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キモオタの修行


 翌日、キモオタトリオは指定された通り胴着を持って道場の前に立った。


「なぁ」


 井川が不安気に2人のキモオタに語りかける。


「昨日はその場の流れでなんとなく承諾しちゃったけど、本当に大丈夫かな。俺体育成績2だぜ」


 一方藤野は決意に満ちた目をしていた。


「僕はやるよ。1%でも可能性があればいい。もう昨日みたいなことはごめんだ」


 意外にも滝川も同じ心境だった。


「我輩も同じ心境です。もう堪忍袋の尾が切れました」


 井川は決意に燃えた仲間を見て、自分にも勇気が沸いてきた。


「そうか、お前らが一緒なら頑張れるかもしれない。よし、俺も決意を固めたぜ」

「ええ、我輩たちは三本の矢です」

「そうだ僕たちはいつも3人で」


 3人とも拳を掲げて叫んだ。


「ひとつ!」


 キモオタ達はキモオタ達なりの友情を確認し、道場の門をくぐった。


「ごめんくださーい」


 井川が扉を開けて道場の中に声をかけた。中から中年の男がやってくる。昨日明日香に紹介してもらった男だ。


「おお来たか。さぁ奥に入りたまえ」


 道場の中は意外に広く、畳が引き締められた広いスペースがあった。1学年ぐらいは全員雑魚寝できそうなスペースの広さだ。


「間もなく明日香も来る。早速胴着に着替えたまえ」


 3人はその場で服を脱ぎ胴着を取り出す。まだ体中が痛い。その体を見た中年の男は驚いて3人に尋ねた。


「君たち、その傷イジメでやられたのか?」

「はい、そうですけど…」


 中年の男は3人の体をじっくり見回し「これは酷い」とため息をついた。


「私も着替えてくる。その間、柔軟体操をしておくように」


 3人は胴着に着替えストレッチを始めた。胴着を着たのなんて中学の体育の柔道実習依頼だ。ほどなく中年の男が胴着に着替えて戻ってきた。


「それでは始めよう。私は伊集院。道場では師範と呼ぶように」

「はあ」

「本来基礎からみっちり仕込み体作りをするのが基本だが、君たちの場合は春休みまでに一定の技を覚える必要があるだろう。柔術と喧嘩の側面に役立つことを教えたいと思う」


 師範はそう言うと小さく礼をした。


「まずは『礼』だ。これはあらゆる基本だから必ず覚えるように」


 3人は師範に習って礼を練習した。


「よし次は基礎中の基礎、『受身』だ」


 3人は中学の授業を思い出しながら、後方、回転、前方の受身を練習していく。すでにこの時点で息が上がってくる。


「ダメだ。頭がついている。もう一度しっかり、頭を上げて体と同時に腕をつくんだ。目をつぶらないように」


 さすがに体育成績2の井川は運動神経が悪い。何度も地面に横になり、頭と首を痛めないよう受身を繰り返した。受身を取るたびに昨日痛めつけられた傷が悲鳴を上げるように痛むが、これが基礎中の基礎と言われては練習し続けるしかない。その内コツが掴めて「なるほど、蹴飛ばされた時もこう受身すればそんなに痛くないな」と思えるようになった。ネガティブなキモオタらしい発想である。


 受身が全員一通りできるようになった頃、胴着に着替えた明日香が入ってきた。師範を見て小さく礼をする。もちろんこの時キモオタの頭の中は「胴着を着た明日香ちゃんも萌え」と思っていた。全くどうしようもないキモオタだ。


「みな筋トレを日常的に行って欲しいが、いかんせん時間が足りない。そして相手はボクサーだ。合気道と柔道を基本として行おう。おい明日香」


 師範は明日香を呼び寄せた。


「今から『構え』の練習に入る。まず相手が誰であれ構えることが大事だ。明日香の構えを真似してみなさい」


 師範は明日香を正面に置き、その後方にキモオタを3人並べた。師範はキモオタの動作をチェックするためキモオタの間を行ったり来たりしている。明日香は左足を前方に出し膝を曲げ、右足を後方に膝を伸ばし構えをの姿勢を取る。キモオタは一生懸命動作を真似る。


「これが左半身、では次は右半身」


 明日香は足の位置を素早く入れ替える。


「次は『転換』」


 明日香は前方の足を半歩前に出して、その足を軸に180度回転してみせた。


「次は『入り身転換』」


 明日香は後方の足を半歩前に出して、そのつま先を軸に180度回転してみせた。


 キモオタたちはその仕草に合うように必死で重心を動かした。動作が違うたびに師範が細かく指導してくれる。


 キモオタ達は必死に転換しながら、何か思ったより地味だな…と思い始めていた。明日香が繰り出すような手首をくるんとする技は教えて貰えるどころか、構えが思ったよりややこしい。そんな心理を師範は見抜いたのか、キモオタ達に実演を始めた。


