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サユキ編 その1

  児童養護施設とは、様々な理由から保護者の元で暮らすことができないこどもが暮らす施設である。


  入所の理由として最も多いのは保護者からの虐待だが、それ以外にも貧困による養育困難や、保護者との死別などが挙げられる。

 施設では概ね2歳から18歳までのこどもたちが、ここを家として共同生活を送っている。




 ある初夏の日。


 この施設の庭を、一人の女性が車いすを押しながら歩いていた。


 女性はエプロン姿で、雰囲気から職員であることがわかる。首から下げた名札には『新川 一花』の文字。『しんかわ いちか』とふりがなも振ってある。


 イチカは歩きながら車椅子に乗った少女に話しかける。


「ずっと雨だったけど、やっと晴れてくれて気持ちいいね。雨の日にお部屋で本を読むのも好きだけど、こうしてお外を散歩するのも好きなんだ。あ、ほら、ツバメが飛んでるよ。ねえ、サユキちゃんは何が好き?」


 少女は気弱そうな表情を浮かべ、メガネの奥で不安そうに視線をキョロキョロと動かしている。


 イチカとサユキの横を、二人のこどもが駆け抜けていった。


 小学3年生のマナと、1年生のナオカである。


「ナオカー、はやくはやく」


「あ、ちょっと、待ってよ、マナー」


 イチカは走り去る二人に「怪我しないようにねー」と声をかけた。


 マナとナオカの背中が見えなくなると、サユキはゆっくりと口を開く。


「私は……大丈夫なので……他のこどもたちを……見てあげてください」


 すると、イチカはこどもっぽく「えー」と不満を口にする。


「私は、サユキちゃんが心配だから一緒にいるんじゃなくて、サユキちゃんと一緒にいたいから、一緒にいるんあよ」


「へ……」


 予想外の言葉に、サユキは戸惑いの表情を浮かべる。


 二人の頭上高く、ツバメが飛び去っていった。




喜多(きた) 幸幸(さゆき)  13歳 中学2年生




 およそ一年後。ある六月の朝。


 施設の一階にある和室。


 和室と言っても、畳の上には毛の短いカーペットマットが敷かれ、洋室風に改装されている。


 壁際には背丈の低い本棚が並べられている。


 障子を取り外してカーテンを取り付けた窓から朝日が差し込み、ベットを照らす。


 ベットに、一人の少女が寝ていた。サユキである。


 枕元に置いた目覚まし時計のアラームが鳴る。サユキはベットから手探りでそれを止めた。


 しばらく目覚まし時計に手をかけたまま動きを止めていたが、やがて、ベット脇の手すりを掴み、腕の力を使いながら上体を起こした。


 そして、長く、ゆっくりと息を吐く。


「もう、起きなきゃ……」


 そうつぶやいたものの、サユキは動かない。普段より少し荒い呼吸。


 ふすまの向こう側から、起きてきたこどもの声が次々と聞こえる。みんな、挨拶をしながらダイニングへ集まる。


「おはようございます」


 これは中学一年生のアンナの声。


「おはよー」


 そして高校三年生、ツバサの声。


「おっはよー!」


 元気な大声は小学四年生のマナ。


「おはよ」


 そして、小学二年生のナオカの声。


 サユキは一度、咳をした。


 昨日から泊りで勤務している若い男性職員のトシヤと、朝だけの応援に来ている女性職員マイコ。その二人指示を出し、こどもたちは朝食の準備をはじめる音が聞こえる。


「サユキちゃん、今日は寝坊? 珍しいね」


 トシヤがそんなことを言った。


「私、起こしてきます」


 アンナの声がして、そのまま足音が近づいてくる。


「サユキちゃん、起きてる?」


 そして、ふすまごしに呼び掛けてきた。


「アンナ……」


「大丈夫? 何かあった?」


 サユキは迷うように視線を左右に動かしたあと、ゆっくりと口を開く。


「うん。大丈夫……。すぐ行く」


 しかし、アンナは納得していない様子だ。「入るよ」と一言断ってから部屋に入り、ベットの脇までやってきた。


「サユキちゃん、なんか体調悪そうだね。ちょっとごめん」


 アンナはサユキの前髪をかき上げると、自分のおでこをサユキのおでこにくっつけた。


「う~ん、サユキちゃん、熱あるんじゃない? 職員さん……マイコさんの方がいいよね。呼んでくるね」


 アンナは小走りで部屋を出ていった。




 しばらくして、職員のマイコがやってきた。マイコは三十代半ばだが、身長が低く童顔なため、こどもの様に見える。


「サユキちゃんどうかな? 風邪っぽい?」


 サユキは少し考えた後、マイコから目をそらしながら言う。


「大丈夫……です。大したことないはずなので、動けば平気になるんで」


 サユキはベットの上を移動して、車椅子へむかおうとする。


「無理しないの。見てわかるくらい顔色悪いし、だるそうだよ」


 マイコはサユキの両肩を優しく掴んで止めた。


「でも……」


「とりあえず、一回体温測ってみよ。ねっ」


 サユキはまだどこか不満そうだったが、とりあえず車椅子への移動はあきらめて、ベットに腰かける。


 マイコはエプロンのポケットからデジタルの温度計を取り出した。


「あの……自分で測れます」


「うん。わかった」

 

