助手のリリィ
「リリィ君、準備を頼む」
承知しました、と答える彼女の姿にイアンは目を見開く。
清潔感のある白衣に、作業の邪魔をしないようしっかり纏められた黒髪。一度、三つ編みにした髪をさらに後頭部でまとめたその髪は一見短髪にも見える。だがその一部があの、恐ろしい深緑色に染まっているのを見るとイアンは言葉を失った。そんなイアンに、その美少女――リリィと呼ばれた彼女は、にこやかに微笑みかける。
「初めまして。私はこの療養所で先生の助手をしている、リリィと申します。入所にあたって、まずは身体検査から……」
「っ黙れ! 来るな! 近づくな、僕に触るな……!」
「あらあら、落ち着いてください王子様。検査と言っても簡単なものばかりです、そう身構える必要は……」
「違う、違う! っお前、また、僕を追いかけて……!!
のけ反るように立ち上がったイアンは、依然座ったままの医師へと駆け寄る。元王子とは思えない情けない行動だが、今のイアンにそれを気にする余裕はなかった。縋りつくようなイアンの視界からリリィを隠し、医師は幼子をあやすように言い聞かせる。
「異性に抵抗があるなら、男性の助手に対応させよう。悪いがリリィ君は、この患者に近づかないよう……」
「っ違う! 違う、違うと、言っているだろうがあああっ!」
頑なに自分の言葉を聞かない医師を突き飛ばし、イアンがリリィに向かって腕を振り上げる。しかしリリィは上半身を捻り、自分の手でイアンの腕をなぞるようにしながらその矛先を逸らすと――そのままイアンの腕を、外側からがっしり掴み固定した。
「申し訳ありません。ですが、患者の方々が私たちに乱暴な振る舞いを行うのは珍しくないことなので……こちらも少々、対処させていただくことがあります」
リリィがそう囁く間に、医師が冷静に男性の助手を手配しイアンを引き剥がしにかかる。必死に逃れようとするイアンだが、男性助手たちの力は強くイアンはそのまま引きずられるような形で身体検査へと連れていかれた。
「――せっかく北の療養所に来たのだから、よく頭を冷やすと良いでしょう」
リリィが呟いたその一言は、誰の耳にも届かなかった。
◇
平民のリリア。踊り子のリリカ。女騎士のリリエ。そして今、イアンのすぐ近くにいる医療助手のリリィ。名前こそ変えているが、リリムそっくりの美少女が現れる度にイアンの周辺にいる恋人や友人が必ず死んでいく。そして、目の前に現れたリリィ……髪をきつめに編み込み、後ろの方で纏めたその髪型は一見短髪に見える。
だがあの、湿原のような深緑色の髪は間違いなくリリムと同じものだ……そうなると、次の標的はイアンに違いにない。その事実に改めてイアンは絶望と不安、そして言い知れぬ恐怖を感じる。
――昔からイアンは、リリムのことを心のどこかで恐れていた。
リリムの超人的な存在感で霞んでしまったとはいえ、イアンはきちんと王太子教育を受けている。剣術、勉学、パーティーやダンスなどでのマナー。それらは全て、及第点ではあっただろう。だがそれを遥かに上回り、その上この世の者とは思えない美貌を持つリリムには危機感を抱いていた。
特に共にダンスを踊る時は、その圧倒的な美貌とダンスを前に自分は格下であると決めつけられているようで……恐ろしく屈辱的で、リリムと一緒にいると自分自身の存在価値が失われていくように感じる。それゆえイアンは婚約者であるリリムに冷たく接し、代わりに自身の心の隙間を埋めてくれたアナベルに呆気なく心を奪われてしまった。
そこに友情と忠誠心を併せ持ったカインとエドガーが加わり、イアンは「やはり自分には王太子としての血筋と人を惹きつける求心力がある」と自信を取り戻した。だからリリムに対しても劇的な婚約破棄を言い渡し、自分は名君としてこの国を治めるつもりだと思っていたのだが……イアンの側からは、次々と人が離れていく。イアンの周りにいえる人間の命が、簡単に奪われていく。その現実に気が狂いそうになるが、イアンは心のどこかでなぜか冷静で……羞恥心を押し殺しながら、イアンはしばらく北の療養所での生活を余儀なくされることになったのだった。
そうして、イアンが北の療養所での生活をしばらく続けた後。最初にイアンを迎えてくれた医師が、唐突にイアンに告げる。
「どうやら君に会いたいという『見舞客』がいるそうだ。面会時間に制限はあるし、差し入れの品も厳重にチェックすることになるが……何でも相手は公爵家令息だそうだからな。少し、顔を合わせてみればどうだ?」
気遣うような口ぶりの医師に、イアンは瞬時に悟る。今、この状況になった自分へ会いに来る公爵家令息。それは学園にいる間から親しく、もし自分が国王になったならば互いに手を取って国を発展させようと考えていたあの後輩に他ならなかった。
「……その、公爵家令息の名前は……?」
念の為、聞いてみるイアンに医師は意外そうな顔を見せる。
医師の目から見たイアンは、とにかく自分の処遇が気に入らず周りにいる人間全てを敵対視しているようにすら見えた。しかし、これから会うことになるかもしれない公爵家令息は違うのだろうか? この北の療養所に送られてなお、まだ「自分は王太子に戻れる」などという甘い考えを抱いているのだろうか? そう考えながらも、医師は答える。
「名前は、ルシウス・フネラルというそうだ。王立学園にいた頃の君の後輩で、『少しの間だけでも話がしたい』と言っているそうだが……どうする?」
ルシウス・フネラル。リリムほどではないが黒っぽいグレーの髪に、ダークブラウンの瞳。目鼻立ちの整った、老若男女が認めるような美形。
彼、ルシウス・フネラルは――リリム・フネラルの義弟として、イアンと同じかそれ以上にリリムと一緒にいる時間が長かった人間だった。




