リリィと医師
北の療養所の医師は、どんな患者を前にしても常に冷静でいることを心がけている。
常人には理解しがたい思考も、狂っているとしか思えない行動も患者本人にとっては紛れもない「現実」なのだ。だから彼らは自分がおかしいと思わない、むしろ「自分は絶対に間違っていない」と言わんばかりに正気の沙汰ではないことを平然とやってのける。
それでも財力や権力といった力を持ち合わせていない人間なら、できることは限られているだろう。問題は高い地位や身分など、自身の与太話を大事にできる人間が狂気を持ってしまった場合だ。一度、暴走してしまったらその事実が狂った妄想を裏付ける「証拠」となってしまい誰も歯止めが利かなくなる。
――だから医師は患者の狂気を制御し、この北の療養所に閉じ込めておくことで彼らを社会から隔離している。
この療養所にいる以上、狂った彼らを蔑んだり憐れんだりしてはいけない。思い入れを持つことなど、もっての外だ。患者に同調せず、反発もせず、あくまで中立の監視役として患者を見張る。そうして、正常な判断のできない人間を正常ではない場所に閉じ込めておく。それが、この北の療養所の役目なのだ。
そう信じ、医師としての務めを果たしていた彼だが……それでもイアン・ロードという、前代未聞の患者には手を焼いていた。
近しい人間が次々命を落としたという、汲むべき事情。この国の正当な王太子であったという、圧倒的な事実。平民の女に誑かされた、という噂は聞いていたがそれにしてもその行動は常軌を逸している。曰く、自殺した公爵令嬢が名を変え姿を変え何度も舞い戻ってくるのだと……そこまで考えて、医師は深く溜め息をつく。
詳細に差はあれど、「死人が蘇る」という妄想そのものは大して珍しいものではない。不条理な死を認めたくないから、現実逃避する。日常に飽き、超自然的な世界へと刺激を見出す。あるいは、自らの罪を悔い罪悪感から幻影を見る……公爵令嬢リリム・フネラルの悲劇的な死は、イアンを引き取る際に「参考」として国王から話を聞いていた。国王はきっと、「例え愚かな息子であったとしても心のどこかに罪悪感があり、一人の令嬢を死に追いやったことを後悔しているに違いない」と考えていたのだろう。だが、その令嬢の義弟が見舞いに来た時の様子を考えると……どうもそんな、良心的な解釈はできそうにないと医師は感じていた。
「どうしたんですの、先生……」
いきなり声をかけられ、ぎょっとしながら医師は振り向く。
そこにはティーセット一式をトレーに乗せ、にっこり微笑むリリィがいた。不意を突かれた医師を前に、リリィは悠然とお茶を淹れてみせる。既にティーポットには茶葉と、沸騰したばかりの湯が注がれていたらしく今はちょうど蒸らし終わったところのようだ。完璧な手順と配分で用意されたその茶は、リリィのほっそりした指でカップに注がれ医師の前に差し出される。湯気と共に上品な香りが舞い上がると、その芳香に釣られて医師はティーカップに口をつける。
「うまい、な……」
簡潔だが嘘のない、正直な感想。それを耳にしたリリィは「ありがとうございます」と頭を下げるが、それと同時に医師へと距離を詰めてくる。見ていると幻惑の世界に連れ込まれるような感覚にすら陥る、リリィの美貌。医師が何か言おうとしたがか、それより先にリリィの方が口を開く。
「イアン・ロード王太子……いえ、今は元・王太子でしたね。私が彼に近づくと、なぜか彼が取り乱すようなので詳しくは知りませんが……なんでも昨日は、フネラル公爵家令息が見舞いに来たそうですね」
「……そうだな」
同じ療養所にいる以上、どの患者にどんな見舞客が来たかは自ずと看護士たちの間で情報共有されるようになる。だからリリィがそれを知っていても不思議はないのだが、医師はその発言になぜかぞくりとしたものを感じた。淹れ立ての紅茶が、急に冷たくなったように感じる。そんな医師のことなど気にも留めず、リリィはさらに言葉を続けた。
「今のあの王子にとって彼が唯一、縋ることのできる相手なのでしょうが……これは私が小さい頃に聞いた噂ですけど、『フネラル公爵家には悪魔が住んでいる』と言われているそうです。そんな公爵家の人間が、王子に近づいたらどうなるか……正直、あまり良い結果になるとは思えませんね」
「……だが、あの見舞い以降イアン・ロードは多少冷静さを取り戻したようだぞ。学生時代の知り合いが、時間を作って会いに来てくれたという事実だけでも多少は気が楽になるはずだ。だいたい、我々のように医術を取り扱う人間が『悪魔』などという非現実的な存在を肯定すべきではない。仮に、それを認めるとするなら……」
人間の悪意だ。
言い終えると、医師はリリィの淹れた紅茶をまた飲み込む。リリィはそんな医師の姿をじっと見つめながら、「そうですね」と静かに肯定した。
「『悪魔』なんて所詮は、人の心が作り出したもの……恐ろしいほどの才能や、目を覆いたくなるような悪行を『悪魔』という人間を超越した存在に例えているだけです。『悪魔』と罵る者も、罵られる者もみんな人間に過ぎない……ただ『悪魔が住んでいる』などと言われるからにはフネラル公爵家領には何かあるのではないか、と思うのですよ」
断定するリリィに、医師が目を見開く。
この北の療養所には、高貴な血筋を持った患者が収容される場所だ。そこには貴族間での権力争いや家庭問題も当然、存在するがそれに言及することなど許されない。ましてフネラル公爵家は、リリムという次期王妃予定の令嬢を輩出したほどの名家なのだ。
だが――
「……滅多なことを言うな。この療養所はあくまで『中立』の立場にある、妙な噂に惑わされてはならない」
医師はなぜか、リリィの言うことを強く叱ることができなかった。
この国では患者との接触や病原菌の感染を恐れてか、医学の道を志す人間が多くない。その中でもリリィは優秀で知識も豊富、美しい容貌のためか気難しい男性患者が反抗せず素直に従ってくれるという利点もある。医師にとっては重宝する人材だ、だからといって彼女を特別扱いするつもりはなかったのだが――医師はリリィを力強く、叱責することはできない。ただなんとなく、不気味なものを感じて目を逸らすことしかできない。
「とりあえず、君は引き続きイアン・ロードの治療から外れるように。彼の視界に入ったら、君が危害を加えられかねんからな」
医師はそう言葉を結ぶが、リリィは微笑みを浮かび続けている。その裏に何があるか、医師は深く考えることを止めて紅茶をぐいっと飲み干すのだった。