 体温計を受け取ったサユキはパジャマの一番上のボタンを外し、脇に体温計を挟んだ。




 数分後、体温計からピピっと電子音が鳴る。サユキは抜き取って液晶画面を確認した。


『38.2℃』


「どうだった?」


 マイコに促され、サユキはしばらく迷うように視線を動かした後、あきらめの表所で体温計を手渡した。


「38.2度かー。けっこう熱あるね。関節痛いとか、吐き気するとかある?」


 サユキは首を横に振った。


「大丈夫……です。ちょっと、倦怠感があるだけなので」


「そっか。でも、今日は寝てようね。今日って部活の日だっけ?」


 サユキは小さくうなずく。


「じゃあ、学校にも連絡しとくね」


 サユキはしばらくマイコの顔を見つめたあと、腕の力を使ってベットの真ん中に移動すると横になった。


 マイコは掛け布団をかける。


「……ごめんなさい」


 サユキは今にも消えてしまいそうな小さな声でつぶやく。


「何か欲しいものある?」


 サユキは迷うようにしばらく目をキョロキョロと動かす。


「あの……今日の担当……誰ですか?」


「今日? 今日はね、カナちゃん。あと、夜にはリホちゃんも来るよ。ちゃんと引継ぎしとくから大丈夫だよ。安心して」


 サユキは長く息を吐き、ゆっくりと目をつむる。


「そうですか……」


「じゃあ、何かあったら言ってね」


 マイコが部屋を出ていく音が聞こえた。




 二十分ほど後。


「いってきます」


 ツバサが学校へ行く声が聞こえた。サユキは布団にくるまり、目をつむっていた。


 それから十分ほど後。


 そっと、ふすまが開く音がした。サユキは横になったまま、ゆっくりと顔を動かしてそちらを見る。


「サユキちゃん、具合どう?」


 アンナが少し開いた隙間から顔をのぞかせ、控えめに声をかけてきた。


「う~ん、なんか体が重くって、頭もちょっと痛いかも」


 サユキは消えてしまいそうな小さな声で言った。


 アンナは隙間からのぞかせた顔で柔らかい笑みを浮かべる。


「私、学校行ってくるから、ゆっくり寝てて」


 そう言って立ち去ろうとするアンナを呼び止める。


「待って、アンナ」


「ん? 何かな?」


「アンナ、あのね……」


 慎重に言葉を選ぶサユキを、アンナはジッと待つ。


「あのね、カナさん……。カナさんって……アンナはどう思う?」


 考えた末に、出てきたのはそんな言葉だった。


「カナさん? 元気な人だなって思う。なんでも話しやすいし、好きだよ」


 アンナはサユキの質問の意図がわからないようだったが、それでも答えた。


「そっか……。学校、気を付けていってらっしゃい」


 アンナは小さくうなずくと、今度こそ本当に去っていった。




 それから五分ほど後。


「いってきまーす!」


 マナの大きな声が施設に響き渡る。


「マナっ、サユキお姉ちゃんが風邪で寝てるから、静かに」


 ナオカがたしなめる声。こちらもそれなりに大きな声だ。


「あ、そうだった!」


 そこで、マイコの声が聞こえる。


「二人とも、忘れものないかな?」


「大丈夫だ。じゃあ、いってきまーす!」


 マナと、


「うん。いってきます」


 ナオカも学校に行った。先ほどまでの喧騒が嘘のように静かになった。


 サユキは枕を手に取り、顔に押し当てる。


 脳裏に響く、女性の声。


「サユキちゃん、今日はどんな服着てみる?」


「サユキちゃん、お手洗い大丈夫?」


「サユキちゃん、お風呂気持ちよかったね」


「このくらい平気だよ。気にしないで、サユキちゃん」


「サユキちゃん……」


「サユキちゃん……」


 サユキはそっとつぶやく。


「……イチカさん、ごめんなさい」


 小さな小さなその声は、誰の耳にも届くことなく、枕に沁み込んでいった。

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