1.
可愛らしい朱色の髪の女の子が第一子として次期伯爵の家に産まれたのは、穏やかな春の光がまだ弱々しい、早朝のことでした。
「まあ……!可愛らしいですこと!」
「ブルームが産まれた時のことを思い出しますね……」
「あなたはあの時、熊のように周囲をウロウロとしていらっしゃったそうですものね」
「あの時は……執事長に何度も、『落ち着いてください。今、私どもに出来ることは殆どありません』などと言われましたねえ……」
「それはそうでしょう。どんなに私たちが焦ったとしても、子が産まれるときは専門の者たちでないと危険ですわ」
「何にせよ、無事に産まれて一安心ですねえ」
「ええ……!見てください!この可愛らしい指!」
「母上、あまり触らないでください。産まれたばかりですよ」
「あら!もうあなたのものだと思っていますの?ブルーム。シャアラ様にお礼も言わずに!」
まだ若い伯爵子息……もとい次期伯爵は、そこでようやく、自身の妻を振り返りました。
「大変でしたねシャアラ。私の子を産んでくれたこと、感謝申し上げます」
「まあ……!いつにも増して堅苦しいこと」
年若い次期伯爵夫人は、コロコロと朗らかに笑いました。
「そんなことより、名前を付けてくださいまし」
「空色の瞳に、鮮やかな朱色の髪……。いえ、色で名を決めるのは安易でしょうか……?朝日と共に産まれてきましたから……ルーシーではどうでしょうか?」
「ルーシー!いい名前ですわ!」
「あなたは今日からルーシーですわ」
「我が一族のところへようこそ、ルーシー」
「こんなに賑やかな家に産まれてしまっては、ルーシーはこれから大変ですね」
「人手はいくらでもあっていいのですわ。子育ては数人では大変ですもの」
「母上、今問題になっているのはまさにそこです。シャアラ、本当に乳母は雇わなくて良いのですか?」
「ええ。私、きちんと自身の手で我が子を育ててみたいのです」
「あら!シャアラ様、そうなのですか?これからも引き続き伯爵家の執務も覚えなくてはなりませんから、とても忙しくなられますわよ……?」
「忙しすぎて体を壊してしまうのではないですか?」
「はい、お義父様にもお義母様にもご心配をお掛けしてしまうかもしれませんが、出来るだけやってみようと思いますの……!ただ、この子が乳離れしたらきちんと執務に戻りますから、それからはお2人のお手を煩わせてしまうかもしれませんわ……」
「ははは、それぐらいならいいですよ。何故なら私はあと数年で隠居するつもりですからねえ」
「えっ!父上!?聞いていませんよ!」
「私たちも、もう随分といい年齢になってしまいましたもの。あなたもあと数年で領主の仕事は任せても大丈夫でしょうし、私たちは王宮の仕事も少ししなければなりませんからね。世代交代は早い方が良いでしょう?」
「それに、こうすればブルームにも箔が付くでしょう?」
「早々に伯爵になってしまえば、他の同年代の貴族との交渉も少しやりやすくなりますわよ」
「そうですが……」
シャアラは貴族夫人にしては珍しく、自身の手で子を育ててみたいと考えていました。幼い頃から生き物の世話をするのが好きだったことも理由の一つかもしれません。
シャアラは、畜産で有名なガラード地方出身でしたから。
そして、伯爵夫妻はこの国の貴族にしては珍しく、早々に隠居しようと結婚当初から決めていました。
人間の欲望は絶対的な悪ではありません。自身の欲望を節度をもって制御すれば、爆発的な力にもなり得ます。
ただ、自覚していない者が多すぎるため、簡単に欲望に流されて悪の道にまで流れ落ちてしまうのです。
反対に欲望が薄い者は、生きる意欲すら薄い場合があります。この残念な非対称性を、それなりに上手く制御していたのが、この伯爵夫妻でした。
「お祖父様!お祖母様!今日は輪投げをいたしましょう!」
「おや、ルーシー。今日も来てくれたのですか?」
「ええ!毎日だって来ますわ!だって私、お2人が大好きなんですもの!」
ルーシーが5歳になると、シャアラは執務にかかりきりになりました。50歳になった伯爵は宣言通り本当にブルームに爵位を譲り、年若い新米伯爵と伯爵夫人は執務に忙殺されたのです。
元伯爵となったルーシーの祖父は、同時に同じ敷地内の別邸へと移っていました。本邸より少しだけ小さな屋敷ではありましたが、本邸が大きすぎるだけで、充分豪華で広々としていました。
「毎日ルーシーと遊んでばかりでいいなんて、夢のような老後ですねえ」
「あら、スーヤーも加えてくださいまし!」
「まあ……!ルーシーはもうスーヤーのお世話をしていますの?」
「……ほんの少しですわ」
「まだスーヤーは3歳ですからね……。でも、ルーシーはきちんと"お姉様"をしているのですね」
「まだ小さいのにお利口ですこと」
「私、もう小さくありませんわ!お姉様ですもの!」
ルーシーは胸を張りました。スーヤーは、あれから2年後に産まれた、ルーシーの弟です。
明るい水色の髪に薄紅色の瞳は、まるでルーシーの髪や瞳と反対になるように産まれてきたかのようでした。
いつもルーシーが一通り遊び、疲れると、冷たい果汁水と可愛らしいお菓子で小さなお茶会が始まります。
「ルーシー、いつも来てくれて嬉しいのですが、明日はなるべくこの屋敷の近くに来たり、はしゃぎ回らないようにしてくださいね。特に薔薇園には」
「あら、どうしてです?」
「明日は久しぶりに、私の古い友人がやってくるのですよ。高貴な方なので、失礼があってはいけませんからね」
「本当に久しぶりですわね。奥様もいらっしゃるのかしら?」
「いや、今回は来ないそうですよ。別の用事があるとのことでした」
「だからお茶会は開かなくて良いとおっしゃっていたのですね。残念ですわ……」
「ふーん……お祖父様のお友達?」
「ええ、そうです。ルーシーも大事ですが、お祖父様はお友達も大事にしなければなりませんからね」
「……!そうですわよね!お友達は大事にしなければなりませんわ!」
ルーシーは目を輝かせて頷きました。その国では、多くの貴族子女はお披露目まで他の子どもと遊べませんでしたから、殆どが友達というものに憧れていました。
ですが、いざ翌日となると、ルーシーは朝からそわそわし始めました。
(お祖父様のお友達……。見てみたいですわ……!高貴な方って、どのようなお方なのかしら……?)
「す、少しだけなら気付かれませんわよね……?」
こうして、好奇心を止められないルーシーは、元伯爵の言い付けを破り、お茶会が開かれている別邸の薔薇園をこっそり覗き見ることにしたのです。