「いいか、君たちは基本イジメっ子の多人数を相手にするだろう。その場合囲まれてもこのように動ける」


 師範は転換を繰り返して四方八方に素早く移動しながら構えて見せた。とんでもないスピードだ。


「こうすれば背後からの攻撃の防御、反撃も可能だ。もちろん転換から派生する技も沢山ある。一流の武道家は構えで相手の力量を見抜く。地味だが反復して練習すように」


 キモオタたちは汗を流しながら必死で転換の練習に当った。すでに2時間ほど経過している。誤解のないように言っておくが、これはキモオタ達があまりに運動神経が悪いからではない。


「ではちょっと合気道の技をやってみようか」


 キター! キモオタたちはついに明日香の技が会得できると鼻息を荒くしている。師範は明日香を呼び、小手返しの実践を行った。明日香が突き出した拳をとると、あっさり外側に崩して投げ捨てた。その鮮やかさにキモオタからも思わず声が漏れる。


「最初は1,2,3,4のリズムで投げるんだ。明日香も入って2人1組で行うように」


 明日香の相手は井川だった。井川はまさか明日香に手を握られるとは思ってなかったので、明日香が井川の手首をとった時は、もうこのまま死んでもいいと思った。残りのキモオタは羨ましげに井川を見つめ、そのまま死ねばいいと思っていた。


「行きますわよ。井川くん。1で手首をとって、2で手首を固めて、3で手首を捻って……」

「いでででで」


 井川は甘かった。明日香は格闘技に関してはあくまでストイックだった。


「4で投げますの」


 井川の体が反転して外側に投げ捨てられた。


「上達するとリズムを1,2,3にしたり、完全に習得すれば一呼吸で全動作を行えるようになりますわ」


 井川は手首を押さえながら立ち上がった。明日香は少なくとも伊良部たちを一呼吸で投げていた。井川は改めて明日香の恐ろしさを知った。


 その日は小手返しのみで練習を終えた。キモオタたちは息をつきながらも奇妙な充実感を味わっていた。


「はぁ…思ったより難しいね。伊集院さんみたいになるには相当年月が必要だね」


 井川が呟くと明日香は励ますように言った。


「2週間で1,2のリズムで投げれるようになりましょう。そうすればそうそう負けはしませんわ」


 恐ろしいことを平然と言う女の子だ。井川は明日香と武道の奥深さを実感した。




 その日から1週間、道場にてひたすら小手返しと『正面打ち一教』を練習した。一教は明日香が伊良部の肩関節を外した技の基本形だ。もっと技は多くあるが師範は無用と判断し、ひとつの技のレベルを高めることを選んだ。


「いいか、相手がボクサーであれば正面打ちは有効だ。だが、本物ボクサーのパンチは恐らく君たちには見えない。それほど早い。転換を駆使して小手返し、もしくは一教に持ち込め」


 師範にそう言われては転換も疎かにする訳にはいかない。キモオタたちは必死に練習に励んだ。だが、同じ技をひたすら反復する練習はかなり単調で苦しいものだった。この技が決まらなければ3人には何も反撃する手段がない。しかし、この技を覚えなければ反撃することはできない。ただ必死に同じ技の精度を上げ続けた。


 3人にとって救いだったのは毎日明日香が来てくれたことだ。さすがにリアルの明日香の前でサボる姿を見せたくはなかった。


 その中でも藤野は比較的早くコツを掴んだようで、入り身転換からの小手返しをかなりのスピードで行えるようになった。


「藤野くんすごい! 今1,2で投げてましたわよ! なかなか出来ることではありませんわ!」


 明日香に言われると藤野はデレデレとして、気持ち悪い笑みを浮かべた。何しろリアルの明日香だ。残りのキモオタは嫉妬の炎を燃やし練習に励んだ。好きな女子が側にいると男は実力以上の力を発揮する。キモオタたちはわずか1週間で技は2個しか知らないが武道家の顔つきに変わり始めていた。




「なぁ、最近『プラスラブ』やってる?」


 道場の帰り道、井川が2人に尋ねた。


「実は我輩、最近起動しておりませぬ」

「僕も」

「やっぱりかぁ、俺もなんだよねぇ」


 キモオタ達は道場に通い出してから、毎日数回は起動していた『プラスラブ』をあまり起動しなくなっていた。


「リアルの明日香ちゃんと毎日会えているせいですかねぇ」

「いや、伊集院さんは伊集院さんだ。明日香ちゃんじゃない」 


 井川は強く否定した。そんな井川に藤野がのんびり尋ねる。


「なぁ、明日香ちゃんと伊集院さん、どっちが好き?」


 これは決定的な質問だった。つい最近までのキモオタたちであれば「リアルなんて虚無。妄想こそが至高」と考えていたため、理想の彼女はゲームの中の明日香ちゃんだけだった。


