなかった。頭に血が上った母と対照的に、ルシウスはそんなリリスを静かに見つめている。
「――こんな女を母に持ったあなたも、気の毒ね」
黙ったままのルシウスが気になったのか、リリスは彼にそう語り掛けた。血と薔薇の匂いが強まる中で、ぶつかる姉弟の視線。それでもなお表情を崩さないルシウスに、リリスが艶めかしく微笑みかける。
「『フネラル公爵家令息』『次期フネラル公爵』、どちらもあなたには荷が重かったでしょう。フネラル公爵家の名はそれほど貴く、美しくも重い……。けれどあなたたちは、それを踏み躙った。フネラル公爵家に泥を塗り、その名を穢して忌まわしい汚点を作った……」
「……僕は父上に認められた、正統なフネラル公爵家の後継ぎですよ? むしろ、父である公爵に疎まれ忌み嫌われていた姉上こそ『フネラル公爵家の汚点』でしょう。誰にも愛されず、誰にも必要とされなかった不幸な少女。美しく、才能もあったがそれらは何の意味も持たなかった……哀れで、惨めで、本当にどうしようもない存在です」
「……そんな女に言い寄ったあなたも、大概じゃないかしら」
笑みを消したリリスが、そう吐き捨てればルシウスの口元が緩んだ。
「姉上、美しいからって自意識過剰なんじゃないですか?」
怪訝な顔をするリリスの前で、ルシウスは母を一瞥する。
激しく怒った上に血を流しすぎたせいか、公爵夫人は眩暈を感じているようだ。くらくらしているその姿を確認すると、ルシウスはリリスの黒曜石のような瞳を真っすぐに見据え唇を吊り上げる。
「僕はただ、面白そうだと思っただけですよ。王太子の婚約者である姉上に、子どもができたら表向きは『イアン様の子』として育てなければならなくなる。そうなったら、姉上はどんな顔をするか。どうやって王家や公爵家を欺くつもりだろうかと……考えたら楽しくて、仕方がなかったんです」
――ルシウスが言い終えるのと、リリスが剣を振り下ろすのはほぼ同時だった。
目を剥き、激情のまま腕を振った殺意のみの一撃。その凶刃はルシウスに届くかと思われたが、彼が身をよじり「盾」にしたものによってそれは遮られる。
「あ……?」
ルシウスの母――盾の代わりに前へと突き出された公爵夫人が、胸の辺りでリリスの剣を受け止めた。
「わけがわからない」という顔で、硬直するルシウスの母親。リリスは驚愕に目を見開くが、夫人の胸元に深々と刺さった剣は動かすことはできない。その隙にルシウスは母親の体を蹴飛ばし、背中を見せて走り出した。リリスはその背中を追いかけようとするが、先に困惑する公爵夫人の呟きが耳に入る。
「な……んで……」
ルシウスの母親は、刺し傷を塞ごうとするかのように腕を彷徨わせた。だがその手首は既に片方斬り落とされている、流れ落ちる血はドレスを――かつてリリムの母親のものだったというそれを真っ赤に汚していく。リリスはその光景を不快そうに見つめながら、憎々しげに口を開く。
「……わからないなら、教えて差し上げますわ。ルシウスは私を挑発し、頭に血を上らせたところで母であるあなたを身代わりに置いていった。私があなたを許さないことを、時間稼ぎとしてこれ見よがしに置いていかれたとしても絶対に気を取られてしまうとルシウスはわかっていた……癪だけど、この手に乗らないわけにはいかないわ」
だってあなたも、私の憎むべき敵の一人なんですもの。
リリスは夫人の体に刺さった剣を強引に引き抜き、何度もそれを振るう。バランスを崩し、片膝をついたルシウスの母親は激痛に耐えながら地を這おうとした。だがリリスはその手を踏みつけ、逃げられないようにしてさらに公爵夫人を斬りつける。
凄まじい激痛と、どんなに叫んでも助けなど絶対に来ないという。それらをたっぷりと味わい、彼女の武器である美貌をぐちゃぐちゃにされ、血まみれになったところでルシウスの母親は息絶えた。その事実を確認し、荒くなった呼吸を整えるとリリスは公爵夫人の――公爵夫人だった女の首を斬り捨てる。苦悶の表情を浮かべた顔と、血まみれになったドレスが離れ離れになったのを見てリリスは呟いた。
「人でなしのあなたには、この姿の方がよほどお似合いだわ」