「そりゃ、お前、明日香ちゃんに決まってるじゃないか…」


 井川は力なく答える。


「我輩も2次元こそが至高でございます。やっぱり、明日香ちゃんですかねぇ…」


 滝川も力なく答えた。


「じゃあさぁ、僕が伊集院さんと付き合うって言ったら?」


 藤野が挑発するように2人に言った。井川も滝川も即答した。


「殺すな」

「殺しますね」


 藤野はその反応を見てうんうんと満足気に頷いた。


「僕達、リアルの明日香ちゃんに惚れ始めてるね」


 途端に滝川が「ああああ」と言って頭をかきむしった。


「我輩、リアルの女子などに興味はない、ないはずでしたのに!」


 キモオタ達の苦悩が始まり出した。




 春休みまで残り1週間。師範は新たな技をキモオタたちに伝授し始めた。


「井川くん、君は背が小さく素早い。奇襲の投げ技を教えよう」


 師範は井川の懐に素早く潜り込むと、井川の右足を掴み井川に体重をかけつつ自身の右足で井川の右足を刈って、倒れこむように井川を倒した。


「相手はボクサーだ。膝打ちで迎撃される可能性は少ない。勇気を持って踏み込むこと。そしてこの技をオトリとしてこんなこともできる」


 師範は井川を立たせると、再び井川の懐に飛び込み右足を刈った、かと思いきや師範はくるんと体を反転させ、井川の右腕を掴んで一本背負いで投げさった。


「この際に自分の体を巻き込んで投げると大ダメージを与えられる。まぁ、君は貧弱だ。巻き込んでもそう大怪我にはならまい」


 井川は武者震いで体が震えた。まさしく自分の必殺技だ。伊良部の長い足を刈りこむことができれば勝てるかもしれない。


「滝川くん、君は手足が長い。肘打を覚えてみよう」


 滝川は自分のひょろっちい手足を眺めた。こんな体で相手にダメージを与えることができるのか。


「いいか、肘は人体で最も硬い箇所だ。正面が相手にいる場合はこう打つ」


 師範は左半身の構えから左肘を前に向け左手を握った。右手を左手に当てて体の移動と共に肘を前方へ突き出した。明日香が伊良部に肘打ちを決めた技に似ている。


「相手の顎を狙う際は、左半身から懐に入り肘を突き上げる」


 師範は体を一瞬沈ませたかと思うと、思い切り左腕ごと肘を打ち放った。滝川はそこに伊良部の姿を想像してみる。これなら長身の伊良部にも肘を当てることができる。井川と同じように武者震いが滝川を襲った。自分の肘が相手を倒す。まさに一撃必殺の技だ。


「藤野くん、君は合気道のセンスがある。もうひとつ投げ技を教えよう」


 師範は藤野の左手を下へ、右腕を上に持ち上げた。そのまま藤野の右側面に師匠が体を入れたかと思ったら地面に叩きつけられた。


「これが天地投げだ。小出返しでダメージを与えた相手へのトドメとして活用できる。捻った方の手首を下に下げ側面から投げるんだ」


 藤野もキモオタ2人と同様に武者震いが襲った。表と裏の両方を覚えれば、小手返しからさらに相手へ切り込むことができる。まさに勝負を決める大技だ。


 キモオタたちは小手返しと正面打ち一教に加え、各自の技を追加で練習した。表と裏でも同じリズムで投げられるようひたすら練習する。やがてあっと言う間に2週間が過ぎようとしていた。


「君たちは最低限の技を覚えた。だが、喧嘩と稽古は別物だ。恐らく君たちには散々イジメられた負け癖がついているだろう」


 キモオタ達は伊良部の顔を思い浮かべる。途端に背筋がビシッと伸びる。間違いなく技など繰り出す前に体が硬直するだろう。


「恐らくそこが君たちの最大の弱点になる。いいか。飲まれたら負けだ。君たちは素人が知らない腕の決め方を覚え、それぞれの特徴を生かした必殺技もある。だが飲まれてしまえば何もできない。相手を格下と思って戦え」


「はい!」


 キモオタ達は大きな声で挨拶を返した。2週間前はおどおどした返事しか返せなかった3人の姿はそこにはなかった。



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